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漱石神話の現在

 漱石神話という言葉は、現在の漱石観を示すものとしては一般には使われていないかもしれない。通常江藤淳の『夏目漱石』が小宮豊隆の「則天去私」的漱石像を打破して以来漱石神話は消滅し、漱石は脱神話化されたということになっている節がある。漱石を私たちが礼賛するのは、神話ではなく真実だからだというわけである。しかし私は漱石神話は様々な形で継続し続けていると考える。少なくともそれが神話ではなく真実だと言うに値するほどの知的労働が、漱石の価値測定に払われている形跡はない。
 最近読んだ岡崎乾二郞『抽象の力』における漱石の強引な使い方は、漱石神話の(少なくとも1980年代以来の)不変の機能ぶりを前提としないと私には理解できない。美術・建築に疎いので分からないが、私の読んだ限りこの本が目指しているのは近代日本の抽象芸術が西欧の影響下に従属していたのではなく、それなりに自立的で内在的な必然性によって展開したという歴史観を構築することであると思われる。そのための理論的バックボーンとして、漱石の『文学論』の「F+f」図式が召喚される。すなわち岡崎氏が日本の抽象芸術の原点に置こうとする熊谷守一の発想に漱石の影響があるというのが、本書の中心的発想である。
 しかしなぜ「F+f」図式なのか。それが分からない。本書では熊谷やその他の芸術家に対する漱石の影響関係が、具体的に説明されることなくアプリオリの前提になってしまっている。たとえば岡崎氏は「一九〇三年にロンドンから帰国し、数年後には発表されはじめた夏目漱石の仕事は、若い芸術家たちの芸術理解を大きく変更するほどの影響力を持った」と書くが、その根拠を何も示さない。漱石が東京美術学校に行って「文芸の哲学的基礎」を講演したことが強調されるが、この講演を具体的に誰が聞いてどのような影響を受けたのかが書かれていない(私が美術史に無知なだけで有名なことなのかもしれないが、少なくとも非常に不親切な書き方である)。熊谷は一九〇三年に轢死事件を目撃したことがきっかけになって数年にわたって《轢死》制作に携わり、その噂を漱石が聞いて『三四郎』の轢死場面を書いたというのだが、当時「轢死」と言えば『三四郎』の前年に書かれた国木田独歩「窮死」をまず思い浮かべるべきではないだろうか(後に芥川が『河童』の中で独歩を「轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人」と呼んでいる)。同年の田山花袋の「少女病」の主人公も轢死する。
 岡崎氏の視野に、漱石と同時代で最も影響力のあった自然主義文学がまったく視野に入っていないのは、実に「批評空間」的風景と言える。それは「読み終えたとき、あなたと世界は完全に更新されているだろう」という浅田彰の帯の言葉が冗談にしか読めない既視感である。 熊谷の《轢死》は一九〇八年の文展で出品拒否をされるが、その時の黒田清輝の「あんな畫は、何処の國でも、又何時の時代でも、公設の展覧会では屹度はねることになつてゐる」という言葉が示すのは、むしろ熊谷の絵が自然主義的な「露骨なる描写」であったことを示すのではないか。熊谷の絵の暗さも漱石的というよりは自然主義的に感じられる。岡崎氏は漱石の『草枕』を重視するが、『草枕』の芸術論は、fを欠いたFにf(憐れ)を回帰させようする反抽象主義的なものに私には見える。むしろ自然主義こそ無理想無解決においてFとfを分解し、抽象への道を開いたと言うべきではないか。岡崎氏の本は、美術の門外漢にとっては啓蒙的で勉強になるのだが、漱石が出てくるたびに突っ込みたくなる部分が多い。私の偏見かもしれないが、漱石が江戸時代の国学を受け継ぎ、時枝理論を先取りしていたとまで行くと、ついて行けないと思わざるを得ない。
 漱石の周りにはいつも曰く言いがたいオーラが取り巻いていて、それが漱石の客観的認識を妨げ続けている。同じ時期に読んだ奥泉光編集のムック本『夏目漱石 増補新版』の冒頭の座談会(奥泉・高橋源一郎・斉藤美奈子)を読むと、奥泉・高橋はもう漱石教の幹部だから仕方ないとしても、斉藤のような人でも漱石を前にすると批評を放棄してしまうのだと考えさせられる。斉藤氏は「漱石ほど有名で漱石ほど読まれない人はいないよね」と言い「高校の教科書に載ったせいで」「漱石はすごく損をしている」と言うが、そんなに教科書に載るのが迷惑なら「こころ」の代りに「蒲団」を教科書に載せた方が、セクハラ教育にもなって良いだろう。
 小森陽一の新刊『戦争の時代と夏目漱石』もかなり神がかった本である。『満韓ところどころ』を扱っているのだが、そこから漱石の日本帝国主義に対する批判意識だけを読み取り、安倍政権批判に接続する。この本が不誠実だと思うのは、「韓満所感」について触れながら「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という漱石の発言について、何も触れていないことである。漱石が小森氏の描き出すような批判的な人間なら、この発言はそれと明確に矛盾している。しかし小森氏はこの矛盾に目を塞ぎ、あたかも漱石がそんなことを書かなかったかのように論を進める。これでは安倍政権を批判できない。むしろ安倍政権をネット右翼より強力に応援することになるだろう。
 デリダは『共産党宣言』の冒頭のくだりを解釈することで一冊の本を書いた。日本にデリダ的な知性がいるなら、「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という一行の解釈だけで一冊の本を書いているだろう。実際今こそそのような本が必要なのではないか。この一行が含むあらゆる事実確認的・行為遂行的な帰結を検証し、その哲学的・思想的・文学的な含意を汲み尽して新たな地平を展開するような本。しかしこの発言が周知されて何年も経つのに、そのような本が書かれる気配はまったくない。それは日本にデリダ的な知性がいないという当たり前すぎる現実を示している。いるのは「ヘイトに対するヘイト」に取り付かれたヒステリー者だけである。
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大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』

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