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蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』

 蓮實重彦は、柄谷行人と並んで、私が最も熱心に読み、影響を受けた批評家である。群像新人賞を受賞した「あらくれ」論の下敷きに『小説から遠く離れて』があったのは間違いない。とはいえ、私は蓮實の批評を当時正確に理解していたとは言えないし、今も分かってはいない。幸福な誤解の積み重ねが偶然私には幸いしただけなのかもしれない。
 蓮實の批評対象は、大雑把に言って、映画・小説・その他に分れるが、この中で映画が理屈抜きの「愛」と不可分に結びついているのに対し、小説は「愛」とは必ずしもいつも結ばれてはいない。蓮實が小説を特権的なジャンルとするのは、それが批評を刺激する装置として機能するからだ。蓮實は「文学」一般を語らない。詩について蓮實が言うべき言葉を想像するのは不可能だ。批評を刺激するのはあくまで「小説」だけである。
 この蓮實の文芸批評の原点でもあり、終着点でもあるのが『「ボヴァリー夫人」論』と言える。長い間断片的に書き続けられ、完成しないのではないかと伝説化しつつあった論考が、分厚い一冊の本として現前することになったのは、喜ばしいことである。ここには蓮實の文芸批評のエッセンスがすべて込められていると思う。私は「ボヴァリー夫人」は学生時代に一度読んだきりで(もちろん日本語)、今このためにもう一度再読する気もないのだが(その意味ではこの本を本当の意味で読むことは最初からあきらめてはいる)、この本は、蓮實節と言えるロジックとレトリックを一応踏まえておけば、「ボヴァリー夫人」自体を読まなくても楽しめるようにはなっている。というか、以前の読者無視の傍若無人の書き方(そこが魅力でもあったのだが)に比べれば、非常に懇切丁寧で読みやすい。「説話論的」とか「主題論的」とか、以前は文脈から気合いで了解していた概念が、かなり明快に定義されている。
 私は初出を追いかけてはいなかったので、ほぼすべての文章が初読であるが、読みながらの第一の印象は、ひたすら「懐かしい」の一語に尽きる。あの頃はこうだったんだよな、という感覚である。これは決してネガティヴなのではなく、それ自体はポジティヴな手放しの懐かしさだ。最近の蓮實氏の作品論からはあまり感じられない読むことの快楽がここでは時間を飛び越えて感じられる。と同時に、以前分かっていたつもりのことが実は分かっていなかったことが分かった気がしたりもする。
 たとえばサント=ブーヴの批評の標語的な抽象性を批判して、ボードレールの批評の具体性を称揚する身振り。これは近代日本文学における「小説の筋」論争で、芥川を批判し谷崎を称揚した身振り(共同討議『近代日本の批評・昭和篇』)とよく似ている。ジャーナリスティックな批評的身振りを批判し、愚鈍(とされる)な作品読解を擁護する姿勢は、「ボヴァリー夫人」批評にその原点があるのだとうかがえて面白い。
 そして著者は次のように書く。「この卓抜な批評家としてのボードレールを起源とする「批評的なエッセイ」の系譜というものが、『ボヴァリー夫人』のまわりにまぎれもなくかたちづくられている。『「ボヴァリー夫人」論』の著者が漠然とながら夢想しているのは、ボードレールに始まり、マルセル・プルースト、ボール・ヴァレリー、シャルル・デュ・ボス、アルベール・チボーデをへて、ジャン=ピエール・リシャールやロラン・バルトへといたる「批評的なエッセイ」の系譜につらなることにほかならない」(11ページ)。
 ここに表明された自己卓越化への欲望は、これまでの蓮實の批評を念頭に置くと、あまりに無防備でナイーヴに見えるかもしれない。挙げられた固有名の系譜は、「すぐれた作家はすぐれた批評を書く」という紋切型辞典の一節の例証に使えそうであり、そうした系譜を挙げてそこに自己同一化しようとする著者の態度からは「批評家は作家に嫉妬する作家志望者である」という紋切型も導き出せる。系譜の中でリシャールのみはデリダによって「殺され」(蓮實の言い方による)現在では埋もれた批評家だが、蓮實はそれを敢えて他の輝かしい星々たちの中に加え、リシャールの方法である「主題論」(とは言わば批評的二次創作であるのだが)を発展させ縦横に駆使することで、自らも作家たらんと欲望しているのかもしれない。ただそこには、素性の知れない孤児が、高貴な系譜の一員を成り上がろうとしているようないかがわしさが漂っていて、その欲望はあくまで「夢想」という慎ましい表現を取るしかない。かくてサント=ブーヴを批判しながら、むしろその批判そのものにおいて蓮實の批評にはサント=ブーヴ的な抽象性が否応なくまとわりつくのであり、この倒錯に対して蓮實のテクストは盲目である。なぜならこの盲目こそが、蓮實を長年にわたって文壇ジャーナリストとして生き延びさせて来たものにつながっているのだから。
 このブログで具体的なことを書く余裕はないから、これまたサント=ブーヴ的な印象論(私はサント=ブーヴもろくに読んではいないのであくまで蓮實がイメージ化したそれ)のみを連ねることになるが、私は本書を一読して、壮大な博士論文、あるいは博士論文の幽霊を読んでいる気がした。蓮實はフランスの大学で博士論文を書いているが、自分が禁欲したのはこの博士論文を書いている間だけだったと対談で回想していたのを覚えている。快楽の人である蓮實が唯一自ら認めた禁欲が博士論文の執筆であり、しかもたぶんその博士論文は満足できるものではなかった。そしてそのことは相当なトラウマになったのではないか。蓮實が日本の人文アカデミズムにおける博士論文の制度化にこだわり、『知的放蕩論序説』で絓秀実に大学を辞め大学院に再入学してでも博士論文を取るように勧めたことは印象に残っているが、『「ボヴァリー夫人」論』はその意味で出し直された博士論文と考えるといろいろな意味で納得できる理想的な作品に見える。ここではたぶん博士論文としての形式的要件をあらゆる意味で満たしつつ、アカデミズムとの執拗な対話(西欧の文学理論や物語理論の限界が繰り返し批判される)の中で、極めて個人的な夢が語られている。
 私はそのテクストの在り方に、鴎外晩年の史伝を想起する。北条霞亭の手紙を年代順に並べて芥川をあきれさせたのに似たマニエリスムがこの本には感じられる。北条霞亭が取るに足らない凡庸な人物だったかもしれないのに比べれば、「ボヴァリー夫人」は凡庸とは言えない近代ヨーロッパを代表する小説の一つ(そう断定できないと蓮實は言っているが)には違いないだろう。しかしその豊かな細部の事件性を列挙する蓮實のテクストからは、どこか「空車」を牽くような虚無が、漂って来る。
 この本の中で、ファイヒンガーの「かのように」哲学が引用され批判されているのは、この意味で興味深い。鷗外が小説の主題として取り上げたことで名高いこの主張(それにしても未だにファイヒンガーの日本語訳がないのは問題だ)が、現在の文学理論の中にも流れ込んでいることを指摘した上で、蓮實はそれを批判し、「フィクション」とは「かのように」ではないことを力説する。「フィクション」とはフェイクではなく、「テクスト的な現実」という真実なのだ。蓮實は鷗外的なものと自身との類似点にたぶん自覚的で、だからこそ差異化に勉めているとも言える。その何か憑かれたような必死さを見ると、蓮實の批評は鷗外的「諦念」とは無縁である、とそう同意したくもなるが、それでもそこはかとない悲哀が残るのは否めない。
 そしてこの「テクスト的な現実」は「社会的」であるとされる。「社会的」とはたとえば「その内的な要素の組み合わせだけで成立する物語の非=時間的な閉域に対し、外部の侵入をこばもうとしない言葉の配置」の在り方(118ページ)であるが、この「社会的」という言葉は、たぶん「政治的」(あるいは「国家的」)という言葉とは互換できず、むしろ対立するものであるのは間違いない。紋切り型の物語を消費するしかない政治に対して、それとは別の自立した社会への夢。日本の「大正」時代にそれを読み込むことを断念した蓮實は(『暗夜行路』を『ボヴァリー夫人』のように読む可能性ははあるのかもしれない)、フランス第二帝政期にそれを見出す。この「社会的」なるものは、日本においては未だ未成立であるが故に、現在でもアクチュアルでリアルな夢であり続けるのかもしれない。しかし蓮實の「社会的」という言葉を読むとなぜか「文壇的」と読めてしまう。「文壇」こそ、「社会的」なものの未成立の日本社会において、「仮面紳士」と「逃亡奴隷」が「社会的」なものを擬似的に演じる場であり、蓮實は常にそのような「文壇」を擁護して来た。
 ともあれ私はこの本を読んで、私がかつて書いた『徳田秋聲論』の問題点の一部が分かった気がした。私は秋聲論という作家論ではなく、たぶん「あらくれ」を論じるだけで一冊の本を書くべきだったのだ。そんなことが当時の私の力量でできたかはともかく、私は「あらくれ」論で賞を取った後、この「あらくれ」というテクストから逃げ続けて来た気がする。そのことを再認識した意味だけでも私には本書は意味があるものだった。
 そう言えばフロベールは文学史上「自然主義」と結びつけられることが多いと思うが、『「ボヴァリー夫人」論』は「自然主義」については素通りしている。そもそも蓮實は「自然主義」についてほとんど語っていないが(「私小説」については語っている)、その中で私に最も印象に残っているのは、蓮實がドゥルーズに対してインタヴューした際(これは蓮實自身が「アンチ・インタヴュー」と称したように、蓮實としては珍しくちぐはぐなものになっている)に、ドゥルーズとの間で「自然主義」をめぐって交わされた次のやりとりである。

 「ところで、日本には、いわゆる「自然主義」に相当する文学運動は存在したのですか、という彼の質問は、ゾラの全集に序文を書いている彼にしてみれば当然のものであったので、フランス「自然主義」が日本的風土に触れて「心境小説」、 「私小説」へと変質してゆくさまを、その語り口の図式性にわれながら辟易しながらも説明してゆくと、それは何とも不可解な変換だと、予想以上の興味を示して耳を傾けたのだ」(『批評あるいは仮死の祭典』)。

 いつもは紋切り型を軽やかに解体し、優雅に自分好みの出来事を演出して見せる蓮實が、ここではなすすべもなく凡庸な紋切り型をオウム返しに言わされてしまい、そのことに自分でも「辟易」している。それはおもしろい光景である。現在もしドゥルーズの質問が再び問われたら、蓮實はどう答えるだろうか。、『「ボヴァリー夫人」論』からその答えを想像することはできない。
 ここで蓮實がドゥルーズに説明したという「フランス「自然主義」が日本的風土に触れて「心境小説」、「私小説」へと変質してゆくさま」とは、近代日本文学史最大の紋切り型の一つであり、それは蓮實の師と言える中村光夫が作ったものである。紋切り型であってもそれが「真実」 なのだから仕方ないではないかと反論はあるかもしれない。実際中村の図式は今でも「真実」として、近代文学を語る人々の言説において機能し続けている(中村などとっくに乗り越えられていると無邪気に豪語する近代文学研究者も、あるいはいるのかもしれないが)。だがそれはどのように「テクスト的な現実」において「真実」なのか。それはまだ誰も検証していない。
 いろいろ批判的に書いてはみたが、この本が有用であり(小説の読み方の手本になり、文学理論についての勉強になる)、何らかの「勲章」に値するテクストであることは確かである。そしてもしそのような受章の機会があるなら、それを進んで受ける方が、蓮實的と言えるのかもしれない。

 

 

 
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プロフィール

大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』

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