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文学を愛することについて

「子午線」6号に私が寄稿した批評「ただ一つの、自分のものでしかない歴史」について、初めて活字で論評が出た(岡和田晃「〈世界内戦〉下の文芸時評第四四回」、『図書新聞』2018年10月20日)。非常にありがたい。批判的な評だが、無視されるよりはましだし、その方が私が自分の考えを進める契機になる。感謝しつつ遠慮なく社交辞令抜きで応答しておきたい。
 岡和田氏の私への批判点は二つある。一つは私の論は「アシモフが基盤になることからもわかるとおり、アナクロで危機感が薄い部分もある」という指摘、もう一つは筒井康隆の慰安婦像についての発言「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」について私が「どんなに愛国的なネット右翼でも、この言葉に従って実際に慰安婦像の前に行ってペニスをしごいて射精する男はいないだろう」と書いたことに対する「台湾の慰安婦像を蹴りつけるネトウヨ(しかも、杉田水脈の周辺から)が出てきている以上、慰安婦像を性的に汚す輩がいつ現れても不思議ではない」という批判。
 最初の批判について言えば、アシモフが「アナクロ」であることはたぶんその通りなのだろうと思う。しかしまさに「アナクロ」=時間の線条的な秩序の壊乱こそが、「歴史の終り」が「歴史認識の始まり」をもたらしたとする私の論の主題であった。私はアシモフを文学的に評価しているわけではない。ただアシモフの「ロボット工学三原則」は日本国憲法を考えるためのモデルとして有用だと思うから使っているだけである。アシモフが「アナクロ」だということは日本国憲法も「アナクロ」だということであり、そしてその「アナクロ」と真剣に付き合う必要があると私は考える。東浩紀以降の批評家は、時間が過去から未来に線条的に流れることを前提として今を語ることが多いように見えるが、私は最初の批評が徳田秋声であったことが示すように、最初から「アナクロ」であり、線条的な時間の中にいたことはなかったし、今もいない。
 「危機感が薄い」という批判がどういう部分を指すのかは分らないが、いずれにしろ「危機感」という内面と「危機」(=批評)とは全く別であり、重要なのは後者である。岡和田氏にとって批評とは、「危機感」を持つことで「危機」を解消しようとする行為であるようだが、私にとって批評とはそれ自体「危機」そのものであるしかない状態である。岡和田氏がアシモフの代りに推奨するJ・G・バラード「終着の浜辺」を読んでみたが、廃墟趣味と抒情性においていかにも「純文学」的ではあるものの、冷戦時代の歴史性を色濃く反映していて、ここからどう出発すれば良いか(「終着」だから出発などナンセンスには違いないが)分らなかった。SFの「文学」的評価について専門家らしい岡和田氏と争う気は全くないが、アシモフのエンターテインメント小説の中で論理的に展開されるあっけらかんとした戦争への反省なき合理主義の方が、現在の世界を考える上で私には参考になる。
 もう一つの批判について言うと、「慰安婦像を蹴りつける」ことと「慰安婦像を性的に汚す」こと、更には「慰安婦像の前に行ってペニスをしごいて射精する」ことの間には大きな違いがある(台湾でやるのと韓国でやるのとでも全く違う)。蹴ることよりも「性的に汚す」ことはハードルが高い。それでもたとえば精子を模した液体、あるいはどこか別の場所で射精した精子を袋に入れて持って行き、慰安婦像にぶちまけることはありうるかもしれない。しかし慰安婦像の前でペニスを露出して勃起し、射精まで導くことは、次元の違う行為である。
 蹴ることが相手だけを傷つける行為であるのに対して、勃起して射精することは相手に欲情し、そのことで自分をも「汚す」行為である。それは単なる「ヘイト」によっては不可能だろう。「ヘイト」に凝り固まった人間は、慰安婦像の前でどうやって勃起できるのか。筒井の言葉は「可愛い」から射精しようと呼びかけることでこの困難を解決している。そこでは「ヘイト」は「愛」と結びついているので、単純にポリティカル・コレクトネスでは切ることができない。だから私は小説で書くべきだったと書いた。そんな差異はトリヴィアルなものでしかないと言われるかもしれないが、文学はそういうトリヴィアルな場所でしか生き死にをしない。私は筒井の言葉を岡和田氏よりは文学的に受け止めて解釈したつもりである。
 岡和田氏は(引き続いて綿野恵太氏の論考を批判する文脈の中で)私のことを「文学嫌い」と言うが、主観的には私は私にとって文学だと思うものを愛している(文壇は好きではないし、文壇に依存した文学は基本的に嫌いだが、たとえ文壇的でも良いと思えた作品は好きだ。そうでなければ秋声にここまでこだわったりしない)。だが私はそのことをいちいち表明したり、告白したりしたくない。
 「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」である。岡和田氏はこのことを真剣に考えるべきではないか。「文学嫌い」という根源的な「ヘイト」があると考えて、その根源的な「ヘイト」を攻撃することは、それ自体が「ヘイト」の典型的な構造にはまっている。他者が持っていると想定される根源的な「ヘイト」は何時でも主体に先取り的に想像されたものでしかないのだが、「ヘイト」の主体にはその想像性は絶対に見えないのであり、「ヘイト」は客観的に実在して見える。この時間が脱臼した構造的盲目性こそ「ヘイト」の本質である。
 いずれにしても私は文学を愛することよりも、文学に愛されることに関心を持っている。同時にそのために何もできないことに絶望してもいる。この時少なくとも文学に愛されるために文学を愛する身振りをするのは最悪である。それは容易に「過度の求愛」(©渡部直己)に陥り、何もかも台無しにするに決まっている。
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大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』

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