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フランス革命について

 6月の末に、鈴木秀美指揮のオーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会に行って来た。前半はモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』の序曲とアリアの抜粋、後半はハイドンの交響曲二曲(10番、100番)というプログラムだった。いつも通り安定した古楽器演奏を適切な大きさのホールで聴く喜びを堪能した。こういう演奏を聴くと、ハイドンの交響曲をサントリーホールや東京芸術劇場で聴くのは野蛮だと口走りたくなる。100番は、第2楽章の途中で打楽器隊が楽器を豪快に打ち鳴しながら観客席の間の通路を通って舞台に上がるという趣向で、音量的にもゴージャスで非常に満足した。   
 音楽的には大満足だったが、この打楽器隊が顔を黒く塗って「トルコ風」(?)の装いをしていたことについては、よくある趣向とはいえ、違和感を感じた。ポリティカル・コレクトネスを言うつもりはないが、18世紀西欧社会にとっての「オリエンタル」な他者としての「トルコ」のイメージを、何も21世紀の日本で再現しなくてもと思った。片山杜秀の近著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』によると、テレマンからベートーヴェンに至る「トルコ風」の音楽は、オスマン帝国の軍楽隊の経験消化に由来するとのことだが、現代において「トルコ風」の音楽を演奏するのであればそこに現代からの批評を加えて見たらどうかと思う。
 私はこのプログの初期の記事「マリー・アントワネットと軍隊交響曲」において、100番を、当時同時進行中のフランス革命において優雅なものが軍隊によって踏みにじられるイメージで解釈してみたことがある。特に第2楽章は断頭台に牽かれて行くマリー・アントワネットを私は想起するのだが、このコンセブトで演出するなら、打楽器隊はトルコ人ではなくフランス革命軍の格好をするべきということになるだろう。そして第2楽章最後のラッパの合図と共に起きる全オーケストラの轟音と同時にたとえばフランス人形(マリー・アントワネットに見立てた)の首を斬って見せたら完璧な演出となるのだが(悪趣味なのは認める)、これをもし日本の演奏会でやったら(特に皇族が来るコンサートで)ドン引きされることは請け合いに違いない。ベルリオーズの幻想交響曲の第4楽章の断頭台上への行進が、現代の聴衆の顰蹙を買わず、逆に快感を覚えさせるのは、それが恋愛という普遍的動機に基づいた個人的な行動的犯罪に対する刑の執行であるからであり、そこで聴衆は個人の内面の自由と社会的な正義の欲求の双方を同時に満たして満足する。これに対してマリー・アントワネットの処刑を音楽的に再上演してみせることは、とりわけ天皇制の残存する現代の日本においては、認知的不協和を引き起こす危険を持つ。
 蓮實重彦は18世紀のフランスのヴォルテール的な知性が「フランス革命が導入した大殺戮」をどうして容認したのか分からないと言い、フランス革命は「68年」とは比較にならないテロルであって、知識人は未だにそれについて「責任のある発言」ができていないと指摘している(『「知」的放蕩論序説』)。この蓮實のフランス革命への疑問は、蓮實の現代日本に対する態度とつながっている。かつて蓮實は、吉本隆明が『悲劇の解読』の中で横光利一の「悲劇」を「アジア的な専制の原理」と結びつけて論じたことに疑問を呈し、「アジア的な専制共同体」を自分は実感として理解できないと言っていた(磯田光一との対談、『饗宴Ⅰ』所収)。天皇制下の日本を「市民社会」である「かのように」把握し「アジア的な専制共同体」の現前をを否認するという蓮實の日本に対するスタンスは、フランス革命に対する批判的態度と連動するものであると言える。
 だがやはり「東アジア的専制主義」(これまで「東洋的専制」など、いろいろ言葉に迷って来たが、私は今書いている本では「東アジア的専制主義」という言葉で統一することにしている。ここで言う「東アジア」とは漢字文化圏を指し、東南アジアやインドは含めない)は、現代の日本においても現前している。たとえば今話題沸騰中の「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由」展覧会をめぐる騒動(「平和の少女像」などの展示内容が「反日」的であるとして名古屋市長や官房長官が疑問を呈し、抗議が殺到して脅迫沙汰にまでなってついに3日間で展示中止に追い込まれた)に関連して、「spartacus@accentdeverite」氏は、展示中止に反対するツイートの合間に、次のように書いている。

「近年の日本の嫌韓・嫌中は、東北アジア覇権国を自負してきた「日帝」が、「華夷秩序」の周縁―なにしろ「漢の奴の倭国王」である―という本来の地政学的地位に格下げされる際に、「日帝」構成員が示す去勢否認の症状にしか見えない。また、「行動療法」で痛い目に遭わないと治らないのだろうか」

 私も展示中止には反対だが、しかしこのような論法による日本の嫌韓・嫌中(日本への敵対行為は「嫌日」より「反日」と呼ばれることの方が多い。この「嫌」と「反」の非対称性は日本と中韓との間の関係性の非対称を示している)への意味づけは、批判として有効には見えない。 「華夷秩序」に「本来の地政学的地位」などというものはなく、「華夷秩序」そのものが錯誤であり、「東アジア的専制主義」の反映である。天皇制は日本固有のものではなく、といって世界普遍のものであるということでもなく、東アジア固有、漢字文化圏固有の「東アジア的専制主義」の一形態(北朝鮮の先軍政治も中国の共産党独裁も別の一形態である)に過ぎない。天皇制を日本固有のものとして批判することは天皇制への有効な批判とはならず、結局天皇制に回収される。
 この「東アジア的専制主義」についての認識の問題は、「表現の不自由」展中止を、日本の市民社会の未熟さの徴候と見るか、それとも市民社会の崩壊の徴候と見るかの違いにつながる。確かめたわけではないが、私の印象では、展覧会中止に批判的なツイートの多くは、後者の立場に見える。少なくとも以前の日本の方が市民社会は機能していたという認識がそこにはある。これは市民社会の表象代行システムを批判したいポストモダニスト的欲望が機能しているとも言えるが、「spartacus」氏の言葉に見られるように、それはしばしばプレモダンで「本来的」な「華夷秩序」のアイロニカルな肯定に帰着する。
 私は日本を含めた東アジアは未だ市民革命以前の状態にあると考える。たとえば台湾や韓国は、それぞれ「統一」した時に、現在の香港のようなことにならないかどうかによって、その民主主義の真価が試されるだろう。東アジアの民主主義はアメリカ軍によって守られていて、アメリカの軍事的現前がなくなったら、たとえ外部からの侵略がなくても内部からなし崩し的に消え去るかもしれない。しかし他方でアメリカに支えられている限り、それは模擬的な民主主義にとどまり続ける。これは第二次世界大戦後不変の構造である。
 そしてこの時、将来において東アジアで市民革命がたとえ可能であるとしても、それはテロルなしで可能なのだろうか。ここで問いはフランス革命に戻る。
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大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』

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