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ポリティカル・コレクトネスと「嫡出子」性

 私は阿部和重の良い読者ではない。私も蓮實の批評が好きだったので、蓮實にあからさまに影響を受けた阿部の小説を好意をもって読もうとしたが、だんだん付き合いきれなくなって行った。その小説から受ける印象は、ちょうど黒沢清の映画から受ける印象に似ていた。つまり、何かすごいものが出て来そうだったのに、批評的自意識(黒沢も阿部も、蓮實重彦の批評に単に影響という以上のレベルで発想を受け取っている)から妙にチマチマした小市民的細部に拘泥し中途半端に終わってしまう。冗談で変な姿勢で歩いていたら、気がついたらその姿勢でしか歩けなくなっていたというような不自由さがそこにある。そしてこのあえてB級映画的なものに自分を縛る不自由さは、「平成」という時代に対応していたとも言える。
 阿部の新作『ブラック・チェンバー・ミュージック』を読んで、改めて私はそこらへんを考えてみたくなった。私が阿部の小説を読んだのは『シンセミア』 以来久しぶりだったが、この小説を読む気になったのは、北朝鮮の諜報員女性がヒロインという情報を得たからである。実際に読んでみると、新聞小説ということもあるのか、拍子抜けするほど読みやすくほとんどライトノベルと変わらない普通の「物語」に終始していることに驚いた。ただ内容的にはポリティカル・コレクトネス全盛という現在の言説状況を踏まえて、いろいろ考えてみたいことがある(以下ネタバレ注意)。
 主人公は、デビュー作公開直前に大麻取締法で検挙されて映画監督の座から滑り落ちて昔のアパートで逼塞していたが、兄貴分のような新潟の暴力団の親分沢田龍介に、北朝鮮の女性工作員「ハナコ」と共に、金有羅という筆名で書かれたヒッチコック論の載った雑誌を探し出すことを依頼される。このヒッチコック論は、トランプ大統領と金正恩がシンガポールで会談した後、米朝関係が融和していた時期に、トランプの「非嫡出子」を名乗る男が金正日が偽名で書いたものだと言ってコピーを北朝鮮に持ち込んだもので、北朝鮮の上層部はその真偽を確かめ、論文の原本を獲得するためにハナコを日本に派遣したらしい。
 この出だしからして、主人公が「宝探し」の代行を依頼されるという手垢の付きすぎた物語で、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』を当然読んだことがあるはずの阿部氏が、なぜ今更こんな既視感しかないものを書くのかいぶかしく思うが(もっとも最近『小説から遠く離れて』の中で相対的に褒められていた村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を再読する機会があったのだが、まさに小山田圭吾的なものの起源という感じで、その経年劣化ぶりに驚いた)、その蓮實氏自身が『文學界』九月号の特集にこの『ブラック・チェンバー・ミュージック』論(「グラフィティに救われて」)を寄せていて、一見すると阿部氏の物語を追認しているように見えることを書いていて、脱力させられる。ただ良く読むと蓮實氏はこの作品を必ずしも肯定しているわけではなく、むしろ婉曲に批判しているようにも感じられるが、それは私の好意的な拡大解釈だろうか。
 すなわち蓮實氏は「近代の一時期に生まれた散文のフィクションとは、「劇文学」、「抒情詩」、「叙事詩」という西欧の正統的、かつ伝統的なジャンルのどれにも属することのない、いわば「私生児」的なジャンルにほかならない」と毎度読み慣れた公式を提示した上で、それを「近代以降の人類が手にしえた真の意味でおのれにふさわしい積極的な文学ジャンルだとさえいえようかと思う」と肯定し、「いま、わたくしたちが読んでいる『ブラック・チェンバー・ミュージック』もまた、その「私生児」性を免れることはないばかりか、それを積極的に謳歌する作品だというべきかもしれぬ」と書く。しかしそこにはあくまで「かもしれぬ」という留保が付いている。実際それに続いて蓮實氏は、作中でハナコがヒッチコック論を読んで「共和国とは決して相容れぬ、反革命の論理」と断ずることに触れ、物語の最後で自分の名は「正花」(ジョンファ)だと明かして北朝鮮に帰るハナコが「阿部和重の作品を一篇でも読んでいたとするなら、彼女は間違いなく日本にとどまることを選んだだろう」と結論する。このハナコへの批判は、そのようにハナコを造型した(作中でハナコへの批判はない)作者への批判につながるはずである。
 そもそも作中でハナコが読むヒッチコック論は、実際に阿部和重がデビュー前に書いた習作(同じ『文學界』九月号に掲載されている。私はシネフィルではなく、ヒッチコックもろくに見ていないので、これについては論評の資格はない)なのだから、ハナコが阿部の小説を読んだとしても反応は同じく「共和国とは決して相容れぬ、反革命の論理」にしかならないと考えられる。そしてそのことは、阿部の小説自体が、北朝鮮や東アジアの現実に対抗できるフィクションの強度を持ち得ていないことを意味する。
 更に言えば、ハナコが小説を読まないように、主人公の横口健二も、ろくに映画を見ているようには見えない。溝口健二と一字違い(蓮實氏はそのことに驚けと書いているが、何に驚けばいいのか分からない)のこの主人公は、作中でさまざまなB級映画的冒険(謎の北朝鮮女性と日本海を漂ったり、ヤクザに拷問されたり追いかけられたり)をしながら、自分の体験が映画みたいだとはまったく思わないし、それを映像化してみたいという欲望も持たない。これほど映画に無関心な映画監督は異様である。
 その意味で私には、蓮實氏とは逆に『ブラック・チェンバー・ミュージック』は何重もの意味で「嫡出子」的な小説に見える。作中前半で「宝物」として機能していた金正日のヒッチコック論は、途中でうやむやのうちに捜索対象ではなくなり、その後それはトランプの非嫡出子を僭称していた純粋日本人(ちょっとショーンKを連想した)が北朝鮮に持ち込んだ偽作(書いたのは横口の知り合いの編集者)と判明して「宝物」としての性質を失うが、これはむしろ「嫡出子」的なものの「私生児」的なものに対する勝利でしかない。後半はハナコをいかに北朝鮮に戻すかという物語に変わるが、ハナコが帰国を望むのは、北朝鮮にいる彼女の嫡出子たちのためであり、物語は完全に反「私生児」的な方向への解決に向かう。主人公の横口は作品の終わりに向かうにつれてますます、主人公を優しく甘やかす黒幕たち(沢田を始め、古書店の女主人、韓国大使館の女性館員)に操られる傀儡的人形になって行く。
 作品の最後、チャーチズの「グラフィティ」がBGMに流れる古書店の地下室で蔵書整理の仕事をする横口は、北朝鮮の動画の中に横口とハナコを並べた相合傘を発見してハナコの無事を確信する。ただし単行本に付された写真では、相合傘は確認できるが、名前は良く分からない。蓮實はこの写真に「雄弁なイメージ」を読み取っているが、いずれにしても、このラストシーンが示すのは、『ブラック・チェンバー・ミュージック』は、チャーチズの「グラフィティ」(そこには恋人たちがバスルームの壁にハートマークで名前を落書きしたことが歌われている)という紛れもない「抒情詩」=「西欧の正統的、かつ伝統的なジャンル」によって補完され「救われて」いるということである。これはこの作品が「私生児」的ではないということを示しており、同時に阿部氏の文学が蓮實氏の批評という「親」からなかなか自立できない(「グラフィティ」では「私たちは大人にならない」という意味のリフレインも出てくる)「嫡出子」性を帯びていることを示している。
 そしてこの作品の「嫡出子」性は、ポリティカル・コレクトネスへの中途半端な適応に端的に現れている。作中で横口は偶然街角で遭遇した「ヘイトデモ」に強い嫌悪感を覚えるが、横口がどういう人物か全く分からないので(前妻との生活も大麻で逮捕されたことについても何も語られない)、他の点ではそれほど差別問題に関心があるようにも見えないこの人物が、ここだけ突出した正義感を流露していることに違和感を感じる。また横口に対してパワハラ的言動に終始する沢田が、最後まで横口を庇護する「いい人」であり続けていた(ヤクザが映像や物語で表象される時のありがちなバターンそのもの)のも違和感が残る。作者は結局ポリティカル・コレクトネスに引っかかりそうなネタは回避しつつ(ヤクザはセーフのようだが)、炎上しないことだけに気を配って当たり障りのない物語を構成しているだけのように見える。舞台が日本なのに、トランプと金正恩の名は出て来ても、日本政府や安倍晋三が出て来ないのも、物足りない。「ヘイトデモ」を嫌悪し、国際政治にも関心のあるらしい横口が、安倍政権にどういう意見を持っていたのか知りたかったが、安倍の名を出すと読者にどのような効果を与えるか計算できないリスクはある(私は個人的にはトランプの「非嫡出子」より安倍(阿部とも引っかけて)の「非嫡出子」を名乗る男を登場ざせたらもっと面白くなるのにと思った)。この小説は北朝鮮という最も政治的に見える題材を扱いながら、そこから日本の政治的位相を消去したために最も非政治的な小説となっている。
 もちろん「表現」は本質的に「不自由」なものである。何でも書けるわけではいが、しかしその「不自由」が現れる境界線に最初から用心して近づこうともしない小説は、スリルも何もない退屈な無償の饒舌に過ぎないだろう。この意味では朝鮮人の日本軍兵士を登場させて伯爵夫人に性的に翻弄させても明瞭な意味を結ぶことのない蓮實の『伯爵夫人』の方が、ずっとあっけらかんに冒険していた。
 そもそもポリティカル・コレクトネスの観点を徹底するなら、「嫡出子」と「私生児」の区別そのものが差別的であり、否定しなければならないものである。すべての子供は親がいようがいまいが無条件に全き「嫡出子」でなければならない。従って、蓮實の言葉を蓮實に逆らって使うなら、「近代の一時期に生まれた散文のフィクション」は、もはや「私生児」的ジャンルではなく、「嫡出子」的ジャンルとなっていて、「近代以降の人類が手にしえた真の意味でおのれにふさわしい」とアイロニカルには言えても、「積極的な文学ジャンル」とは言えないものになっているように見える。
 この「散文のフィクション」の「嫡出子」性を端的に示しているのは「著作権」という制度である。私は昔「早稲田文学」誌上で連載した「コビーライトについての試論」で、「作者の死」の後の現代世界においては「著作権者」が延命し権力を行使し続けることを論じた。「作者の死」以後に生まれた「作品」が「私生児」であるしかないとすれば、「著作権者」にとって「作品」は絶対的に「嫡出子」である。死んだ「作者」が「作品」に対して何の権利も持たないのに対して、生ける「著作権者」は「著作物」に対して制度的な親権・養育権・所有権・人格権を持つ。著作権期間の延長が示すように、この「嫡出子」としての「著作物」が「著作権者」から親離れするには、非常に長い時間を必要とする。
 蓮實の『ブラック・チェンバー・ミュージック』論が載ったのと同じ『文學界』に載っていた桜庭一樹「少女を埋める」の読み方をめぐるちょっとした騒動は、この今日的状況を正確に反映している。すなわち鴻巣友季子が『朝日新聞』の文芸時評でこの小説を取り上げ、「家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」と書いたのだが、桜庭がそれを「事実」と違う誤読だと『文學界』編集部を通じて朝日新聞の文芸時評担当に抗議し、訂正を要請した結果、朝日新聞側は「鴻巣さんの意向をふまえて、朝日新聞デジタルの文芸時評の記事に「わたしはそのように読んだ」との言葉を補うなどし」(『朝日新聞』九月七日朝刊に掲載された担当者の言葉。私は大学の聞蔵Ⅱで閲覧した)たほか、九月七日の朝刊で、両者がそれぞれの見解を寄稿するという処置を執った。
 すなわち桜庭氏によれば「自伝小説」である「少女を埋める」には、「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが書かれてい」たのに、鴻巣氏はそれを正反対に読んだ。それは「解釈」ではなく「あらすじ」のレベルの誤読であり、その誤読が『朝日新聞』という「巨大メディア」に載ったことで、「故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき中傷、誤解が及ぶことをも心配し、訂正記事の掲載を求めた」と言う。
 これに対して鴻巣氏は、「少女を埋める」は「創作」「優れたフィクション」であり、その観点から読めば「母の父への「虐(いじ)め」については複数の読み方が可能」であると書く。「解釈」と「あらすじ」は簡単に分離できず、無理に中立的な「あらすじ」を批評に要求することは、「読み方の自由」「小説の可能性」を制限することになる。今回は「要請に応じウェブ版を修正した」が、それは「桜庭さんの気持ちを思うと苦しかった」からである。
 私も「少女を埋める」を読んでみたが(ネットで炎上しなければ読まなかっただろう)、解釈としては鴻巣氏の読みには小川公代の「ケア」論の図式を機械的に当てはめようとしたために生じた無理があると思った。とはいえ「少女を埋める」にも私小説的な説明不足があり、病気になる前の父と母との間にあったらしい葛藤について詳しく語られないのは不親切だし、父の棺が閉ざされる時の母の「お父さん、いっぱい虐めたね」という言葉の意味について、作中の「異母妹の百夜を虐め殺した赤朽葉毛毬みたいに……」という文章も良く分からなかったが、引用元の小説(『赤朽葉家の伝説』?)を読んでいないので、それ以上追求できない。ただ鴻巣氏に対する桜庭氏の批判のやり方は、「フィクション」ではなく「現実」の水準で行われていることにおいて、別の問題をはらんでいる。
 すなわち、桜庭氏は鴻巣氏への抗議を、何より「著作権者」としての権力を行使して行っている。桜庭氏にとって「少女を埋める」という作品はその読み方について親権を持っている「嫡出子」である。他方鴻巣氏は「少女を埋める」という作品を作者から切り離し、親を持たない「私生児」として読もうとしている。鴻巣氏は(その個別の読みの正当性は別として)、いわゆるテクスト論的な立場に立っていると言えるが、一見古い私小説作家のような(そもそも私が「少女を埋める」を読んで連想したのは、徳田秋聲の「町の踊り場」だった)主張に見える桜庭氏の批判は、著作権に依存しながら著作権を透明な存在しないものとして括弧に入れるテクスト論の抽象性を衝いていることにおいてリアルである。ただしこれは現代の小説家が「作品」に対してただ一人の「作者」である以前に、複数の「著作権者」たちの中の一人に過ぎないことを端的に示したということでもある。
 私が読んだ限り、「少女を埋める」の根本的なモチーフは、父と母の葛藤よりは、母と娘の葛藤であり、その源泉としての「個人」を抑圧する「共同体」=日本の「家父長制」への批判のように見える。そしてそこには、ポリティカル・コレクトネスの観点に立つと問題になりそうな細部が詰まってもいる。たとえば「人柱」にされた「猿回し」についての伝説、母の葬儀屋や看護婦、タクシー運転手などに対する職業「差別的」偏見の記述や、母に暴力を振るわれた記憶の想起、葬儀の時に利用したタクシー運転手がスマホのショートメールでつきまとって来ること(これは『コインロッカー・ベイビーズ』で、タクシーに乗ったアネモネが運転手に襲われるのを連想した)など。これらについていちいち考察する余裕はないが、一つだけ言うと、「天皇制こそ究極の家父長制だよなぁ」と考える主人公冬子が、にもかかわらず「愛子さま」などと皇室に「さま」付けしてしまうことの矛盾を作者はどう考えているのか気になった。そして仮に作者が冬子にたとえば「愛子さん」と呼ばせようとした時、そのことを『文學界』編集部(もう一人の著作権者であり、場合によっては作者より権力を持つ)が素直に許してくれるのかも知りたいと思った。
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前回記事への追記

 前回記事は、早速亀井麻美氏にツイッター上で紹介され、大木志門氏にコメントをいただいた。学恩を感謝したいが、問題は未解決のままである。秋声以外の「自然主義派の大家」と言うと、田山花袋・島崎藤村・正宗白鳥が考えられるが、いずれも「燻し銀」という感じではないし、白鳥の場合は年齢的にまだ「五十をとつくに越し」てはいなかった。従って「貼り紙」で中野が思い浮かべていたのは、間違いなく秋声だとは思うのだが、その秋声が出ていた座談会については中野の記憶の錯誤があったかもしれない。
 いずれにしてもその座談会が実在していたかどうかは、私が書く内容に本質的な影響はない。重要なのは、中野がそこに提示した性をめぐる抑圧図式である。中野は「精子に影か射す」 ことを転向に結びつけたのだが、中野の記憶の中にある秋声の態度は、そうした思考法を否認する存在に見える。「学校を罷めて、検束のない放浪生活をしてゐた二十時分に、ふとしたことから負はされた小さな傷以来、体中に波うつてゐた若い血がにわかに頓挫つたような気が、始終してゐた」という徳田秋聲「黴」の主人公は、何も考えず性的関係を結んだ手伝いの女性が妊娠したと知って、その「小さな傷」によって自分の身体に宿ったのではないかと想像される「毒気」が子供に移るのではないかと恐れるが、子供は普通に元気に生まれて来るし、二人目も生まれる。転向のために「精子に影が射す」といった「生‐政治」的な詩的観念を、秋声の自然主義は否定するだろう。この態度は昭和期の秋声にも継続していて(川端康成が小林多喜二の死と組み合わせる形で絶賛した「町の踊り場」にも、主人公が幼少の頃姉の夫から「生理学の書物」を見せられて「罪」の意識を持ったことの想起があるが、ダンスという「大逆」的身振り(秋聲は、大逆事件によって教職を追われ、その後日本の社交ダンスの草分けとなる玉置真吉にダンスを習っている)によってその憂鬱は解消される)、秋声文学は中野的あるいはプロレタリア文学的な転向を否認しつつなお「大逆」的な問題系を維持し続けることにおいて同時代的に虚の中心であり続けていたと言える。
 私の中野論は、中野を賛美するのではなく、中野の東アジア的専制主義への屈折した服従を批判するものになる。そのために 「五勺の酒」を集中的に読解するが、この作品にも謎があって、語り手の校長は「僕はただ、征伐・出征の征を「ゆく」とよむのは間違いだといつて生徒たちに教えられただけだ」と言うのだが、どういう意味で間違いなのか分からない。『万葉集』の時代から「ゆく」とよまれていたのではないかと思うが、校長は戦争への抵抗として「征」を「ゆく」とよむことを禁じたのか。無学をさらすようだが、これも教示いただける方がいればありがたい。
 

中野重治「貼り紙」について

 去年単行本を準備していることを書いたが、今もまだ準備中である。オオカミ少年化しそうなので、何時出せるかという見込みは書かない。カイジ風に言えば「10年20年後ということも可能だろう…ということ…」だが、さすがにそんなにかかったら一生出せないだろう。とにかくこの夏は、1年以上かけてチェックしてもらった原稿をひたすら修正しているのだが(まだゲラの段階ではない)、時間が経過すると大幅な書き直しが必要になる。以前の認識を修正したりしていると、有意義な気持ちになるので、この状態が最も幸せなのかもしれない。
  基本的に過去に書いたものを大幅に書き直した論文集(最後に「東アジア同時革命」についての書き下ろしのテーゼを付加する)ということになるが、「東アジア的専制主義批判」という大きなモチーフに合わせて修正している。その論文の一つに中野重治「五勺の酒」論があり、これは随分昔のもので、ひどい間違いもあり、半分以上書き変えているのだが、その際に一つの疑問に突き当たった。それは戦後に中野が書いた「貼り紙」という短篇の中の、次のくだりに関してである。

「森近は、――万吉は言葉通りには覚えていない。――性欲といえども階級的だといつていた。性生活においてもわれわれは階級闘 争の立場に立つ。性欲そのものといつたものを、人間の階級生活から抽きだしてきてあげつらうのは正しくない。櫟は反対というよりは否定するという言い方だった。主としてその種の問題を扱つて自然主義派の大家とされてきている櫟は、どこかに若々しいところがありながら全体としてはくすんでいた。燻し銀という言葉でその作品と人柄とを世間が尊重している。五十をとつくに越した櫟が、た だ一人で若い森近を否定するのは読んでいても面白かつた。」

 「貼り紙」は「村の家」の続編的位置にある短編で、郷里で父の死を看取った主人公万吉の心境がその内容となるが、その中で妻の早産に悩む万吉は、「転向」後「自分の性欲に変化が生じた」と考え、そこからの連想で、プロレタリア文学が勃興した「一九二七、八年時分」、「ある月、伝統の古いある文学雑誌がプロレタリア文学の若手も入れて座談会をやつた」時、「万吉の知合いの森近静也」と「長い文学生活を持っている自然主義派の櫟」とが「性欲、性生活」について、引用文のように座談会で論争したことを思い出す。
 中野自身がモデルと考えられる万吉は、この論争について「櫟説に賛成というのではない。ただ森近説には何だかうつろなところがある。それほどにも思っていないのを無理に主張しているようなところがある」と考えるのだが、この櫟は、「自然主義派の大家」「燻し銀という言葉でその作品と人柄とを世間が尊重している」「五十をとつくに越した」という記述から、徳田秋声がモデルであるとしか考えられないように見える。しかしそうだとすると、「一九二七、八年時分」「ある月、伝統の古いある文学雑誌がプロレタリア文学の若手も入れて座談会をやつた」というその座談会を読みたくなるのだが、これが調べても分からない。当時「伝統の古いある文学雑誌」と言えば「新潮」だが、「一九二七、八年時分」を見ても、それらしい座談会は見当たらない。
 櫟と論争した森近静也も、誰がモデルなのか分からない。「元気で明るい性格の青年」とあるので林房雄のような感じもするが座談会が特定できないので分からない。ただ一九二七年の「新潮」の座談会「徳田秋声氏との恋愛、芸術問答」では、「性欲」ではなく「恋愛」について、林が「社会主義者の恋愛とは、あくまで相互の生活の促進力として――相互の責任感の上に立つものでなければならない」と言う一方「自由愛といふのは完全にブルジョワ的な見方です」と発言しているのが目を引く。これに対して秋声は特に発言していないが、最後に「文学」は「マルキシズム」に影響されない「自由」なものだと一人で力説しているのが、中野が書く「五十をとつくに越した櫟が、ただ一人で若い森近を否定する」姿と重なるものを感じる。この座談会は秋声を若手の作家・評論家たちが囲んで質問するという形なので、「貼り紙」で言及されている座談会のイメージ(「大家・中堅とかいって呼ばれている連中のなか」に「若手代表」の一人として森近がいる)とは合わないが、中野の記憶が違っている可能性もある。
 中野が秋声に言及した文章としては、「そのとき徳田秋声と武者小路実篤とが顔を見合わせた」が有名だが、「貼り紙」についてこれまで指摘した人はいないように思う。そしてここに描かれた、場に流されずに言いたいことを言う秋声のイメージは、それが記憶違いかどうかは別にして、昭和期の秋声のもの(「死に親しむ」の主人公が女は金だと言い放つ友人の医師を一喝する場面のように、晩年の秋声は一言居士的エピソードが多い)として納得できるものでもある。
 そもそも私が「貼り紙」という小説の存在を知ったのは、山城むつみ『連続する問題』の中の記述によってである。この本の中で山城氏は、「貼り紙」の主人公が「転向」をきっかけに性欲に異変を感じ「精子そのものに、どこか影が射している」と考えることについて、何度も言及し、考察を加えている。精子に影が射すというのは、いかにも詩人らしい印象的な表現で、これに注目した山城氏の詩的感性もさすがとは思うが、その解釈には揺れがあり、納得できないところがある。すなわち16章「憲法第一条とセクシュアリティ」では、精子に影が射すことは、「「生‐政治」が「保護拘留」という形で彼一個の「性存在」を「政治の内部」に内包し終えたその瞬間」と政治的にとらえられていたが、22章「精子そのものに影が射している」では、「中野は転向に際して「国家権力」という暴力装置が「性欲」に弾圧的に及ぼした政治的社会的影響について書いているのではない」と論点が脱政治化され、「影はこの政治経済的装置の直下に網状に動いている「自然史的過程」から「精子」という「自然」に直接に射してはいないだろうか」と疑似生物学的(やや神秘主義の匂いを感じる)に再解釈されている。
 いずれにしても、山城氏は、「生‐政治」の始まりを中野の「転向」以後に見ていて、それ以前については考えない。だが「生‐政治」は、マルクス主義からの転向以前に、マルクス主義への転向において既に始まっていたのではないか。共産党への入党そのものが転向者を「生‐政治」的に支配する「保護観察」と「予防拘禁」の先駆けであり、精子に影が射す始まりだったのではないのか。「貼り紙」における「性欲」と「階級」をめぐる森近と櫟の論争は、そのことを示唆しているように見えるが、山城氏の論では盲点になっている。
 現在準備中の本の一章となる中野論では、そのあたりを抉ってみたいが、「貼り紙」に言及された座談会の出典についての疑問は未解決のまま引っかかり続けている。最終的に分からなければ、曖昧なまま進めるしかないが、教示していただける方がいればありがたい。

「風俗小説」論争の死角

 今年度前半は大学院の授業で、臼井吉見編『戦後文学論争』 上下巻に収録された論争を幾つか選んで読んでいるが、その最初に「風俗小説」論争を読んだ。「風俗小説」論争は、丹羽文雄の二葉亭についての発言に、中村光夫が噛みついて起きた論争であり、中村の『風俗小説論』が生まれるきっかけになったことで知られる。
 丹羽の発言は、座談会で井上友一郞から「この間中村光夫が、日本の文学は二葉亭四迷以来一歩も進んでいないといふのだが、これを最後に一度論じて貰い度い」と水を向けられて、「過去に作家をして居た者が、金の為か知らないが外地で女郎屋をやらうとする、これは今迄知られてゐた二葉亭といふものの観念とぴたりとしないだらう。さういふ事を知つてゐて中村光夫君は二葉亭を書いてゐるかどうか。二葉亭の小説だけでものを言ふのは片手落ちだ」と述べたものである。
 名指しされた中村は、早速激しく反論した。すなわち中村は、二葉亭の「女郎屋」論は、内田魯庵の回想などで既に良く知られた話であると断った上で、丹羽は「二葉亭が日露戦争後の日本軍の占領地にでも行って地方の軍権力と結びついた女郎屋を開かうとした考へてゐるやう」だが、「こんな想像は、する男自身の心性を現はす以外何者でもない」と批判する。中村によれば、二葉亭が「女郎屋」論を力説したのは、日露戦争直前の時期であり、「すなはちこれは日毎に東方に延びて来る露国の勢力の重圧をひしひし身に感じ、これに対して我国の平和的発展の道を何とかして考へねばならぬ立場に追ひ込まれた彼が(中略)いはば窮余の一策として思いついたことなので、彼の愛国の至情のやや滑稽な迸りであり、非常識な空論であつたかもしれませんが、少なくも「軍の嘱託かなんかで外地に行き、金の為か何か知らないが女郎屋をやろうとする」などといふ汚い根性ではなかつた」とされる。
 丹羽と中村の対立は、昭和文学を明治文学との断絶において見るか、連続性において見るかの差異としても解釈できる。中村が現前する昭和文学を批判するために可能性としての明治文学を持ち出したのに対して、丹羽は明治文学も昭和文学と同類ではないかと二葉亭の「女郎屋」論を対置した。おそらく丹羽は第二次大戦の従軍体験の中で見聞しただろう慰安所とのアナロジーで二葉亭の「女郎屋」論を「軍の嘱託」として想像したのではないかと考えられるが、中村はそういう想像を「汚い根性」と切り捨て、二葉亭が「女郎屋」を開こうと夢想していたウラジオストックは、日本より強大であると想像されていた日露戦争前夜の仮想敵国ロシアであって、後年日本軍が支配していた占領地とは異なると指摘する。
 だが二葉亭の「女郎屋」論と、昭和の「慰安所」との間に、広い意味で本当に思想的なつながりはないのか。中村の論は、第二次世界大戦に集約される日本帝国の暗部を、明治日本の「近代」から必然的に派生したものてはなく、「近代」からの誤った逸脱の産物と見なすことによって「近代」そのものを救済しようとしているように見える。それは二葉亭の「愛国の至情」を、昭和の狂気の「愛国」とは異なるものとして救済することである。しかし中村が二葉亭の「女郎屋」論を「熱情の純一さ」「純真な論理」といった純粋さのレトリックで擁護すればするほど、そこに死角が生じているようにも見えて来る。中村の二葉亭への盲目は、十九世紀西欧的「近代」への盲目につながっている。そもそも中村が「近代」の基本型として参照している十九世紀西欧社会そのものが、非西欧世界に対する植民地支配によって成立したものであり、植民地の存在を抜きにして近代日本文学が正しく近代文学だったかどうかを判断することはできない。もし中村が戦時中に「外地」経験があり「慰安所」を見聞していたら、中村はあれほど明治の「青春」を称揚できただろうか。
 中村の死角、盲点をここで十分に論じる用意は、まだ私にはない。ただ二葉亭の「女郎屋」論を考える時、私がそれとの対照で思い浮かべるのは、芸者屋の親爺まがいの存在になった晩年の徳田秋声である。正確に言えば芸者屋を経営したのは『縮図』のモデルになった愛人で、秋声自身はその後見人的立ち位置だったと言えるが、秋声が中村に言わせれば「最も人々から卑しめられる女郎屋の主人」に類似した位相に立ったことは、二葉亭との関係で因縁じみて見える。『縮図』は当局に問題視され中絶に追い込まれる程度には反「慰安」的テクストではあった。秋声没後まもなく広津和郎はその有名な秋声論で、近代日本文学の二つの対極的リアリズムとして二葉亭と秋声を挙げたが、帝国時代の日本文学は二葉亭の「女郎屋」論に始まり秋声の芸者屋で終わったと言えるのかもしれない。「風俗小説」論争における中村の論敵が、秋声の賛美者として知られる丹羽だった(論争に秋声の名は出てこないが)ことは偶然ではない。
 ともあれ現在この論争を読むと、その内容以前に、作家と評論家がお互いを公的メディアで遠慮なく批判(というより罵倒)し合う様に隔世の感を覚えると同時に、当時から「作家にきらわれる批評家はそれだけの理由で悪い批評家であり、文学に有害な存在である」という「批評家抹殺論」が盛んだったことが分かる。そして「氏はできれば自分に気に入らぬことを言う批評家など葬ってしまいたいのである。そして残った批評家にも、彼等の批評家たる機能を停止させて、氏等の大量生産する小説商品の宣伝係または外交員に仕立てて、枕を高くして眠りたいのである」と中村が診断した丹羽的な願望は、現在では完全に実現していると言える。
 実際たとえば現在の芥川賞受賞作は大抵「風俗小説」でしかなく、論争になりようがない。かつては十年経つと思想は古びてしまったが、現在は十年経っても二十年経っても同じようなことが反復されるばかりである。しかしこれは批評家にとってはむしろチャンスであって、文学でも思想でも、原理的にゆっくり考える時間を与えられた恩寵を感謝すべきなのだろう。

NAMをめぐる二冊の本から現代日本の批評について考える

 柄谷行人が2000年に始めた社会運動「New Associationist Movement」=NAMについての本が、二月に続けざまに二冊出た。一冊は柄谷自身による『ニュー・アソシエイショニスト宣言』、もう一冊はNAMに参加して活動した吉永剛志氏の『NAM総括――運動の未来のために』である。両者は共にNAMを「総括」した上で未来を語っていて、読み比べると非常に面白い。
 私はNAMには入っていないが、同時期に同人雑誌『重力』に参加していて、そのメンバーにはNAMや地域通貨に関わっていた西部忠やその友人の鎌田哲哉がいたので、間接的にいろいろ伝聞した。また柄谷の批評の行方という意味でも注目し、批判的なことも折に触れて書いた。しかしNAMがどういうものであったのか具体的には良く知らずに批判をしていたことについては、この二冊を読んで少し反省した。
 もっともこの二冊を読んでNAMのことがより良く分かったというより、分からないということが分かったという思いの方が強い。特に吉永氏の本において具体的に実証的に書かれている地域通貨の仕組みやメーリングリストのやり取りなどがとても煩瑣で、二十年前のインターネット過渡期という背景もあり、理解が難しい。だがNAMが現代日本の思想と批評にとっての重要な分れ道だったことは確かである。
 柄谷がNAMを提唱した時、柄谷の日本における批評家としての名声は絶頂に達していた。その名声は、これまでの既成概念の破壊と、西欧思想の斬新な啓蒙・再構成に依存していたと言えるが、それだけではなく、より本質的には、旧来の「知」の破壊・脱構築の果てに、何か新しいものが到来するかもしれないという期待を感じさせたことに、柄谷の批評の魅力の中心があったように思う。それはちょうど米ソ東西冷戦終結後10年の日本の雰囲気とも連動していた。バブルが崩壊したとはいえ、バブル的感覚は衰えず、それはちょうどソ連と東欧社会主義国の崩壊にもかかわらず、マルクス主義の知的権威が解体しなかった(既にとっくに既成社会主義国の正統性はなくなっていたから今更反省する必要はないという言説と、マルクス主義の可能性はまだ正当に汲み尽くされていないという言説が結合した)ことと連動していた。そこにおいて批評(私にとっては『批評空間』に掲載されていたものが基準だった)は、延々と流し続けられるラディカルな「予告編」(ゴダールの映画について浅田彰が言ったように)の体をなしていたが、世紀の変わり目に柄谷が満を持して提示した「本編」がNAMだったと言えるかもしれない。
 そのNAMは「失敗」だったと私も書き、一般に言及される時(まとまった論は、今回の二冊以外見たことがないが)もそう形容されることが多いが、柄谷はそうはとらえていないようで、現在も続けているアソシエーション運動の一環として、NAMの解散も発展的解消としてポジティヴに意味づけている。その意味づけ自体については、知らないことが多いので言うことは何もないが、『ニュー・アソシエイショニスト宣言』を読んで私が思ったのは、運動組織における「独裁」の問題が、相変らず空白のままだと言うことである。地域通貨や協同組合が理論的にいかに精緻になっても、精緻になればなるほど、理論化できない残余としての「人間力」の要素が大きくなる。日本において社会運動や対抗運動が一九六〇年代以降一貫して右肩下がりであり続けて来たとすれば、結局この理論化できない「人間力」の次元で、多くの人を傷つけて来た歴史があるからではないか。
 中野重治は「素樸ということ」において、芸術家は、誰も記憶しておらず感謝もしていない「車輪の発明者」のような態度で芸術を制作するべきだと述べていた。これは芸術だけではなく、むしろ政治(マルクス主義においては芸術と不可分だが)において実行されるべきであるだろう。しかし共産主義運動においては、マルクスを始めとして、「車輪の発明者」とは正反対に、知的指導者だけが記憶され感謝される方向に進んで来た。NAMが成功する時があるとすれば、それはNAMの発明者としての柄谷のことを誰もが忘れ感謝もしなくなる時だろうが、柄谷はその理論的必要性に思い至らなかった。柄谷はくじ引き制によって政治的権力の集中を防ごうとするが、知的権威の集中を防ぐ方法を考えなかった。しかし知は権力の不可分の要素である。
 NAM解散後の柄谷は、「世界同時革命」を提唱するようになって行くが、『ニュー・アソシエイショニスト宣言』の中で、十九世紀ヨーロッパの二月革命を「世界同時革命」と考えていることには違和感を持った。定義の問題かもしれないが、私には二月革命は、「ヨーロッパ同時革命」であって、「世界同時革命」ではなかったように見える。そして実質的には「ヨーロッパ同時革命」でしかないものを「世界同時革命」と呼ぶことで、そこにはある死角が生まれる。この死角は、NAM以後の柄谷が、一方で「世界同時革命」を唱えながら他方で中華帝国的なものを称揚する矛盾とつながっている。柄谷によれば『NAM原理』は中国語訳され、熱心に読まれたそうだが、それは柄谷の言説があくまで「資本制経済の生産関係」への批判にとどまるが故に、中国の国家体制への批判にはなりえないからである。NAMのプログラムは、資本主義に寄生しながら専制体制を続ける中国の在り方を脅かさず、むしろ正当化する論理を含んでいる。交換様式D(普遍宗教)は交換様式A(互酬的氏族社会)の「高次元での回復」とされるが、それがいかなる意味で「高次元」なのかは分からない(柄谷は氏族社会を専制社会ではないように理想化している)。柄谷は、朱子学的=儒教的なもの(柄谷は柳田国男が卒業論文で朱子に基づいて「三倉沿革」を書いたことを評価する)と西欧思想の間で分裂する明治以来の日本の知識人の伝統を引き継ぎつつ、前者の治者的な「倫理」と後者の合理主義的「経済」を融合させ、遠回りに「東アジア的専制主義」に回帰する。柄谷の言説は「世界同時革命」を言うことで「東アジア同時革命」(日本の天皇制と中国・北朝鮮の共産党独裁とに共通する「東アジア的専制主義」の廃棄)の可能性を抑圧するように機能する。
 吉永氏の『NAM総括――運動の未来のために』は、NAMに参加した活動家の、実践者目線からの記録として、興味深い。吉永氏もNAMを「失敗」と見るのではなく、その可能性の中心を最大限に追求し、そこから未来の運動への教訓と励ましを受け取っている。氏は二十歳の頃ランボーを愛読していたそうで、社会運動に参加すること自体がロマンであり、文学との連続性を持つ営みであって、NAM解散後は反原発運動・環境運動。有機農業運動に携わって現在に至っているとのことである。補論におけるラカンについての考察などを見ると、実践家であると同時に現代批評・思想についての造詣も深いように見える。この本の中には、私が『アンチ漱石』の中で書いたNAM批判にも言及があり、柄谷という「権威的に物象化された」固有名の暴走に対してくじ引きという制度が歯止めにならなかったことを批判した私に対して、次のように反論批判されている。「いってみればNAMは、ミニ大杉みたいな批評的レトリックを振り回す発言ばっかりだった。だから柄谷は苛立ったのだ。私たちは権力と責任がコインの表と裏のごとき関係にある(そして、そうでなければならない)ことの困難を見つめなければならない。換言すれば大杉の言う「現実の固有名」の暴走以前に、「物象化されて」いないがゆえに誰も発言しなくなったり、簡単にやめると言ったり、NAMそのものを軽んじたり、責任あることを回避しようとしたりという事例が多発したことをこそ見つめなければならない」。
 吉永氏が言いたいのは、NAMに参加した人々が、柄谷に依存しないで、自分自身で自律的に責任を負って行動すれば良かったのだということなのだろうが、そういう人々であれば、そもそもNAMなどなくて良かったということになるようにも思う。共産主義にしろアソシエーショ二ズムにしろ、すべての人がそもそも自律的な個人であったら、必要のないものだろう。自律的な(と想像される)指導者的な個人が自律的でない(と想像される)大衆的個人に働きかけることで、「運動」は発生する。「運動」は不均衡なポテンシャルを持った個体あるいは集団間においてのみ発生する。
 吉永氏から見れば私は「闘う君の唄」を笑う「闘わない奴等」(©中島みゆき)の一人ということになるのかもしれないが、私は笑っているつもりはない。NAMに参加した人々が、その参加経験からボジティヴなものを得たのであれば、それは素晴らしいことであり、第三者があげつらう話ではない。もっとも今見ると、NAMに女性が登場しないことについて、吉永氏の本でも一言あって良かったと思った。ともあれ、次のスガゼミは、『NAM総括』を課題図書とし、吉永氏も参加するとのことなので、そこで話を聞いてみたい。
 「批評」史的に振り返るなら、NAMの解散は、「批評空間」的なものを雲散霧消させ、同時に現在に至る「批評」の終りなき大空白時代の始まりの画期となった出来事だったと言える。この大空白時代を象徴する存在が東浩紀ということになるのだろうが、その東が去年出した『ゲンロン戦記』を最近読んで、吉永氏の『NAM総括』と重なるものを感じた。
 東氏はデビュー時から柄谷を継ぐ次世代の批評家ナンバーワン(あるいはオンリーワン)として期待され、評価されていたが、東氏は自身振り返るように、その期待を全力で裏切ることに全精力をつぎ込んで来た。『ゲンロン戦記』の中の言葉を借りれば、それは主流ではなく「オルタナティヴ」になろうと欲望する批評ということになるが、「オルタナティヴ」になろうという欲望は、主流にある人間にしか起きないものであるので、『ゲンロン戦記』自体、自己批評して謙虚になろうとしてもにじみ出るhumblebrag臭は否めない。社長業を通して「中小企業を営む母方の祖父」とのつながりを見出しているのを読むと、まさに「手紙は宛先に届く」(ラカン)であり、誤配でもなんでもないと感じる。「メインストリームに対する居心地の悪さ」と言うが、結局東氏の商売が成立しているのは、東氏が若くして「メインストリーム」に評価された事実がもたらしたオーラの効果に過ぎないのではないか。ゲンロンという「小さな会社」を続けることがどうして「反資本主義的で、反体制的で、オルタナティヴな未来を開く」のかまったく分からない。東氏は「ゲンロンの支持者は、文系の出版や大学関係者ばかりというわけではなく、IT系の起業者やエンジニア、自営業のひとたちがかなり多い」と言い、それを「ぼくの政治的な中道性」と結びつけているが、「政治的な中道性」と「反資本主義的で、反体制的で、オルタナティヴな未来」はどう両立するのか。
 東の批評活動は、『探究』までの柄谷の批評の転倒と考えれば、大体理解できる。すなわちアメリカに行き、水平的他者(ド・マンやデリダなど欧米の大学知識人)との横断的交通を実践して見せた柄谷に対して、東はアメリカ行きを拒絶し、日本の中に閉じこもって、垂直的他者(東は「世代論」を復活させ、自分を知的に脅かさない日本人内部の若手世代を応援した)との共感的コミュニケーションを実践した。これは文字通り保守主義的で反動的な振舞いということになるが、そのエクスキューズとしてあったのが、新たなフロンティア的外部としてのインターネットと、そこにおいて国際的に認知されメインカルチャー化したスマートなオタク文化だった。
 東は『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』に至るまで、このインターネットを中心としたコミュニケーション空間を肯定的に評価し、新たな民主主義の可能性すら見るに至るが、『ゲンロン戦記』によれば、次第にツイッター登場以降のインターネットに懐疑的になり、「ゲンロン」を組織し、実体的なコミュニケーションに回帰して行く。しかしコロナ禍で「密」なコミュニケーションが否定されたので、さてどうしようというのが現状のようだ。
 私はツイッターをしていないので、ツイッターの炎上騒ぎなどは、遠くから傍観しているだけだが、私が興味を覚えるのは、そこでは「実名」の人間が何か問題発言をした時、「匿名」の人間がその人物に対して人格攻撃をすることが、社会的正義の行為として容認されていることである。それは議会制民主主義の根幹をなす無記名投票のはらむ暴力性と比較できる、インターネット空間における幽霊的民主主義の暴力性である。「匿名」の人間は自分の発言に応答責任を持たないが、にもかかわらずその無責任の言葉は正義の言葉である。あるいはむしろそれは無責任であるからこそ正義の言葉であると言うべきかもしれない。晩年のフーコーは、勇気を持って真実を言うことを「パレーシア」概念を通して追求したが、匿名のインターネット空間において、人は勇気なしに真実を言うことができ、正義を遂行できる。
 東はインターネットの匿名的大衆を「動物」という比喩で考えたが、大審問官のようにその「動物」は「家畜」的に飼い慣らし制御できると見ていたように見える。しかしインターネットの匿名的「動物」たちは、動物である限りにおいて隙あらば「野獣」として「飼い主」に噛み付いて来る。デリダは「動物」の飼い慣らせない「野獣」性を明確に認識していたが(『獣と主権者』)、日本で「動物」概念を積極的に使おうとする論者は、動物を愛らしいペットとしてしか見ていない場合が多い。
 「匿名」の人間は自分の発言に応答責任を持たないが、にもかかわらずその無責任の言葉は正義の言葉である。あるいはむしろそれは無責任であるからこそ正義の言葉であると言うべきかもしれない。正義は脱構築されないとデリダは言ったが、それは正義は、応答を拒絶することと不可分の関係にあるということである。もっと正確に言えば、正義とは悪の被害者の呼び声に応答することであるが、同時にその呼び声に相反する可能性のある別の呼び声への応答を理屈抜きで断固として拒絶しなければ、その正義を貫けない。逆に言えば応答拒絶の内実を考えることは、正義の脱構築につながる可能性を開く危険を持つ。しかしその不可避性(たとえばツイッターはブロックなしには成立しない)を論理的に解析することの向こう側にしか、応答可能性は見出せない。 

ハイドンの「つまらなさ」と、クラシック音楽の「つまらなさ」

 去年毎日新聞の有料会員記事で、濱弘明「ハイドンが面白くないって本当? 古楽の大家・鈴木秀美さん語る「交響曲の父」」(2020年12月5日)という文章があることを知った。会員ではないので、最初の方しか読めなかったが、鈴木秀美氏と日本センチュリー交響楽団のリハーサルを取材し、鈴木氏からハイドン演奏の極意を聞くという趣旨のようだった。金を払ってまで全部読む気もないので、記事そのものに言うことは何もないが、「ハイドンが面白くない」という固定観念が、クラシック音楽愛好者の中に厳然として存在するのは間違いないのだろうと察せられる。そしてなんとなくだが、そういう人がハイドンを好きになることは、どう「啓蒙」しても無理な気もする。去年葉加瀬太郎がテレビでハイドンをディスったとネットで話題になったことがあったが(この番組も見ていないので論評できない)、将来において葉加瀬氏がハイドン好きに転向するのは氏のキャラそのものを破壊することにつながるのではと思うので、多分ないだろう。ここには音楽そのものの価値とは別の資本主義と結びついた文化的構造の問題があるように思うので、少し考察を試みてみたい。
 「つまらなさ」には二種類ある。一つはハイドンの「つまらなさ」であり、もう一つはクラシック音楽そのものの「つまらなさ」である。多くの日本人にとってクラシック音楽は退屈で眠くなるものである。ベートーヴェンだろうとバッハだろうとモーツァルトだろうと、それは変わらない。どう啓蒙してもクラシック音楽をつまらないと思う人を動かすことはできない。
 しかしクラシック音楽は繰り返し聞くこと、聞く訓練をすることでつまらなくなくなる可能性がある。もちろんいくら聞いても感じない人は沢山いるだろうが、とりわけ楽器を演奏させ楽譜を読めるように規律訓練することで、一定の人々(全体から見れば少数派だが、社会的には中上層が多い)はクラシック音楽を好きになり、面白いと感じるようになる可能性がある。だがそういう人に限って、ハイドンをつまらないと思うことが多い気がする。ピアノ学習者で、早くモーツァルトやベートーヴェンをやりたいのに、まずハイドンをやらされてハイドンを嫌いになる子供は結構いるのではないだろうか(実例を知っているわけではないので完全にあてずっぽうだが)。もっと踏み込んで言えば、ハイドンをつまらないものとした上で、そのつまらなさに対する相対的なおもしろさとして、モーツァルトやべートーヴェンやロマン派が称揚され、その普遍的価値が再確認される構造がそこにあり、そしてこの構造を維持するためにハイドンは不可欠の役割を担わされている。
 ハイドンはいわゆるクラシックの「大作曲家」の中で、他の「大作曲家」の「踏み台」扱いをされるほとんど唯一の作曲家である。他の「大作曲家」とはモーツァルトとべートーヴェンなので仕方がないとも言えるが、しかしそこにはやはり特異な構造がある。すなわち優劣の判定をするためには同質性が前提となる。ハイドンを「さびしいモーツァルト」と形容するのをネットで見たことがあるが、こうした表現も二者を比較可能にする均質的な基準があって初めて可能になる。この均質性は、十八世紀後半のヨーロッパのみに出現したように見える。それはちょうどフーコーが『言葉と物』で描いて見せた「古典主義時代」の表象の音楽版なのかもしれない。バロック時代の音楽家の地位は低かったが、神への信仰が未だ生きていたことにおいて、その音楽は神的な崇高さを帯びていた。しかし啓蒙思想と共に神が後退し、世俗的なものが浸透する一方、まだ十九世紀的な「人間」が登場していなかった空白期にハイドンは、まるで今そこから音楽が始まったかのように作曲を始めた。一番最初のミサ曲や交響曲第1番(厳密に最初ではないが)は、生まれたことの喜びをひたすら喜び続けるような率直さにおいて、まさにそれ以前に何もなかったかのような「起源」(それは同時代に流行ったルソーなどの起源論と同じく虚構的なものである)を感じさせる(実際ハイドンは、J・S・バッハ以後にあって、J・S・バッハの影響を受けなかった(時代的にバッハと言えばC・P・E・バッハの時代であり、J・S・バッハが忘却されていたからでもあるが)稀な大作曲家でもある)。
 ハイドンの『天地創造』が、ミルトンに依拠しながら肝心の失楽園を描かず、原罪以前の蜜月状態のアダムとエヴァに天使ウリエルが短い警告を与えて閉じられるのはいかにもハイドン的な身振りである。ハイドンは「罪」や「悪」を知らなかった。少なくとも深刻には受け止めていなかった。愛人との間に隠し子を作っていても、それは「原罪」的な意味は全く持たず、彼の音楽と深いつながりはなかった。それに対して『プロメテウスの創造物』やその主題を用いた英雄交響曲を書いたべートーヴェンは、むしろ自身に内在する「罪」や「悪」を自己の内なる道徳法則で抑圧することで自己の「人間」性を証明し、有限性の中で自己の可能性を無限に追求する「人間」を導入した。この時一種の遠近法的転倒が生じ、そしてそれが作り出したクラシック音楽の「風景」は、現代まで持続している。
 ハイドンとベートーヴェンをめぐる、主としてベートーヴェン側から出たと思われるさまざまな逸話は、この「風景」の構造についての寓話に見える。たとえばハイドンがベートーヴェンの対位法のレッスンをなおざりにし、間違いを修正できなかったため、ベートーヴェンが不信感を持ち、当時対位法の権威だった他の作曲家アルブレヒツベルガーに対位法を習ったという話がある。この物語が示すのは、音楽がアカデミックなもの・大学的なものと結びつけられる瞬間の光景である(いわゆる「音楽大学」的なものの近代的起源は、まさに同時代の1792年にフランス革命政府によって創設されたパリ国立高等音楽院に求められる)。この話の中でハイドンが、まるで学生をまじめに教えない無能な大学教師のように非難されているように見えるとしたら、それは音楽大学的なものが制度化・自明化された現在からの転倒した視点である。ハイドンは大学教授ではなく、音楽をほとんど独学で学び、その作曲に「誤り」が多いことは同時代においてしばしば指摘されていた。ハイドンにとって、音楽において大事なのは聴衆を喜ばせることであって、アカデミックな「真実」ではなかった。これに対してボン大学の聴講生体験のあったベートーヴェンは、ハイドンにアカデミックなものを求め、それが得られないで失望した。そのハイドンが同時期にオックスフォード大学から名誉博士号を授与されていたことは皮肉であるが、この名誉博士号授与そのものが、音楽が近代的に制度化される徴候でもある。名目的なものに過ぎないとはいえ博士号を持っているのに対位法をベートーヴェンに教えられなかったハイドンは、「音楽大学」的なものの権威と、それを前提としつつ抵抗するプロメテウス的文化英雄の神話を確立するための「踏み台」として利用されたと言える。
 アカデミックなものには「つまらなさ」がつきまとう。ベートーヴェンについてよく言われるスローガンに「暗闇から光明へ」というのがあるが、みんなで「暗闇」=「つまらなさ」に耐えて辛抱しないと、その後の「光明」にたどりつけない。それはちょうど同時代において思考の対象として浮上して来た(フーコーに拠る)「労働」の概念と対応する。ランボーの詩に「science avec patience」(私は「辛抱して勉強するんだ」と勝手に訳している)という句があって、私は昔から好きなのだが、ランボーよりは希望のあったベートーヴェンの聴衆は辛抱すること=「労働」を学び、そしてその「労働」の結果得られる果実をむさぼる喜びを知る。そこから振り返る時、自分は「労働」しているが聴衆には分かるような「労働」をさせないハイドンは、つまらないものに見えて来る。
 この「つまらなさ」の二重性は、クラシック音楽だけではなく、近代芸術全般に応用できるかもしれない。私自身の関心に引きつければ、「自然主義文学」の「つまならさ」と「純文学」そのものの「つまらなさ」との関係も、同じ二重性を持っている。近代文学批評に良くある、「自然主義文学」の「つまならさ」を批判すれば、「純文学」がおもしろくなるという紋切り型の虚構性とその根深さを批評するには、この二重性を明晰に意識化する必要がある。
 いずれにしても、現実に鑑賞する上では。クラシックについてこのようにあげつらうことそのものがつまらないことなのは、間違いない。ハイドンの音楽は、音楽史や表象史などを放擲したところで聴かれるべきだし、私自身はつまらないと思ったことはまったくない(個々の演奏がつまらないと思ったことはもちろんあるが)。その中で最近聴いた、「佐渡裕/反田恭平 with ジャパン・ナショナル・オーケストラ 特別編成」公演で演奏された、44番「悲しみ」は絶品だった。この公演は、もともと佐渡が率いるトーンスキュラー管弦楽団と共に開催される予定だったが、コロナでトーンスキュラー管弦楽団が来日できなくなり、反田氏がジャパン・ナショナル・オーケストラのメンバーに声をかけて集めたとのことだった。全国ツァーで、本当はミューザ川崎で聴きたかったのだが、都合がつかず、やむなくアクトシティー浜松の回にした。しかし遠征して本当に良かったと思った。
 ハイドンの44番は、佐渡が折に触れて取り上げている曲で、私は2013年に、東京シティ・フィルハーモニーの演奏で聴いたことがある。今回はその時よりも近い席(左側の前から三列目)だったので、小編成でも十分な音量で個人的に聴けた。ハイドンの曲は生で聴くと、鳴りが悪くてぴっくりすることが時々あるが、今回は冒頭から本気が感じられた。オーケストラが若くて腕利きでエネルギーに満ちていたのが良かった。提示部で第一ヴァイオリンの走句を第二ヴァイオリンが模倣して行くところとか、展開部で痙攣するような動機が積み重なって絶頂に達して再現部になだれ込むところなど、細部に注意が行き届いていた。特に驚いたのは、主題が弱音でカノン進行になる結尾で、フルトヴェングラーかメンゲルベルクかと疑わんばかりにテンポを思いっきり落とし幽玄な趣を現出させたことで、その後テンポを戻し強奏で第二主題を切々と歌ったのに感銘を受けた。
 佐渡のハイドンには「歌」がある。それが全開したのはやはり第三楽章アダージョである。この楽章は、私にとっては弦楽四重奏作品76の5「ラルゴ」とならぶ死の音楽である。まず弦で主題がしめやかに歌われた後、主題を軽く区切りながら反復する進行があり、そして管楽器が参加してクレッシェンドして第二主題が登場するのだが、私はこの第二主題に彼岸からの「お迎え」の気配を感じる。それはブルックナーの交響曲第九番の第三楽章の第一主題から第二主題への移行部で突然鳴り響くオーケストラの総奏によるファンフアーレを連想させるのだが、これは私だけの感覚だろう。佐渡は第三楽章の前半部を楽譜通り反復したが、反復の際に第一主題をピアノからピアニッシモに音量を落としたのも細かい工夫で、この曲に精通していることを伺わせた。楽章の後半は、転調した第一主題から始まり、心の乱れを現すようなざわめきがひとしきり続いた後で、唐突に第二主題がクレッシェンドと共に再現して救済を暗示し、そのまま安らかな結尾に達する。第四楽章は打って変わった嵐の音楽で、第三楽章の余韻をきれいに拭い去る。佐渡はもちろんこの楽章をリズム感抜群に荒々しくドライヴして見せた。若いオーケストラは、技術的不安がまったくなく、老練な指揮者に操縦されると最高の性能を発揮するのだと思った。古楽演奏とは違うネオ・ロマン主義的な演奏だが、これはこれで大アリである。
 もう「悲しみ」だけで満腹した気分だったが、この演奏会のメインは、その後のラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」とピアノ協奏曲第三番だった。それは、ラフマニノフの良い聴き手ではない私にとっても刺激的で楽しい経験で、一晩で二つの重い協奏曲を軽々と演奏してみせる反田の名人芸に圧倒された。特に第三協奏曲の第一楽章が良かった。ピアノが非常に歯切れ良く明快だっただけではなく、オーケストラも単なる伴奏ではなく有機的な細部を担って、ピアノとスリリングに対話していた。これは録音ではなかなか聴き取れないもので、ラフマニノフのような音楽は生で聴かないと分からないと思った。他方ハイドンは現代の演奏会場の条件の下では生だけでは分からないところがあり、録音の方が良い場合もある(それでも生を聴きに行くけれど)。演奏会の最後は、アンコールにチャイコフスキーの弦楽セレナーデから「エレジー」を演奏したが、これは最初の「悲しみ」交響曲の第三楽章と対応し、洒落た趣向だった。
 アクトシティー浜松は満杯で、暖房が効きすぎて、熱い演奏会を演出したかったのかと疑いたくなるくらい(笑)暑かった。佐渡氏は以前見たはずなのにすっかり忘れていて、背が高いことや最初の挨拶の朴訥な語り口に勝手に思っていたイメージと違うなと感じ、顔つきが安倍前首相になんとなく似ている気がする(声は全然似ていない)のが可笑しかったが(失礼)、演奏は最高だった。是非「悲しみ」のCDを出してほしいと思った。

現代の東アジアにおいて「思想」は可能か

 私は数年前から通称「スガゼミ」と呼ばれる絓秀実氏を中心とした読書会に参加している。「スガゼミ」は、もともと絓氏が近畿大学四谷キャンパスで教えていた頃から続いている読書会だが、昔のことは知らない。参加者の顔ぶれは基本「来る者は拒まず去る者は追わず」ということで、その時代によって種々様々、いかにも絓さんらしい「雑」な雰囲気の読書会で(ちゃんと挨拶もしないので、未だに参加者の名前を全部覚えていない)、月に一度課題図書(文芸批評の時もあるが、多くは哲学や法学・歴史学・社会学などの専門書)を決めて報告者を一人決めて発表してもらい、それについて言いたいことがある人が勝手なことを言い(大体批判)、特に結論も出ないまま終わって、その後に残りたい人だけの緩い食事会飲み会となるのが常だった。しかしコロナでしばらくはオンラインということになり、その最初の回として、去年の十月に私が報告者となり許紀霖の新刊『普遍的な価値を求める』を取り上げた。
 この本は、叢書ウニベルシタス初の中国人の本ということで、最近私が考えている「東アジア的専制主義」(やはり昔なじみの「東洋的専制」の方が言いやすいが、私のオリジナルの概念としてまだしばらく使ってみる)について参考にならないかと思い、読んでみた。許氏は一九五七年生まれの華東師範大学歴史系教授で、中国の体制内知識人の中ではロールズやアーレントに影響を受けたリベラル派のようであり、この本では未来の東アジアの秩序を構想する思想として「新天下主義」という理念が提唱される。「新天下主義」とは前近代の中華帝国を支えた儒教の理念=「天下主義」を踏まえてそれを革新したもので、「新」には「脱中心と脱ヒエラルキー化を目指す意味」がこめられていると言う。具体的に著者が考えているのは「EU式共同体」を東アジアにおいて形成するというものだが、どこまで読んでも総論的なスローガンが羅列されるばかりで、タマネギの皮を剥いているみたいに一向に議論が深まって行く気配がないのが、もどかしい本だった。
 このもどかしさがどこまで中国共産党の専制的独裁下の言論の不自由に由来しているのか、一読しただけではなかなかそのあたりを考えるのは難しい。序の副題に「新天下主義と現代中国思想」とあったので、現代中国に「思想」があったのかとちょっと軽口を言ったら、絓氏からそれは差別だとすかさずたしなめられたが、「表現の自由」が暴力的に制限された社会において、「思想」は可能なのかという疑問は自然に湧いて当然である。実際許氏は中国共産党による専制支配を批判せず、「国民国家の同一的な思考の外に、帝国の柔軟性に富んだ多様性と重層的なシステムを補充することでバランスを取るべきである」と、共産党支配=「国民国家の同一的な思考」を「補充する」ものとして中華帝国的華夷秩序=「帝国の柔軟性に富んだ多様性と重層的なシステム」を位置づける。
 現代中国知識人の思想の自由度は、戦前の大日本帝国下の知識人の思想の自由度と比べられるかもしれない。たとえば夏目漱石は(日本は)「滅びるね」と『三四郎』の広田先生に言わせるが、「天皇家は滅びる」とはたとえ言わせたいと考えても言わせられない。「日本は滅びる」が具体性のないイメージ(どうなれば「滅びる」のか分からない)であるが故に、三四郎を驚かせる程度の適度な危険の香りを漂わせつつ本質的に安全なのに対して、「天皇家は滅びる」は具体的な内容を持つ故に真に危険になりえる。そして漱石の言説には、それを言えない(漱石自身にもともと言うつもりはないにしても、言おうとしても『朝日新聞』もその読者も許さなかっただろうという意味で、もともと選択肢がない)ことにおいて不可視のリミッターがかかっている。漱石のテクストはそのリミッターを常に意識して読まないと、偶像崇拝に陥る。同じように現代中国の体制内知識人は、中国共産党支配の解体や少数民族・自治区の独立を、中国の支配権の及ぶ場所では言うことができない。どんな西欧的な思想の粉飾を凝らしても彼らの「思想」は主人つきの思想である(現代日本で言論の自由がどこまで実質的にあるのかも疑問には違いないが)。
 許氏の本はその意味で、戦時中の日本の「近代の超克」座談会を思い起こさせる。氏の言う「EU式共同体」も結局は中国版「大東亜共栄圏」の一形態ではないかということになり、議論はあまり膨らまなかった。その中で一つ出たのは「東アジア」というカテゴリーへの疑問である。なぜ中国と日本・南北朝鮮というまとまりが特権化されるのか、東南アジアやロシアは排除されるのか。このことについては、漢字・儒教文化圏という基準が「東アジア」という観念を支えているからとりあえずのカテゴリーと良いのではと私は答えたが、納得してもらえず、意見は一致しなかった。
 また許氏の本では、現代中国の国家主義者がシュミット主義を取り入れているという指摘が興味深かった。これは二〇〇八年の北京オリンピックとリーマンショックを画期とする中国の経済的・国際関係的「興隆」を背景としたもので、かつての日本帝国の京都学派的国家主義のセンチメンタルな融和主義的発想よりもっと「友」「敵」的なマキャベリズムに徹底したものであるらしい。シュミット主義と言えばナチズムが連想されるが、現代中国ではフランス現代思想によって脱構築され見かけだけ無害化されたシュミット主義が、改めて中国的全体主義に奉仕させられるということなのだろうか。
 現代中国思想というと、2010年代に汪暉が鳴り物入りで日本でも丸川哲史などによって持てはやされ、柄谷行人と対談するなどということがあった。本書でも汪暉についてコメントがあり、絓氏はそのあたりに興味があってこの本を読んでみたとのことだったが、私は不勉強で汪暉をまだきちんと読んでなかったので、発表では素通りしてしまい、議論できず残念だった。後で汪暉について調べてみると、いろいろ突っ込み所のある人だということは分かった。
 汪暉の著作としては『思想空間としての現代中国』と『世界史の中の中国 文革・琉球・チベット』が日本語で読める代表的作品ということになるが、私がざっと読んだ限り、天安門事件以降の経済発展の下で「文革」的なものを清算し「脱政治化」したように見えた中国の「モダニティ」を総括し、新たな「政治的価値」の「構築」を目指した本と言える。ただその内容は最終的には中国の国家主義の美化につながる。『世界史の中の中国』で汪氏は、丸川らに案内してもらった「琉球」について「社会運動は真の意味で草の根的性格を、また民主的性格を体現した」と評価するが、その評価のポイントは「アイデンティティ・ポリティクスを民族主義のアイデンティティ・ポリティクスに局限」しなかったこと(つまりむやみに日本からの独立などを志向しないこと?)にある。そしてその反対の例として中国から分離したがっている台湾が批判され、更には2008年に表面化したチベット問題については、中国による同化政策を「文化的ジェノサイド」ではないと擁護している。汪氏から見れば「フリーチベット」などと言って西欧人がチベットの解放を主張するのは、オリエンタリズム的幻想と自身の植民地主義への無反省の産物に過ぎず、中国は現実的にチベットの農奴制を打破し、ダライ・ラマからチベット人を解放したのであり(そう言えば山城むつみも、「フリーチベット」運動が起きた時『連続する問題』の中で、例によって回りくどい書き方だったがダライ・ラマを批判していた)、現在のチベット社会の動揺はむしろ西欧的資本主義化による社会不安がもたらしているということになる。
 しかし中国に依然として言論の自由がないということが、こうした議論を「頭隠して尻隠さず」的に空疎に感じさせる。実際許氏の本によると、「汪暉は本来はかなりの批判的意識を持っている知識人であったが、ここ数年で驚くべき「転向」を行い、「脱政治化の政治」に対する批判から「党国が普遍的利益を代表する」という論を提唱するようになった」と言う。これは1930年代の日本の自由主義知識人の大政翼賛体制への転向を思わせるが、もともと汪氏の議論には「転向」(中国では日本のように「転向」を内面的=文学的に悩むことはあまりないように感じられる)の素地があり、別に驚くべきことではないように見える。「思想空間」というものを名乗るには、政治的情勢論ではなく、まず「言論の自由」についての徹底的な原理的考察が不可欠ではないか。
 スガゼミの読書会では時節柄当然香港問題の話も出た。黄之峰氏に会ったことがあるという人からその人柄についての興味深い噂話なども聞いたが、印象的だったのは、中国に何年かいたことのある人が、大陸の中国人は、香港民主派に対して反感を持っていて、弾圧を支持している人が多いという話をしたことだった。香港民主派はそもそも育ちの良いブルジョワジーの子弟であって、中国人から見れば貧乏人の敵であり、好感が持てない。他方大陸の中国人にとって、中国共産党は、日本の自民党のようなもので、清濁併せ飲み中国人を物質的に豊かにしてくれた恩人として支持の対象となっていると言う。
 そう言えば去年松浦寿輝が文芸誌に「香港陥落」という小説を書いていたが、それはタイトルが予想させるのとは違って、第二次大戦における日本軍の香港占領を描いた作品だった。しかし作品の終盤、日本の敗戦の後、香港人の黄が「ぼくは共産党政権にはこの町は呑み込まれてほしくない」と共産党への嫌悪感を表明するのは、現在の香港情勢への目配りを感じさせる。この小説はフィクションを借りた松浦の中国論として読めるが、黄に「中国人の住む土地は中国人によって自治されるのが筋でしょう」と言わせる松浦は、中国人同士の階級問題を忘却しているように見える。そして黄は続けて「ともかく植民地というものは世界から消滅すべきです。植民地主義は十九世紀の遺制です。とうに時代遅れになった悪夢です」と言うが、むしろ世界中がすべて宗主国なき植民地になってしまうのが、植民地主義の真の解決策かもしれない。
 汪暉『世界史の中の中国』の訳者の羽根次郎によるあとがきには「二〇〇八年に発生したチベット自治区での騒動、そしてその翌年に発生した新疆ウイグル自治区での騒動の際の、日本の知識人の失語状態」についての言及がある。羽根氏は汪氏の側に立っているようなので、日本の知識人はもっと中国の現実を知って中国を擁護しろと言いたいようだが、いずれにしてもこの中国の「人権」状況に対する日本人の「失語状態」は現在まで続いている。もちろん香港の民主化運動を弾圧する香港政府とその背後にある中国政府の専制を支持肯定できるわけではなく、たとえば周庭氏らがたとえ恵まれたブルジョワジーの子弟だろうと即時釈放され自由になるべきなのは明らかであるが。
 私は情勢論ではなく原理的にこの「失語状態」を考えたい。それはたとえば「言論の自由」という時の「言論」において、漢字というエクリチュールが持つ機能を徹底的に考え直すことである。柄谷行人(あるいは漱石・鷗外から古井由吉・渡部直己に至るまで)に典型的に見られるように、近代日本文学におけるナショナルな言文一致の成立が日本文学・日本文化を貧困化したとして、失われた「漢文学」を称揚するという身振りをすることは、近現代の日本の典型的な文人仕草だった。柄谷が後に『帝国の構造』などを書いて中国の帝国性を賛美するようなことを書き、中国人に「康有為」みたいだと言われて喜んだりする(丸川哲史との対談「帝国・儒教・東アジア」、『現代思想』二〇一四年三月)その原点は、「漢文学」評価にある。そこでは特にデリダのエクリチュール論が暗黙に理論的支えになっていたように見えるが、改めてデリダを読んでみると、日本語における漢字の位相は、柄谷とは違って見えて来る。
 デリダは、西欧形而上学の根本的偏向として、音声言語を文字言語より根源的なものと見なす音声=ロゴス=ファルス中心主義を指摘し、その脱構築を目指した。そこで批判される音声中心主義のテーゼの一つとして「書かれたことばは、尋ねられても答えることのできぬ未熟で不具なものであり、「つねにその父の立ち会いを必要としている」(プラトン『パイドロス』)」(『グラマトロジーについて』)という言説があるが、これを日本語の中で考えると、日本語の場合むしろ逆に、話された言葉の方が、常にその「父」(書かれた文字言語)の立ち会いを必要としていることが分かる。たとえば、「しそう」という言葉を音声として発しても、それがどのような意味なのかは、頭の中で「思想」「死相」「詞藻」「試走」などといった漢字によって補わなければ確定できない。これは漢語・音読語だけの現象ではない。和語の場合でも、「たずねる」に対する「訪ねる」「尋ねる」「温ねる」のように、その意味は漢字を当てはめることで明確になる。つまり西欧形而上学における音声中心主義に対応するものは、日本において文字中心主義として現象する。ただしそれは「ロゴス=ファルス中心主義」とは言いがたい。「ロゴス=ファルス中心主義」に類似したものは、むしろ日本の文字中心主義を「からごころ」として否定した本居宣長のような言説に宿るようにも見える。
 このことは中国語においてはどうなのか。中国語は日本語とは異なる系統の言語だが、しかしやはり漢字によって日本語とは別の形で制約されているのではないか。許氏の本を読んで、翻訳を通しての感想だが、その機械的でスローガン的な発想法、対象を何でも二分類か三分類して意味づけて行くその論理構成が、とても漢文的なものに感じた。汪暉の『思想空間としての現代中国』によれば、「中国の言文一致運動は、新しい民族語を創出するという点では、日本や韓国と同じ方向に向かっていた」が、「漢字記号からの離脱という問題が存在しなかった」と言う。むしろ「漢字こそ、現代中国語の統一性、「一元的統一」をもたらした」。方言を正確に写すことを拒絶するこの漢字一元表記は、現代中国人が「中華民族」という新しく作られた人工的な概念の下で中国を国民国家として想像しようとする時の物質的基礎になっているように見える。

※追記(2021/01/20)
 この記事の『三四郎』からの引用について、小谷野敦氏から「漱石は「亡びるね」と書いている」とツイッターでまた指摘があった。実のところ私も「亡」だったかなと記憶していたのだが、この記事を書いた時に手元に本がなく、青空文庫を見たら「滅」だったのでそれをそのまま写してしまった。指摘を受けて少し当たって見ると、初出紙も初版本も岩波の全集も新潮文庫本も「亡」だった。青空文庫は角川文庫クラシックスを底本にしたとあるので、角川文庫を書店で立ち読みしたら確かに「滅」になっていた。文庫は何を底本にしたのか書いていない。同じ角川書店でも詳細な注釈が付く日本近代文学大系本は「亡」になっている。角川文庫の誤植だろうか。それとも何か理由があるのか。そもそもなぜ青空文庫は角川文庫を定本にしたのか(版権の関係?)。私はこれ以上調べる気はないが(亀井麻美さんなら分かる?)、「亡」か「滅」かをいちいち気にしなければならないこと自体、日本語における「文字中心主義」の典型的な症候であることは指摘しておきたい。それはヘーゲルの「象形的な文字は、一般に支那文化が註釈的であるのと同じように註釈的な哲学を要求するであろう」(『エンチクロペディー』、デリダ『グラマトロジーについて』からの孫引き)という言葉を傍証する。

『蒲団』論再読

 今年は大学の授業がすべてオンラインとなったが、その中の一つの授業で田山花袋の『蒲団』を取り上げた。教養のオムニバス授業の最初の2回分が私の担当で、1回目は『蒲団』そのものの講読、2回目は現代に至るまで『蒲団』がどのように読まれて来たかを振り返って分析解説した。『蒲団』論(パロディ的に再解釈した小説も含む)として取り上げたのは、紹介した順番に柄谷行人『日本近代文学の起源』小林秀雄「私小説論」中村光夫『風俗小説論』後藤明生『小説―いかに読み、いかに書くか』小谷野敦『〈男の恋〉の文学史』高橋源一郎『日本文学盛衰史』中島京子『FUTON』有本伸子「〈作者〉をめぐる攻防―田山花袋『蒲団』と岡田美知代の小説―」(『日本近代文学第88集』)といったテクストで、それにモデルにされた岡田美知代の『蒲団』についての証言も付加した。
 何度も読んだ文献も含まれていたが、今回読んで「古さ」を最も感じたのは『風俗小説論』だった。中村は花袋が『蒲団』の主人公の滑稽さに気づいていないと批判するのだが、中村の執拗な批判そのものが今読むと滑稽に感じる。時間がないので授業では紹介しなかったが、中村は、『蒲団』の元ネタとなったハウプトマンの戯曲『寂しき人々』を、『蒲団』との比較において賞賛しているのだが、実際に読むと(森鷗外訳で読んだ)『寂しき人々』はそんなに良い作品かと反問したくなる。中村は『寂しき人々』を「このドイツ自然派戯曲の秀作が切りとった人生と時代の相の断面には、ヨハンネスの周囲に、恋人のアンナを始め、旧弊な父母も、温良ないじけた妻も、友人や牧師のような端役まで、みな対等の重量をもつ存在として描きだされ、だからこそ彼等の醸しだす息苦しい葛藤の雰囲気が弱いヨハンネスを死に導く必然が読者の胸に感銘を与えるのです」と述べるが、ヨハンネスの苦悩は19世紀ヨーロッパ的市民社会の枠の中に収まり過ぎていて、私は『寂しき人々』を踏まえながらそれを異化し、市民社会になりきれない日本社会を背景に現代でも未解決なセクハラ的構造を描いて見せる『蒲団』の方にずっと「感銘」を受けた。『寂しき人々』の過大評価は、それ自体当時の日本の知識人の西洋憧憬を反映している。現在の日本も一皮剥げば東アジア的専制主義国家の「堯舜バージョン」(お好みなら「仁徳天皇バージョン」と言ってもいい。要するに慈悲深く徳の高い、専制と感じさせない専制主義ということ)である以上、精神の自由のためには、より一層のグローバルな市民社会化が望ましいにしても、その時目指すべき目標は19世紀西欧社会ではもはやありえない。そもそも戯曲と小説とを同列に論じるのも無理がある。
 小林の「私小説論」は、具体的な作品分析がないので、『風俗小説論』より古びていない。ただ共産主義革命とプロレタリア文学が挫折した昭和十年前後の日本において、「社会化した私」が成立するには、新たに共和主義あるいは自由主義・民主主義による市民革命(による天皇制廃止)が必要なはずなのに、そのことに口をつぐんだまま(もちろん当時それを言ったら即逮捕断筆だが、小林にはそもそもその発想がなかったように見える)文学者の精神的自助努力による文学復興ばかりを言うのは倒錯的である。結局それは小林が、自然主義文学者や私小説作家以上に「封建的」な文学者だったということを示しているに過ぎない。
 後藤の本は、『風俗小説論』に対する反論として、『蒲団』の小説としての面白さをテクストの細部において読み直すもので、これは現在でも新鮮である。特に印象に残ったのは、最終章において芳子が故郷から時雄に送った文語文の手紙の中の「茶色の帽子」についての分析である。芳子は表向きの文面では、新橋駅での別れの際時雄がかぶっていた「茶色の中折帽」に言及し、帰郷後も自宅の硝子戸の前に立つたびにその帽子が写って見える気持ちがしたと語るのだが、実はこの別れの際、時雄の背後に、芳子の別れさせられた恋人の田中が、やはり「一個の古い中折帽」をかぶって隠れて見送っていたことが語り手によって書かれていた。田中は、時雄の家の玄関を出る時から時雄たちをつけていて、その際にかぶっていた帽子は「茶色の帽子」とあるので、この「一個の古い中折帽」も同じ帽子と考えられる。従って芳子が、実家の硝子戸越しに本当に思い浮かべていたのは、時雄の「茶色の中折帽」ではなく田中の「茶色の帽子」だったと、鋭敏な読者なら読み取れるはずであり、後藤はそれをこの小説における「他者の目」の端的なあらわれであると指摘する。
 なおこの後藤の読みは、『蒲団』初出の雑誌『新小説』の口絵と合わせて読むと更に面白くなる。小林鐘吉によるその口絵(検索すればネットでも見られる)は、新橋駅での別離の場面を描いているが、原作と違い、時雄は帽子をかぶっておらず、田中と思われる背後の男だけが茶色の帽子をかぶっている。口絵を描く上で原作者や編集者の関与がどれだけあるものなのか分からないが、この口絵(日本近代文学大系本などにも紹介されているが、後藤は言及していないので、見ていなかったかもしれない)は後藤の読みを先取りしているようにも見える。
 小谷野敦『〈男の恋〉の文学史』は、一九九七年の朝日選書版と二〇一七年の定本版があるが、後者は前者を大幅に書き直していて、比べるとその落差に驚かされる。特に最後の部分がそっくり差し替えられている。すなわち朝日選書版の「むすび 行人を超えて」において小谷野は「一郎の苦しみは私には人ごととは思えない」と述べ、「男がいかにして「恋」や「片思い」や「愛の一方的要求」を乗り越え、肉体を備え、愛することを要求してくる女性に応えられるか、つまりどのようにして「愛する技術」を身につけるかという問題の捉え方」をすべきだと至極まっとうな提言をして締めくくる。これは博士号取り立ての新進気鋭の野心的な大阪大学助教授にふさわしい身振りだが(あとがきでのお世話になった「先生」たちへの謝辞の嵐が、後の小谷野氏を考えると微笑ましい)、この結論を削除して代りに付加された定本版の「女性嫌悪の文学――夏目漱石と三島由起夫」は、一転やさぐれた在野批評家の牙を剥き出しにして、漱石の「漢文的な女性蔑視」を指摘し、「女は、女性嫌悪的な男のほうが好き」だから漱石や三島は女性読者に支持されると穿って見せる(この意見を授業で紹介したら、学生(多くは女子学生)のコメントでそう言う小谷野氏こそ女性嫌悪的だという否定的意見と、知りたくないことを知ってしまったという肯定的意見の双方が出た)。
 朝日選書版と定本版の間には、小谷野氏の「もてない男」カミングアウト(?)と大学からの離脱があるのだが(ちなみに、最近亡くなった宅八郎が決して本当の「オタク」ではなかったように、小谷野氏もまた本当の「非モテ」ではない)、両者の差異を詳細に検討する余裕は私にはない。『蒲団』の読解についてはあまり変わっていなくて、二葉亭の『浮雲』が復活させた「男の恋」の問題系を『蒲団』が男の性欲の問題にすり替えてしまい、それを二葉亭自身が『平凡』で追認してしまったという小谷野氏のストーリーには、一定の説得力がある。私としてはそれに付け加えて、漱石が江戸武士道伝来のナルシスティックな「もてる男」の物語を復活させて文壇の覇権を握ったことで、最終的に「男の恋」は流産したのではないかと、仮説を立ててみたい。この時期漱石と二葉亭は共に『朝日新聞』にいたが、両者の関係は微妙なところがあり、二葉亭は花袋に敗れたのではなく、漱石に敗れたと言うべきではないか。実際二葉亭が去った後の『朝日新聞』は漱石の独擅場となった。
 高橋源一郎『日本文学盛衰史』は、AV監督が花袋に「押し倒しなよ」と言って批判する場面を紹介したが、現代的なパロディとして面白いと意外と好意的に評価する学生のコメントがあった。ただ一人だけ「授業内容が誰かにとって明らかに不快なものである場合、事前に通知して自由参加にした方が親切だ」「女性に対する配慮がもう少しあっても良かった」という意見があり、具体的なことは書いていなかったのでどの部分を指しているのか分からなかったが、最も心当たりがあるのはこの高橋のテクストについてである。アファーマティヴアクションをすべきだったのかもしれない。
 中島京子『FUTON』は、特殊日本的な普遍性のない物語として考えられて来た『蒲団』を中年アメリカ人男性の日本文学研究者デイブが妻の視点から書き直し、かつ恋人のいる日系女子学生エミを追いかけて日本に行き、日本で知り合ったイズミと寝たりしながらエミを探すという二層構造のテクストである。かなり冗長だが、妻の視点で書かれた小説内小説「蒲団の打ち直し」はなかなか良くできている(ネタバレになるが、蒲団の臭いを嗅ぐところは思わず笑ってしまった)。ただデイブが日本でいい思いをし過ぎで、その日本に対するオリエンタリズムが相対化されないままむしろ強化されるのは問題である。アメリカの白人男性にとって、日本の女性は今でも「名状しがたい愛しさの感覚」をもたらしてくれる癒しにみちた「わけのわからない生き物」なのだろうか。文章もべたべたして感傷的で、この意味では『蒲団』より後退している。
 有本伸子氏は、岡田美知代を紹介するウェブサイトも作っていて、岡田美知代再評価に力を入れている様子で、とても参考になった。ただ美知代が『蒲団』を本当に乗り越えるためには、『蒲団』によって歪められた「真実」を告白するだけではなく、『蒲団』を超えた「小説」を書くべきだったとは思う。美知代は恋人と結婚した後に離婚し、アメリカに渡って再婚するが、第二次世界大戦によって帰国するという波瀾万丈の後半生を送っているのだが、それについての資料は乏しい。美知代自身がそれについて書くことはなかったのだろうか。そう言えば田村俊子もアメリカに行ったことについてはあまり書いていないように思う。美知代が花袋について書いた文章を読むと、『蒲団』よりもむしろ『妻』『縁』で書かれた自分のイメージに対する怨恨が強いように見える。確かに印象描写の積み重ねによる小説的プロットの破壊という意味では、後の私小説の制度を作ったのは『蒲団』ではなく島崎藤村の『春』であり、それを承けた花袋の『生』『妻』『縁』の三部作だったと言えるかもしれない。

※追記(2020/12/15) 
 この記事について、小谷野敦氏から「大杉重男は柄谷をとりあげなかったがやはり何か遠慮すべき関係なんだろうか」というツッコミがツイッターであった。柄谷についてはこれまで散々書いて来たので、また書くのも面倒な気がして書き落としていたのだが、言われたので書いておくと、授業で触れた『日本近代文学の起源』の花袋についての記述は、学生のコメントでは評価が高かった。告白すべきものがあるから告白するのではなく、告白という行為が事後的に告白すべきものを転倒的に生み出してしまうのだという理屈は、初めて聞くとみんなはっとさせられるようだ。ただ柄谷の場合問題なのは、一度悪魔払いされた「告白」(あるいは「内面」「病」)が、漱石と共にすべて回帰して来ることである。柄谷自身は認めないかもしれないが、柄谷の漱石論を読むと、漱石は花袋と違って「告白」すべき「本当」の「内面」を持ち、「本当」の「病」に取り付かれていたように見えて来る。柄谷は一方で制度的と見なされる「告白」「内面」「病」を批判しながら、他方で制度から逸脱したと想像される単独的な「告白」「内面」「病」を漱石と共に再制度化する。小森陽一以下、一時近代文学研究の分野で量産された(現在でも潜在的に持続する)倫理道徳的な漱石論の起源はここにある。ただ最近の平板で凡庸な「文学史」の復活ぶりを見ると(「平成文学史」とか無意味もいいところだ)、「文学史」を作って線引きすることそのものの転倒性を批判した『日本近代文学の起源』の精神そのものは忘れられてはならないし、私がしているのも「文学史」批判という意味では柄谷を反復する試みである。

バーバラ・ハンニガンのハイドン

 ハイドンの交響曲第49番「受難」を私が初めて聴いたのは、高校生の頃バレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団のレコードによってである。第44番「悲しみ」とのカップリングで、私がハイドンの短調交響曲の魅力に開眼した始まりだった。その後さまざまな演奏に接してもなかなかこれという演奏に出会えないで来たが、それが今年になって、理想的と言える名演に出会うことができた。バーバラ・ハンニガン指揮ルートヴィヒ管弦楽団演奏によるCDである。
 このCDは、ハイドンの49番を、ルイジ・ノーノ「ソプラノ独唱のための「ジャミラ・ブーパシャ」」とジェラール・グリセー「ソプラノと合奏のための「戸口を抜けるための四つの歌 」」が前後から挟むというプログラム構成になっていて、全体は「La Passione」(受難)という主題によって貫かれている。特徴的なのは指揮のハンニガンが現役のソプラノ歌手でもあり、両端の曲では素晴らしい歌声を聞かせることである。
 49番は、非常に表現主義的な解釈で驚かされる。ロマン主義的だが、かつての伝統的でムード派的ロマン主義ではなく、批評的攻撃的な21世紀的新ロマン主義であり、マーラーや新ウィーン楽派から捉え返されたハイドンである。特に第1楽章のリピート部で、通奏低音のチェンバロが大胆な即興的オブリガードで弦楽の嘆きの歌を彩るのが、凄いとしか言いようがない。ハンニガンはCDの自筆解説で、チェンバロパートは「闇に迷う天使」であり、「暗闇の中を、弦楽とは異なる道をたどりながら、葬布に収められた彼女の翼、半ば死んだ彼女の肉体、置き去りにした愛に無自覚なままの彼女の魂を、つまづき手探りする」とそのイメージを述べている。実際聞いて見ると、このイメージのまま、チェンバロは、さまよえる傷ついた天使の歩みのように、暗鬱な弦楽とは全く違う躁的に調子の外れた音楽を平行して奏でる。それがとてもかっこいい。
 ハンニガンについて私はほとんど知らなかった。彼女が指揮した「CRAZY GIRL CRAZY」と題されたアルバム(アルバン・ベルグの「ルル」組曲をベリオとガーシュインで挟む)を既に持っていたが、真剣に聴いていなかったので改めて聴いて見ると、これも良かった。ライナーノートによれば、彼女はルルを歌い始めるのと同時に指揮者としてのキャリアを始めたとのことで、『ルル』によって演技・愛・死についての感覚が変わったと言う。そこで彼女が歌っている『ルル』のDVDも買って視聴してみた。 これまで『ルル』のDVDと言えば、シェーファーのルルが気に入っていたのだが、ハンニガンのルルは断然それを超えていた。彼女は文字通り身体を張って美しく魅惑的なルルを演じ、見事なダンスまで見せてくれる。前記ライナーノートで、ハンニガンは、ルルは「ファム・ファタール」ではなく「自由精神」「地霊」であると書いているが、改めて『ルル』を見ると、殺した父的存在(『ドン・ジョヴァンニ』は騎士団長、『ルル』はシェーン博士)の亡霊的再来によって破滅するところなど、何か女性版『ドン・ジョヴァンニ』のようにも感じられた。ルルにとってシェーン博士(このDVDではイメージと違って若々しく痩せてイケメン)は他の男たちとは別格の意味を持つ「運命の男」だったようにも見える。
 ちなみに私はシェーン博士と息子のアルヴァの関係を見るたびに、徳田秋聲と息子の一穂の関係を連想する。「強い父と弱い息子」、生活力旺盛な一代目と線の細いデカダンな二世の組合せという点で両者はどこか似ている。ただルルがシェーン博士を撃ち殺したのに対して、『仮装人物』で葉子が庸三の首を絞めても殺さないところが、日本的であるのかもしれない。
 ともあれハンニガンはネットで調べてみると、ハイドンも積極的に取り上げていて、「パリ交響曲」集の一つ86番を指揮している映像を見ることができる。これは打って変わって軽やかで爽やかな演奏だが、音楽に没入する指揮者のくるくる変わる表情が魅力的で楽しい。また今年の10月にはヨーテボリ交響楽団を指揮してハイドンの44番とマーラーの4番を演奏したようなので、ハイドンの「疾風怒濤」時代の短調交響曲を現代音楽と組み合わせるというコンセプトで、今後もAlphaレーベルからアルバムをシリーズ化してほしいと思った。44番の第3楽章や45番の第2楽章も、チェンバロの即興演奏で異化するのにとても適している。

閻連科と『縮図』

 私は昔「投壜通信」概念をめぐって浅田彰に論争めいた文章を書いたことがある(「web重力」)。それはあまり論理的なものではなく、ただ浅田氏に『重力』刊行の努力を上から抑圧されたように感じ反発して書いたものだったが、最近、これこそ「投壜通信」ではないかと思ったことがあった。それはニューズウィーク日本版の夏期合併号(2020年8月11日/18日号)の特集「人生を変えた55冊」の中で、現代中国の作家閻連科氏が、1980年代の半ば頃、徳田秋聲の『縮図』の中国語訳を読んで「政治、戦争、恐怖の空の下、徳田秋声がいかに人を愛し、市井の生活を理解するのかを知った」と表白していることである。閻氏によれば「『縮図』の素晴らしさは、チェーホフのように人間が生きるということについての厳粛な理解にある」のであり、「今日に至っても、何となく本棚からこの『縮図』を取り出し、静かにぱらぱらとめくっては、目に付いたところを読んでいる」と言う。
 1980年代の半ばと言えば、日本では「ダブル村上」と「ニューアカ」が一世を風靡していたバブル全盛期ということになるが、その時『縮図』が中国で一人の無名の読者の元に偶然届き、彼が世界的な小説家になる手助けをしたとすれば、それは感動的な出来事に違いない。私は恥ずかしながら閻氏の小説を読んだことがなかったので、この機会に『愉楽』と『炸裂志』を読んでみた。そして『縮図』との間の「家族的類似性」(柄谷行人経由で知ったヴィトゲンシュタインの概念)を仄かに感じた。
 『愉楽』は明代に山西省からの強制移住で成立した「受活村」(「受活」は河南の方言で「愉楽」という意味)という河南省の村の歴史を叙した物語である。この村は代々身体障害者たちが集まって暮らし、治外法権状態だったが、凍傷で障害者となり村に流れ着いた元紅軍の女兵士の茅枝によって人民公社に入社し、革命後の新中国に組み込まれる。そしてその茅枝が老齢になったある年の夏に大雪が降り、それをきっかけに県長の柳が、村を豊かにするためにレーニン記念堂を観光施設として建てることを思いつき、レーニンの遺体を購入するために、障害者たちの曲芸団「絶技団」を組織して巡業に出る。
 いわゆる「マジックリアリズム」的作風だが、中国が舞台だとそれがリアリズムにも見えて来る。物語は、夏に大雪が降る「大暑雪」の話から始まるが、私はこれを読んで 『縮図』の冒頭、物語の聞き手役の均平が、ヒロインの銀子に「幕末には二年も続いてひどい飢饉があつたんだぜ。六月に袷を著るといふ冷気でね」と語る言葉を想起した。秋聲の小説の中で「幕末」の話題が出るのは唐突で(秋聲が称賛した島崎藤村の『夜明け前』の影響があるのかもしれない)、銀子も「返事のしやうもない」のだが、この何気ない一行が、閻氏の小説の「五黄六月(旧暦五月・六月の暑い天気)の大暑雪」のヒントになっていたら面白いと思った。いやまったく関係なかったとしても、『愉楽』にしても『炸裂志』にしても、一つの世界の「ミクロコスモス」=「縮図」である点において、『縮図』と共通するものがある。「マジックリアリズム」というと、とめどもなく続く饒舌体のイメージがあるが、閻氏の小説は比較的簡潔な文章で、相対的に短い断章の集積から出来ているのも、新聞連載のため細切れにされた挿話の集積である『縮図』のスタイルと近く感じられる。現在から過去に繰り返し飛んで行く時間感覚も同様である。
 閻氏は「包み隠さず言えば、一人の作家の全ての作品を読み切ったという経験はない。作家に対する理解が深まると、その作家の作品に対する愛が冷めてしまうからだ。ある作家の作品を気に入ったからといって、彼(彼女)の人生にはほとんど興味を持つことはなかった」と述べている。このような読書態度(反小林秀雄的と言える)の閻氏が、私小説の極北のようにも言われる秋聲のテクストと出会い、そこから生み出されたものがあったとしたら、その逆説こそが文学と言うべきものだろう。そして閻氏が出会ったのが『縮図』だったというのも、必然的な偶然と言うしかない出来事だったように思える。
 『縮図』は、秋聲の最後の小説であるが、単なる集大成ではなく、それまでの秋聲文学とは異なる次元を示した作品である。たとえば「ミクロコスモス」=「縮図」という発想自体が、それまでの秋聲文学とは異質であり、そして当局からの圧力で未完に終わった作品の予想される結末において、それまでの秋聲作品のヒロインたちのように銀子が路上に突き放されることなく、均平と別れず援助されながら自立して生きていると考えられるところも違う。広津和郎は『縮図』をその微かな肯定性(広津は自然主義全盛期の秋聲の現実に対する否定性には批判的である)の故に秋聲文学の最高峰として評価したが、その肯定性は社会悪の無道徳的肯定とつながるものである故に議論の分かれるところであり、それは『縮図』への評価に関わっている。
 すなわち家族のために身を売って芸者になり、結婚に憧れては失敗して来た銀子は、均平との同棲にも失敗し、しかし均平とは別れないまま、置屋の女将となり、今度は芸者を使う身分になる。性産業の労働者が、性産業の経営者に成り上ってある程度自足しているその在り方を均平は、必要悪として否定せずに受け入れて、用心棒的な役割を担う。
  均平は「祖父以来儒者の家であつた」という設定になっているが、均平の銀子への態度には「愛」だけではない「仁」と言うべきものがあり、かつて江藤淳が『縮図』に朱子学的秩序の再発見を見たのは炯眼と言えるが、閻氏が『縮図』に共鳴したのも、その「ミクロコスモス」性が儒教的=古典中国的な歴史感覚に根ざしている直感があったのかもしれない。『炸裂志』は、「炸裂」という架空の村が直轄市まで膨張して行く過程を描いた架空の歴史書だが、市の「正史」として依頼されたにもかかわらず、市の暗面が荒唐無稽な「稗史」的寓話として描かれることで最終的に破棄される。それは文化大革命の終焉後、一党独裁を維持しつつひたすら資本主義化を推進して来た中国社会の縮図そのものである。文革中、村の派閥の一つの長である孔東徳は、村長の朱慶方によって投獄され苦しめられるが、文革後出獄した東徳は息子たちに未来を託し、次男の孔明亮は一万元の貯金を貯めて村長になり、村人たちに朱慶方へ痰を吐かせて憤死させる。慶方の娘の朱頴(明亮の幼なじみで恋愛感情を持っていた)は、広州に行き娼婦から始めて売春宿「娯楽城」の経営者に成り上がり、村に帰って村を金の力で支配し、明亮に村長の座を譲る代わりに、明亮と結婚し、孔家を手中に収める。物語はこの夫婦の愛憎を中心として、「炸裂」が金と女の力によって二千万都市の副首都になるまでを描き、最後に三男の孔明耀(金の力で軍功を買い、軍で出世)が、「三日間でアメリカとヨーロッパの傲慢を是正する」旅に出るために明亮を殺して炸裂の人民を軍隊で連れ去り、朱頴も千人の娘たちを集めて「軍隊を慰問する女性部隊」としてそれに加わるというファルス的なアンチクライマックスで閉じられる。
 『縮図』が自由民権運動の挫折の後、金と女だけを共通言語としてとめどなく膨張して行った日本帝国を描いていたように、閻氏の小説は、文革後に欲望がとめどなく肥大して行き、世界征服まで夢想する共産党支配の中国を描いている。日本帝国は最終的にアメリカによって倒されたが、中国が未来においてアメリカに倒されるとは限らない。閻氏は『炸裂志』の付録の「神実主義とは何か――外国語版あとがき」において、「これはひとつの新しい国であり、古い国でもある。それは極度に封建的で専制的でありながら、かなり現代的でもある。極めて西洋化していながら、東洋固有のものである」と書いている。氏は「現実主義」「リアリズム」を批判するが、それは文学技法の問題ではなく、中国の言論統制を背景に考えなければ理解できない。中国の「真実」は「神実」としてしか描けない不自由なものである。しかしその不自由こそが物語を輝かせもする。いずれにしろ閻氏の言う「極度に封建的で専制的」かつ「現代的」、「西洋化」しながら「東洋固有のもの」という在り方は、日本にとっても無縁のものではなく、東アジア的専制主義は、今後ますますリアルな問題になって来るだろう。
 閻氏は村上春樹や東野圭吾の中国での人気について皮肉をもらしているが、是非村上より先にノーベル賞を取ってほしい。そうすれば徳田秋聲は、国の異なるノーベル賞作家二人に影響を与えた作家としての栄誉を獲得する。春樹が受賞して「現代の漱石」などとまた空騒ぎされるよりは、ずっと意味のあることである。来年は秋聲生誕百五十周年ということなので、徳田秋聲記念館に呼んで記念講演してもらい、『縮図』について話してくれたら、素晴らしい。もちろんコロナ禍・予算の問題・日中関係といった困難が考えられるので、難しいかもしれないが。

「ソーシャル・ディスタンス」下のクラシック・コンサート

 六月二十日に大阪のザ・シンフォニー・ホールで開催された日本センチュリー交響楽団の「ハイドン・マラソンvol.19」の演奏会に行って来た。コロナのために、日本のクラシックの演奏会は四月以降一度全休止し、私も幾つかのチケットの払い戻しをした。「ハイドン・マラソン」の演奏会は、最初行くつもりはなかったのだが、一週間延期して挙行するというニュースをネットで見て、衝動的にチケットを買ってしまった。コロナ以後日本で最初に開かれる本格的なオーケストラの演奏会ということで、テレビカメラも入っていた(もっとも後でNHKの朝の番組に紹介されているのをチェックしたら、最初に献奏されたバッハのG線上のアリアだけ曲名が紹介され、曲は流れたのにハイドンの名前は紹介されなかった)。
 「ソーシャル・ディスタンス」を取るために隣に人がいない状態で聴くのは、思った以上に快適だった。演奏中もマスクをつけなければならないのは、集中して聴いているとだんだん頭が痛くなって来るのが難であるが、適当にマスクをずらして対処した。人が少ないと音響効果が良くなるのではと期待したが、期待通り良い音で聴けた。私は二階の左側のブロック席で聴いたが、音が良く届いた。
 曲目はハイドンの交響曲九五番・第九三番・九七番という、サロモンセットの中でも知名度のない三曲(元々はこれに加えてホルストのブラス曲が演奏されるはずだったが、距離が取れないとのことで取りやめになった)だったが、まさに私のような人間のためのプログラムと言え、それぞれの曲の後に休憩を挟み、じっくりと堪能できたのは素晴らしかった。最も感銘が深かったのは九三番で、特に第二楽章でオーボエがソロ的に動くところが美しかった。ロビンス・ランドン(『ハイドン・クロニクル』第三巻)が「ラブレー的ユーモア」と呼んだファゴットの最後っ屁は上品でちょっと物足りなかったが(これはやはり実が出るくらい豪快なセルのライヴ盤が最高)、全体としてオーケストラの音色が冴えていて、私の好きなノリントンの新盤のザロモンセットに似ている感じがして良かった。九七番のフィナーレはサロモンセットの中でも九五番のアンダンテと並んで一番地味な音楽と言えるが、立派に鳴っていた。これは聴衆を減らし奏者たちが互いに距離を取ったおかげなのだうか。
 昔「ハイドン・マラソン」が始まった頃、何度かいずみホールに足を運んで聴きに行ったが(さすがに大阪は遠いし、金曜日の夜は行きにくいので途中で行かなくなった)、その時は女性奏者たちがみな色彩豊かな衣装を身にまとっていたのに惹き付けられたものの、音がもう一つ届いて来ないもどかしさがあった。しかしザ・シンフォニー・ホールでの演奏では、音が生き生きと気持ちよく届いて来た。
 その後たまたまネットで見つけてチケットをとり、七月十四日サントリーホールの読売日響のコンサートに行った。これはコープランドの「市民のためのファンファーレ」「静かな都市」とハイドンの交響曲一〇〇番「軍隊」という組み合わせで、もちろんハイドン目当てに行ったのだが、演奏解釈は若々しくスタイリッシュで(特に第一・第二楽章はさわやかで良かった)、音量も十分だったものの、残響が豊か過ぎて音がずれて聴こえる感じがして、今一つの入り込めなかった。冒頭のコープランドのファンファーレが強烈なサウンドでホールを満たしたのだから、「軍隊」のパーカッションも派手にやって欲しかったが、今一つ上品に収まってしまったのは残念だった。ティンパニが最近のハイドン演奏で良く使われる木撥ではなく通常のものだっのも、ちょっとぬるい感じがした(後で家でヘルマン・シェルヘンのステレオ盤を聴き直したが、パーカッションの凄みもさることながら、第四楽章の猛スピードが空前絶後で、かつてあらえびす(野村胡堂)がこの楽章を騎兵の突撃に喩えていたのが誇張ではないと思わせる妥協のないものだった)。
 聴いた場所はやはり二階の左側のブロックだったが、同じように少ない聴衆で、演奏者も互いに距離を取っていたにもかかわらず、ホールの違いで音は変わるものだと思った。サントリーホールの音色は、すべてが溶け合って均質な響きになるようにできているように感じられて、随分通ったが私は未だにそれに慣れない。古楽演奏に親しんでからは、音が溶け合わずに(弦と木管と金管がそれぞれ分離して)異質なもの同士が衝突する趣がないと物足りなく感じる。残響過多になるくらいならデッドな響きの方が私には望ましい。
 そもそも私は、演奏は、楽譜が表象するイデアルな音楽をありのままに具現化するといったものではないと考えている。むしろ演奏とは、そうした音楽のイデアを何らかの形で異化し転覆するようなものであるべきだと思う。その意味で最近一番感銘を受けたのは、トーマス・マンデルがブルックナーの交響曲第五番・第七番を「ジャズ」的に編曲したCDである。この演奏については、許光俊氏が「許光俊の言いたい放題第279回『史上最恐のブルックナー』」で書いているので、詳しくはそちらを見てほしいが、特に第五番がすばらしい。原曲の構造を維持しながらそれを即興的に崩していく手際が冴えまくっている。肖像画のブルックナーがそのままエレキギターをかき鳴らして踊り始めるような抱腹絶倒の格好良さで(「ジャズ」と言うより「ロック」)、最近あまりブルックナーを聴いてなかった私も、これにはしびれた。ブルックナーというと、ともすれば荘厳で重々しい響きが強調されがちだが、原曲を通常演奏する場合も、もっと運動的でグロテスクな諧謔の音楽として演奏する可能性があるのではないかと思った。

前回記事の訂正

 前回の記事をアップした後、情報元になった編集者から連絡があり、古井氏が触ったのが尻かどうかは記憶が曖昧だということなので、前回記事の文言を修正することにした。具体的には「古井氏が文壇バーで同席していたその女性作家の尻を触ったところ」→「古井氏が文壇バーで同席していたその女性作家の身体(部位は不明)を触ったところ」、「「尻を触る」行為が「セクハラ」かどうかは」→「他者の身体を許可なしに「触る」行為が「セクハラ」かどうかは」の2カ所である。
 亀井氏が紹介している「噂の真相」にはどう書いてあったのか、今急に調べる余裕はないが、とりあえず正確を期すために修正した。

古井由吉の「神の手」

 前回の記事で、私は古井氏について書く時、古井氏のセクハラの噂について書くべきかどうか迷った。結局書かないことにしたのだが、それはあくまで文学は文学の内部で批評されるべきだと思ったからである。この考えは原則変わらないが、しかしその後山崎ナオコーラが古井氏に尻を触られる被害を受けたことをエッセイに書いたので、私も自分の聞いた話を書いておくべきではないかと思い、記して置く。
 私が聞いた話は、山崎氏(この話は知らなかった)ではなく別の女性作家の話(ゼロ年代初め?)である。この話はちょっと入り組んでいて、古井氏が文壇バーで同席していたその女性作家の身体(部位は不明)を触ったところ、同席していた大手文芸誌の編集者は、古井氏をたしなめないで、同じく同席していた別の非文芸誌の編集者を犯人として怒鳴りつけたと言うものである。身に覚えがないのに怒鳴られた後者の編集者は大変憤慨したとのことで、冤罪の悔しさを、酒席の与太話として私に直接何度か話した。
 これは山崎氏の「私以外の作家や編集者もこのことを経験していると思う」という言葉を傍証する噂話である。別に私が情報通というわけではなく(この話をした人は私が今出会って顔が分かる数人の編集者のうちの一人である)、きっと他の場所でも話しているだろうから、おそらく多くの人がこの話を知っていると思う。その女性作家自身は古井氏の仕業と分かっていて、後でそのことを別の文芸誌の編集者に相談したところ、「神の手と思ったらどうですか」という意味のことを言われたと言う。この話はあくまで、私が冤罪被害を受けた編集者氏(名前を出さなければ書いて良いと言われた)から聞いただけのものに過ぎないが(ちなみに古井氏と関係はないが、この女性作家は後に、年下の女性作家を差別語で罵ったために文壇バーを出禁にされたという)、ただ「神の手と思え」という言葉があまりに象徴的なので、記録に残したい気になった。それは「おれの女になれ」(毎度持ち出して済まないが)と同じくらいインパクトのある言葉で、古井氏の問題が、氏自身だけではなく、氏をとりまいていた文壇共同体全体に関わるものであることを示すものには違いない。
 渡部氏の場合も、渡部氏を「師匠」と仰ぐ別の教員(市川真人としか考えられない)が「もうおじいちゃんなんだから」と言って被害者をなだめようとしたという印象的な話が伝わっているが、渡部氏が「おじいちゃん」という人間のカテゴリーなのに対して、古井氏が「神」とされるているところが、批評家と小説家、「大学」教員と「文壇」人の「格」の違いだろうか。古井氏は「文壇」の神々の一人であり、その手は「神の手」であって「人の手」ではなかった。「神」である故に古井氏は、生前に他者と出会わなくて済んだ。
 河出書房新社『古井由吉 文学の奇蹟』に再録された吉本隆明「古井由吉について」は、古井が「男ガ女ヲソウ思ウト、女モカナラズソウ応エルモノダ」と信じている節があると指摘した上で、「もしそういう信がゆらいだらどうなるか」と問いかけているが、結局その「信」は揺らぐことはなかったようだ。吉本は同じ文で「本質的な意味で背徳的な怖ろしい作家が、日本にあってもいいような気がする」とも述べているが、文章の達人的境地ばかりが無内容に讃美されている古井の文学を、徹底的に俗悪な「背徳的な恐ろし」さの可能性において読み破ることが、古井文学を真に追悼する道かもしれない。『仮往生伝試文』を少し読み返してみたが、結局古井が「おじさん」受けするのは、その「ニンフォマニア」プラス「良妻賢母」的女性観が癒しになるからな気がした。私の言葉を使うなら、古井文学は、「東アジア的専制主義」の最も洗練された表現と言える。
 もちろん「神」とは文壇の中だけの話であって、一般社会の中では古井氏はただの凡庸な人間に過ぎない。渡部氏は「映画芸術」468号で、「たまたま会った電車の中で近づいてきて身体が触れた、エレベーターの中で背中を押した、コンパの時に肩を触った、食べ物を手で渡したといった事柄」は「わたしのきわめてアナログな主観からいえば」「男女を問わず誰にでもしてしまう「スキンシップ」のようなものだった」と弁明しているが、古井氏の行為もそのような「アナログ」な「スキンシップ」の一種だったのかもしれない。氏は徳田秋声の男性主人公の振る舞いを、ちょっと成功して小康を得た中小企業の叩き上げが、旺盛な「生活欲」のまま頽廃に陥って行く有様にたとえていたが、氏の「触り魔」ぶりも、高度経済成長を勝ち抜いた昭和日本のサラリーマン企業戦士の典型的な手癖の変奏形態だったと見ることができる。
 私は「セクハラ警察」を気取りたいわけではない。たとえば渡部氏のことをインターネットで匿名で叩いている人々は、多くが小説家ファンで、要するにこれまでの渡部氏の作家への批評的な毒舌ぶりへの反感を「江戸の仇を長崎で討つ」的に表現し、鬱憤を晴らしているに過ぎない。批判するなら実名でやってリスクを引き受けなければ卑怯だし、自分は正義を行使しているつもりで新たなハラスメントの暴力を反復するだけだろう。渡部氏の批評はそれ自体として読まれなければならない。古井氏の本が今後も出版されて行くだろうように、渡部氏が本を出し続けることも自由である。批判したければその内容に対して向ければ良い。
 逆に古井氏の行為など大したことはなく、カメラマンの広河隆一の事例などとは同じ次元では判断できないという意見もあるかもしれない。実際「神の手」という言葉がなければ、私も書かなかった。そもそも山崎氏は「古井さんをまったく責めたくないし、うらんでもいない」と書いている。これをそのまま受け取るなら、古井氏の行為は「セクハラ」ではないとすら言える。山崎氏は、亀井麻美氏に「古井由吉が「文學界」2008年4月号の「十一人大座談会」の集まりで隣に座っていた山崎ナオコーラさんのお尻を2度にわたって撫でたというどうでもいいことが書かれている記事」とツイートされ、「まあ、セクハラなのでどうでもいいことではないですよね」と反論しているが、山崎氏の書き方も曖昧だったように見える。古井氏の行為が「どうでもいいことではない」「セクハラ」であれば「まったく責めたくないし、うらんでもいない」という言葉は矛盾している。山崎氏が古井氏の行為を「セクハラ」と考えたいのなら、むしろ古井氏を積極的に責めて、恨むべきだろう。氏は『源氏物語』を称揚して「主語は重要ではない」と書いているので、はっきり書かない文章をよしとしているのかもしれないが、この曖昧さの中に、古井文学が世故長けた「大人の文学」として生き延びて繁茂した温床があるように見える。
 他者の身体を「触る」行為が「セクハラ」かどうかは、結局触られた側がそれを被害と感じたかどうかによって決まる。古井氏と渡部氏の違いは告発されたかされないかの一点に尽きる(厳密に言えば、大学と違って文壇は制度としてあるわけではないが)。そして古井氏が批判されないで済んだのは、「神の手と思え」という類いの殺し文句が象徴する文学神話(山崎氏の言葉が曖昧なのも、「文学」への信仰を傷つけたくない気持ちが働いているのかもしれない)のおかげだったように見える。
 いずれにしろ山口敬之を擁護していた小川榮太郎という自称「文藝評論家」が、にわかに古井文学を読み出して絶賛しているのをツイッターで見たりすると、何だかなあという気持ちにはなる。実際古井氏は思想的にも企業戦士と同程度の保守主義者であると思うので、小川氏のような人に賞讃されるのは当然とも言える。むしろなんとなくリベラルな人たちが古井氏を愛読する方が、不思議な現象ではある。それはそもそもリベラルな人は、ある程度生活に余裕のある生活保守主義者であり、もちろん企業戦士の同類でもあるということで説明がつくのだろうか。
 かつて酒鬼薔薇事件が起きた時、『文藝』が「人を殺してはなぜいけないか」を特集したことがあったが、「人を殺す」ということは、文学の中では今はありきたりで陳腐で、最初から答えの用意されている安全な問いに過ぎなくなってしまった。それよりは「人を犯してはなぜいけないのか」が問わなければいけないのではないか。山崎氏は「時代が進めば性別もいらなくなる」と書いているが、たとえ「性別」がなくなったとしても(そんなに簡単ではないだろうが)、「人」が「人」を「犯す」ことはなくならないのではないか。氏は「おそらく、少し前の時代には、性別が違う人間を触る文化があったのだろう」と書いているが、同性同士の性的関係が当たり前になりつつある現在。性別が同じ人間を触る「文化」もいずれ(あるいは今すぐ)批判にさらされるのだろう。
 山崎氏の文章を読んだ流れで、コロナで誰もいなくなった大学の学生室に置かれていた「群像」の批評特集「「論」の遠近法」の中の大澤信亮「非人間」を読んだが、それはまさに「人を殺す」ことについて「文学」的に考えることが、いかに花鳥風月的伝統芸能になっているかの典型例に見える。大澤氏は二十年間個人的に気になっていたという通り魔殺人事件について縷々自分語りをしているのだが、秋山駿以来の伝統的文芸批評のお座敷芸を見ている気にしかなれなかった。自分は子供のころから「キレ」やすい人間だったといった「キレ」自慢が、結局パワハラ体質を自分から告白することで正当化しようとする「私小説」的告白の劣化形態にしか見えない。大澤氏は編集者と一緒に犯人の故郷に旅行したようだが、その旅費はどうなっているのかとか、つまらないことばかりが気になった。
 特に前振りで、中上健次の「十九歳の地図」の「かさぶただらけのマリアさま」のモデルとされる小林美代子の自殺を論じている部分は、違和感が強かった。大澤氏は、中上が「十九歳の地図」を書いたことが小林の自殺につながったかもしれないことについて、「自分が殺してしまった」という焦燥に駆られていたのではないかと推測するのだが、それでは小林が自殺しなかったら問題はなかったのかと問いたくなる。問題は中上が小林をモデルに書いたことそのものであり、それはまず第一に「殺す」ことではなく「犯す」こと、傷つけること、侵犯することの責任の問題の圏内の出来事ではないか。
 「犯す」ことと「殺す」ことの違いは何か。それは前者において被害者が加害者に対して応答可能性を持つのに対して、後者では応答可能性を持たないことである。「殺す」ことは、その意味で「犯す」ことより無責任であり、文学的カタルシスによって美化しやすい。大澤氏が、「加害者の人権」を守ろうとする「人権論者」に怒りを抱く犯罪被害者の遺族に一定の理解を示しつつ、それにもかかわらず加害者を「文学」の名によって理解しようとする時、ドストエフスキーの名前を出すのは典型的な身振りである。この連載は短期集中連載とのことで、まだ全体が分からないので確かなことは書けないが、大澤氏は「加害者の人権」ではなく「加害者の神権」とでも言うべきものを守りたいのだろうと察せられる。
 小林秀雄・秋山駿から山城むつみ、そして大澤氏と、ドストエフスキーに触発された批評家たちは、みなそれぞれの仕方で「加害者の神権」を文学的に称揚して来た。「加害者」は「人殺し」になることで「神」となりうる。「被害者」は「被害者」であるが故に「神」になりえず「人」でしかない。「殺す」ことを問うことは「人」を「神」に引き上げ、「犯す」ことを問うことは「神」を「人」に引き下げる。前者が人気のある文壇批評家しぐさなのは当然である。大澤氏は二十年こだわってきたという殺人事件のテーマについて、二十年前にはあった加害者と共通する「怒り」が今は自分の中にないことを告白し、「私にはこの文章を書く資格はないのかもしれなかった」と反省してみせているが、まさに資格がなく、「殺意」がなくなってしまったからこそ、「群像」誌が安心して大澤氏に原稿料を払って書かせているという構造に、自覚はあるのだろうか。かつて「重力02」で私の批評に対して自信満々で立ち向かってきた大澤氏の童顔を思い浮かべて、二十年という時間を改めて考えさせられた。 

古井由吉における「男の子」性

 古井由吉が亡くなった。私は拙い古井論を「文學界」に書いたことがあり、また講談社文芸文庫『木犀の日』の解説も書かせていただいて、古井文学とは縁があるのだが、私が文芸雑誌と疎遠になると共に、古井氏の文学とも遠ざかっていた。
 訃報の後、幾つかの追悼文や、文芸誌の追悼文を見たが、同じ人が複数のメディアに書いていることが多いのが目につき、ここに書いている人たち(あるいは依頼を断った人たちも含めて)が今の「文壇」の中心なのだろうなと思ったりした。特に蓮實重彦が三つも書いているのが最初は驚きだったが、最近の露悪的な身振りを考え合せて、らしいと言えばらしいと思った。
 蓮實氏の追悼文では、古井とは東大で同級生だったという話と、「杳子」のようなロマネスクな小説ではなく「水」に始まる短篇連作を評価するという話、異様に高く評価されている「仮往生伝試文」はそれほどの作品ではないという話が印象に残った。蓮實氏の東大への執拗なこだわりは、東大と縁のない私には全く理解不能であるが、言葉の使い方が甘いという「仮往生伝試文」への批判には共感できるところがあった。他方「杳子」や「行隠れ」のようなロマネスクな作品に対する否定的な評価は、分かると言えば分かるが、そういう物語的な読物を書くことを止めて(止めることを許されて)、「純文学」の聖域に引きこもった古井氏の在り方には、ある時期から違和感を感じるようになった。
 今は入手困難な「子午線」2号のインタヴューで話したことを繰り返すが、同時期の中上健次が物語的な読物に自分を拡散させて文字通り身体的に自爆したように見えたのに対して、古井氏の生き延び方はずるい気がした。古井氏は、漱石の漢詩を精読する本の中で、漱石が漢詩と平行的に『明暗』を書いていた話をしていたが、古井氏自身は、『明暗』的なものを突き詰めることなく放棄して、漢詩的なものに自己限定した。もちろんそのような生き延び方を許した「文壇」という制度が問題であって、古井氏個人が十分幸せな作家的生涯を送ったこと自体は人生論的には祝すべきことだろう。文学のために人生を犠牲にするなど大正時代ではないのだから馬鹿げている。自分の人生のために文学を徹底的に利用すること(私もそうしてきたし、これからもそうするつもりだ)が、現代の文学者の市民的倫理ですらあるかもしれない。
 私は、追悼文の多くが異口同音に語っているようには、古井氏の文章が「名文」とは思わない。古井氏は徳田秋聲の「和解」について語って、「翻訳を通して妙に半端な欧文脈を取り込んで、それがいつも喉の骨みたいに残って文章を滑らかにしない。「和解」は晩年の爛熟期の作なんですが、やっぱり文章の落ち着きのなさが出ているのは面白い」と言っているが(大江健三郎との対談「百年の短篇小説を読む」、『新潮名作選 百年の文学』)、「翻訳」経験に由来する「妙に半端な欧文脈」による「文章の落ち着きのなさ」は、古井の文章の特徴でもある。「喉の骨みたい」な「半端」 さ、カタルシスに達しない無限の停滞感。それは初期においては異化的な新鮮さを持っていたかもしれないが、後期になるとあまりに古井氏を保護する「文壇」となじみすぎてしまった。大江はこの古井との対談で、やはり「和解」に関連して「日本の短篇小説」には「捨て台詞とはいいませんけど、最後に一行の文章で、自分の感想を示してひねってみせる短編が多い」と指摘しているが、古井の短篇連作はまさに「最後に一行の文章で、自分の感想を示してひねってみせる」ことが多い。
 古井はまた別の対談(手元に見つからないが、『小説家の帰還』所収だった気がする)で、志賀直哉などの小説が、表現を一方で厳しく切り詰めながら、その反動で別の部分では甘くなっているという指摘をしていたと記憶しているが、古井文学も、一方で厳しく文章を吟味しながら、他方で甘く通俗的なもの引き寄せているところがある。たとえば『山躁賦』において狂言回し的に主人公につきまとう中世の僧兵の幻影「いかめ房」など、NHK大河ドラマの架空人物並の安っぽさである。
 そしてその通俗の極みと言えるのは、端的に「女」をめぐる表現である。古井文学は、とりわけ初期に「女を書く」のがうまいなどと賞讃されて来たが、それは男の目からみた「女」のステレオタイプを凝縮したもので、鏡花や百閒の「女」からあからさまな「幻想」性を削除してなおかつ残る幻影肢のような幻想の上澄みを表現したものである。たとえば連作『ゆらぐ玉の緒』の表題作の次のようなくだりは、後期古井的な「女」のイメージを凝縮している。「夕暮れにひとりきりになって立つ女の子の、その背後に男の子が忍び足でまわり、いきなりスカートの下に手を入れて、下ばきを膝までおろしてしまう。女の子はそれにしてはたじろかず、なにか遠くへ笑っているような顔を振り向けてから、腰をまるく屈めて下ばきをなおし、何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る」。
 「女の子」の「なにか遠くへ笑っているような顔」には、古井が評価する徳田秋聲の『足迹』に特徴的な「笑い」の身振りを連想させるとこがあるが、それに続く「何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る」という意味づけには、秋聲的なイロニーはなく、むしろ「女の子」の内面を「半端」に穿って見せているだけの蛇足に見える。 古井の文学は本質的に「男の子」の文学であり、「女」は、その「男の子」性を立ち上げるための触媒(あるいは「コーラ」=場所、母ならざる母的場所)に過ぎない趣もある。
 もちろん古井文学をフェミニズム的にあげつらうことは不毛には違いないが、しかし突然の性的な表象と、その表象を暴力として受け止め損なう狂気は、戦中戦後の被災経験に起源を持つ古井文学の中核にあるように感じられる。吉増剛造は『週刊読書人』に寄せた追悼文「古井由吉の「この手」」において「〝この手性〟この手が書いていく、ゆっくり這うようにして。そう,蛇というのも、その這うようなものなんだなあ」と書いているが、ここで吉増が詩的に直観して讃美する「この手」は、同時に「女の子」の下着をいきなりおろす「男の子」の手でもある。
 『この道』所収の「たなごころ」に、山道で若き日の話者が行きずりの老人に「女を知っているのか」といきなり声をかけられ、「お前は一人前の男なのかと訝られたようにとっさに取」る場面があるが、この「女を知る」=「一人前の男」というような観念が唐突に無防備に出て来るところは、古井を読む上でいつも「喉の骨」になって、引っかかる。同じ『この道』所収の「行方知れず」において、「私」を訪ねる謎の老女は「あなたは火の迫る中でいきなり母親の手を振り払って、あらぬ方へ走り出したのですよ、捕まえるのがもうひとつ遅れていたら、取り返しのつかないところでした、男の子だからしかたないようなものの」と諭すが、この「母親の手を振り払って、あらぬ方へ走り出」す「男の子」のイメージは、古井文学における男女関係のちぐはぐさについて一つの示唆を与える。
ともあれ私には晩年の古井氏の文壇的な在り方が、晩年の徳田秋聲、そして晩年の小島信夫と重なって見える。秋聲が広津和郎や川端康成、小島が保坂和志といった年少の作家たちによって神輿のように担がれていたように、古井氏も又吉直樹のような若手作家に担がれていた。この構造はこれからも終わることなく一層細々となるかもしれないが、続くのだろう。最近(に限らず明治以来何時でもだが)誰かが死ぬと「二度と現れない」という言葉が決まり文句として繰り返されるが、誰が死んでも代わりは必ずいる。文学はとっくの昔に、あるいは最初から死んでいるにせよ、むしろその衰弱の故に日本の「文壇」だけは天皇制と等しい寿命がありそうな気がしている。江藤淳がインタヴュー本『離脱と回帰と』(1989)において「戦後の大作家たちが、これから次々と褒めそやされ、褒めそやされ、栄光のうちに、スカスカになって死んでいきますよ」と言い、「文壇というか、文芸ジャーナリズムというのは(中略)もう骨までしゃぶって、賞を出したり褒めそやして、何も自分じゃ頭を働かせないで、要するに鳥を絞めて、肉をとって焼いて煮て、そのあと骨を叩いてスープにして飲んで、はいさよならと、こういうことを繰り返しているのかな」と語っているが、古井氏はこの言葉そのままに「スカスカ」にされながら、そのことをしたたかに逆用し、どこまで自分が「スカスカ」になれるか実験し続けていたようにも見える。以前の記事で、私は「純文学」の「名跡」化ということを書いたが、下克上の戦国時代に公家の権威が逆に高まったように、弱肉強食の資本主義の競争原理に晒されている芸能人などにとって「純文学」の「名跡」は魅力的でありうるのかもしれない。
 古井氏が、中世日本の高僧や歌人たちの幽玄の世界に親しみ、倦むことなく言及し続けたことも頷ける。中世日本の幽玄の世界は、神秘的に見えながら超越的ではなく、世俗的な好色と結びついている。超越的なものから超越性を除去し、なおかつ残る超越性の「味」のようなものを世俗にとどまりながら賞翫するのが古井文学の極意ということになる。色即是空とは、好色が虚しいということだけではなく、虚しいが故に好色は真理であり、肯定すべきものとなる。古井氏がドイツロマン派に出自を持つにもかかわらず、リルケは読んでもヘルダーリンには行かないところに、その世俗的性格は良く現れている。
 ただその世俗性は、本当の日常ではない。それは狂気を隠蔽する仮初めの世俗性である。古井氏は戦時中の空襲をぎりぎりで記憶する最後の世代と言えるが、まさに人生の最初に「狂気」に囚われたのであり、「狂気」到来以前の記憶は限りなくゼロに近い希薄な「味」のようなものだったと言える。絓秀実は最近の大江論で、大江文学における「父」の不在というシュレーバー的狂気について指摘しているが、シュレーバー的狂気は、大江だけのものではなく、古井文学、ひいては戦後日本全体に取り憑いているように見える。古井以降の世代は、生まれた時からこの狂気の中にあり、それはたとえば「ユング的」だから駄目とか啓蒙して治るようなものではなく、精神分析不可能である。それから脱却するためには「革命」以外にないが、それがどのようなものでありうるのか、私は試行錯誤の中で考えている。

増村保造『爛』

 『甘い秘密』が案外面白かったので、勢いで角川シネマ有楽町の「若尾文子映画祭」で増村保造監督・新藤兼人脚本の『爛』(1962)も見てきた。
 原作はその極度に切り詰められた点描的な描写において徳田秋聲の中でも最も「芸術的」(この言葉が適切かは分からない)に完成度の高い作品の一つであり、同じ「国民新聞」に連載された先行作の『新世帯』と共に、高浜虚子への配慮を感じさせる作品である。ストーリーを大まかに要約すると、以下のようになる。遊郭にいたヒロインお増は、会社員の浅井によって身請けされて囲われるが、浅井には妻のお柳がいた。しかし浅井はお柳の嫉妬に手を焼きお増の家に入り浸るようになり、やがてお柳と離婚してお増と入籍する。その後今度はお増の親戚の娘のお今が都会に憧れて田舎から出て来て、浅井夫妻と同居する。浅井はお今と接近し、関係を結ぶが、お増はお今を資産家の室と結婚させて、浅井の妻としての座を守る。
 『新世帯』が「主婦」的なものの「娼婦」的なものへの取りあえずの勝利の物語であるとすれば、『爛』は「娼婦」的なものが「主婦」から奪った「妻」の座を取りあえず守り切った物語であり、時代が明治から大正に移って、社会の雰囲気が、生きるための必死さから享楽的な安易さに変わって行ったことがそこに反映しているようにも感じられる。
 これに対して映画は、時代が高度成長初期に移し替えられていて、原作の気怠い粘り着くような情趣はなくなって、もっとドライに割り切った雰囲気になっている。浅井の名は変わらないが、お増は増子、お柳は柳子、お今は栄子と名前が変わっている。増子は遊郭ではなくキャバレーの売れっ子上がりということになっており、また原作では「建築物の請負や地所売買の仲介」(つまり不動産屋)とされていた浅井の職業が、映画では自動車の営業マンに変わっているのが面白い。会社の車を乗り回し、大きな商談もまとめるエリート社員だが、家庭の他に女を囲えるほどの収入があるというのも、当時の貧富の格差を感じさせる。実際浅井が増子と住む坂の上のマンションが現代に通じるモダンさを湛えているに対して、友達の雪子が冴えないどさ回りの役者と同棲しているアパートや、離婚された後に柳子が帰る実家の農家、浅井との関係がばれて増子に追い出された栄子が住むアパートは非常にみすぼらしく作られていて、非常に印象に残る。
 原作好きから見ると、この映画はとにかく主演二人のキャスティングが良い。田宮二郎は、薄情だが仕事ができる精力的な二枚目なのが浅井のイメージにぴったりであり、若尾文子は投げやりの中ににじみ出る色気がお増のイメージにふさわしい。柳子役も良かったが、捨てられた後に「浅井、浅井」と上の名を連呼するのがちょっと可笑しかった。原作でも浅井は下の名が出て来ない。『黴』の笹村もそうだが、逆に上の名が出て来ない『新世帯』の新吉や、フルネームが明かされる『仮装人物』の稲村庸三・『縮図』の三村均平と比較すると、語り手の位相が異なっている感じがする。映画でも浅井はやはり浅井とのみ呼ばれるので時に不自然な場面が出て来るが、下の名を出すと世界観が崩れてしまうのかもしれない。
 それにしても秋聲原作の映画では、決まって女同士あるいは女が男にむしゃぶりつくキャットファイト的な場面がハイライトになる。原作ではそういう場面は非常にあっさりと淡々と書かれているので、つい素通りしてしまうのだが、映像化する時にはそこが逆に見せ所になるようだ。原作が意味づけしないで放置した場面を、映画では分かりやすく物語化して説明しなければならない。 それは、小説と映画の文法的差異と言うべきものを感じさせる。
 特に『爛』で私の印象に残ったのは、幕切れの違いである。原作は「私達も、あの人を頼んで、一度お杯をしてみたいぢやないの」とお増が自分たちも結婚式を挙げようと浅井に甘えた言葉を言った後、「お増は晴々した顔をして、奥へ着替えに起って行った」というナレーションの一行で閉じられるが、映画のラストは若尾文子が同じ台詞を言った後、田宮二郎の待つ寝室へ入って行くシーンが付加されて終わる。そこでは未来への警告音としておどろおどろしい不吉な音楽が挿入され、ハッピーエンドではないことが示唆されるのだが、私は原作の方が含蓄が深いと思う。『爛』の少し前に書かれた漱石の『門』は、「晴れ晴れしい眉を張つた」御米に宗助が「しかしまたぢき冬になるよ」としたり顔に哲学的な冷や水を浴びせて終わるが、私は単に「晴々した顔」で締める『爛』の方が『門』より好きである。

吉村公三郎『甘い秘密』について

 渋谷シネヴェーラの「脚本家 新藤兼人」特集で、吉村公三郎『甘い秘密』(1973年)を見た。『仮装人物』や「順子物」に描かれた徳田秋聲と山田順子の恋愛事件をモデルにしたこの映画は、ソフト化もされていないマイナー作品なので、今までタイミングを逃して来たのだが、今回やっと見ることができた。
 映画としてはB級に違いないが、チープで軽い乗りと展開の早さで楽しく見れた。特に秋聲作品を知っていると俄然面白くなる。登場人物の名前は『仮装人物』に依拠していて、ヒロイン葉子は、作家志望の若い女性で、北海道から夫の松川と一緒に上京し、初老の作家の稲村の所に原稿を持ち込むところから始まる。松川と別れた葉子は稲村に紹介された出版関係者の一色と肉体関係を結び、本を出版することに成功する。しかし本は売れず、葉子は一色と別れ、稲村の妻が急死したのを契機に稲村の内弟子として家に入り込み、稲村と関係を結ぶ一方で、結婚以前最初に関係を結んだ秋本からなお資金を得つつ、本の装幀をした画家山路とも関係する。当初職業作家として自立することを目指した葉子は、稲村に突き放され、大晦日の夜に山路に結婚を迫るも拒否されて、山路の描いた自分の肖像画を切り裂いて、雪の降る夜の路上に消える。
 『仮装人物』の内容を再構成しているが、舞台設定と人間関係はかなり改変されている。たとえば稲村の家は原作の東京ではなく逗子近辺ということになっている。『仮装人物』は「都会」がキーワードになっているが、『甘い秘密』では海岸の場面が印象的である。特に印象に残ったのは、逗子海岸とみられる浜辺のブランコに葉子が乗る場面である。これは以前の記事で触れた久米正雄撮影の円本宣伝映画「現代日本文学巡礼」の中で、山田順子が秋聲の娘をブランコに乗せて揺らす場面(娘の視点から揺れる順子の顔が不気味に大写しになる)を連想させる。新藤も吉沢もこの映画を見る機会はなかっただろうと思われるので、全くの偶然の暗合だが、順子=葉子の「実存」(?)を表現するためにどちらもブランコの不安定な動揺が用いられているのが興味深い。
 『仮装人物』では葉子は当初幼い娘を連れているが、『甘い秘密』では娘の存在は消去され、葉子はもっと身軽になっている。稲村の子供も二人だけ(父の恋愛に理解を示す大学生の庸太郎と反発する高校生の咲子)に圧縮され、人間関係は類型化・単純化される。稲村と葉子が最初に結ばれる場所が、ホテルの洋館から旅館の和室に代わることに見られるように、原作の異形のグロテスクなモダニズム(原作の「紅い手巾」に包まれた電球や「電球二つを女の乳房のやうにつけたフランス製のスタンド」が再現されていれば、他のすべてに目をつむっても全面肯定できたのだが)は、高度成長期の日本の中流家庭のありふれた風景に矮小化される。原作は、冒頭のダンスシーンを始め、映画的な連想を起こさせる場面の連続なのだが、新藤の脚本は、『縮図』の場合と同様、原作のスペクタクルな部分を切り捨て、原作に対して批判的な内容になっている。
 小沢栄太郎が演じる稲村は、自足した小太りの俗物の中年作家という感じで、原作の庸三のような「作家気質」的憂鬱への沈潜はなく、葉子を演じる佐藤友美は、気怠いボサノバ風の音楽と共に現れると、アニメ『ルパン三世』の峰不二子のような(山路は彼女のことを痩せていると言いながら、描いている肖像画は豊満なのが可笑しい)キッチュさを振りまく。原作では挿話的にしか登場しない細川俊之演じる山路(もともとのモデルは竹久夢二)が、庸三に次ぐ重要人物の役回りを与えられる。個人的には原作に沿って、細川には、稲村の後葉子と同棲したマルキスト青年清川(勝本清一郎がモデル)を演じて欲しかった。時代的に全共闘の闘士といった設定にしたら、諷刺が利いて面白かったかもしれない。
 『仮装人物』は、終盤の「彼女も清川によって、無慚に叩き踣された花束のやうなものであつた」という言葉が、物語の結論の一つになっている。当時マルクス主義にかぶれたブルジョワ青年が、世界を救うとか偉そうなことを言っていても、「女」一人をまともに扱えなかったという批判がそこにはある。勝本は戦後に『座談会 明治大正文学史』で、モデルにされた側の立場からさまざまに弁明しているが、かえって自爆して藪蛇になっている。小林多喜二(順子は小樽つながりでファンだったという)が、銀座でバーを開いていた頃の山田順子に握手を求められて「汚い女」は嫌だと拒否したという話が伝わっているが、『仮装人物』におけるマルクス主義の問題は、今後もっと考えてみたい。
 その他この映画で印象に残ったのは、稲村が葉子を撲った時、葉子が「親にもぶたれたことがなかったのに」と怒る場面である。この種の言い回しは、『ガンダム』で有名になった紋切り型だが、何時から言われるようになったのだろう。そのルーツを知りたいと思った。

天皇制をめぐる「深さ」と「緊急性」

 浅田彰と津田大介が「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」について語っている記事(「芸術/表現は今、いかに可能か」、「REALKYOTO」2020年1月11日公開)を読んだ。全体的に問題点が良く整理されているとは思ったが、その中で一点私が引っかかったのは、浅田の次の言葉である。「天皇制はそんな「深い」ものではなく、たんに憲法改正によって廃止すればすむものです(言い換えれば、天皇制廃止は緊急の課題ではなく、自由民主党政権が憲法9条の「改正」を狙っているとき憲法改正論議の土俵に乗らないほうがいい、その程度の問題でしょう)」。
 この言葉は、様々な点で私を躓かせる。まず「天皇制はそんな「深い」ものではな」いとは、どういうことか。芸術の対象として深刻あるいは深遠なテーマではないということだろうか。しかし少なくとも天皇制を「憲法改正によって廃止」することは、「たんに」という言葉が暗示するほど簡単なことではない。なぜなら天皇条項の削除は、たんなる「憲法改正」ではなく「革命」そのものだからだ。帝国憲法から日本国憲法への「改正」を憲法学者が「八月革命」と呼ばなければ納得できなかったとすれば、天皇制廃止という「憲法改正」は、それ以上の根本的な「革命」であるはずである。
 そして私がもっと分からないのは、括弧に括られた「言い換えれば、天皇制廃止は緊急の課題ではなく、自由民主党政権が憲法9条の「改正」を狙っているとき憲法改正論議の土俵に乗らないほうがいい、その程度の問題でしょう」という文である。「言い換えれば」とあるが、どう言い換えれば前の文がこのように言い換えられるのか分からない。「天皇制はそんな「深い」ものではなく、たんに憲法改正によって廃止すればすむもの」なのなら、むしろ優先してさっさと憲法改正して廃止すべきものではないか。それとも天皇制は「深い」ものではないので廃止しても廃止しなくても同じであり、だから廃止を急がなくていい(廃止しなくてもいい)という論理なのだろうか。
 少なくとも浅田は「天皇制廃止」よりも憲法9条の「改正」阻止の方が「緊急の課題」であると見ている。そして「自由民主党政権」は目的を達成するまでずっと憲法9条の「改正」を狙い続けるだろうから、「天皇制の廃止」を主張することもそれだけ先に引き延ばされるだろう。憲法9条を守るためには憲法1条(およびそれに付随する2~8条など)を守らなければならないという現在の護憲派の典型的論理がここに露出している。
 この浅田の天皇制に対するスタンスは今に始まったことではない。『批評空間』第Ⅱ期第24号(二〇〇〇年一月)の「共同討議 天皇と文学」(参加者は浅田の他、柄谷行人・絓秀実・丹生谷貴志・渡部直己)において、浅田は次のように述べている。「結局政治的には坂口安吾のようにザッハリッヒに考えればいいし、とりあえず天皇制を廃止して共和制に移行することを最低限綱領として要求するという程度のことでしょう。」
 「程度」という言葉が、問題を浅く軽く見せる効果を持つ日本語特有のレトリックであることは見逃せない。二〇年の時を隔てて、浅田はほぼ同一のニュアンスで、天皇制という問題の「程度」(二〇〇〇年には「程度のことでしょう」、二〇二〇年には「その程度の問題でしょう」)の軽さ、浅さを強調する。二〇〇〇年の共同討議は、渡部直己の『不敬文学論』出版を契機として開かれたものであり、そこでは文学において「不敬」表現をすることに文学にとっての重大な意味を見ようとする渡部に対して、浅田は文学において天皇制批判のために天皇を表象することに意味がないことを指摘していたが、確かに簡単に天皇制を廃止することができるなら、渡部のように力瘤を入れて「不敬小説」を連呼する意味はない(いくら連呼してもそれは天皇制を強化するだけだとかつて私は『不敬文学論』についての書評で批判した)だろう。だが天皇制は現に日本人自身の手によってはほとんど未来永劫廃止できそうにない。「天皇制を廃止して共和制に移行すること」は、やはり重く深い問題である。
 浅田は上記の共同討議で次のようにも発言している。「逆説的に言うと、丸山真男の言った「無責任の体系」というのはむしろ戦後に完成されたとも言える。(中略)だから、戦前以上に空虚な中心としての象徴天皇を頂点とする「無責任の体系」が成立し、いままで続いてきているわけですよ。現時点にいたるまで、我々を非常に強く拘束しているのは、むしろ「無責任の体系」のほうではないか。/そこから見ると、六〇年頃に、むしろポジティヴでファリックな天皇像と、それに対する侵犯といったようなものが、大江健三郎や深沢七郎、あるいは三島由紀夫のような人たちによって書かれていて、それは確かに日本のある核となる層に触れてはいるし、それが(自己)検閲されている以上、絶対に復権するべきなんだけれども、その上で言えば、そういうポジティヴでファリックな天皇じゃない、凹凸で言うとむしろ凹型の天皇を空虚な中心とする「無責任の体系」の論理のほうが、依然として主要な敵なのだという見方も成り立つのではないか」。
 ここに語られている、戦争責任を取らないことによって成立した「凹型の天皇を空虚な中心とする「無責任の体系」」としての象徴天皇制が「現時点にいたるまで、我々を非常に強く拘束している」という認識は、現在も通用するだろう。だがそうであれば、それを廃止することはどうして「緊急の課題」でないと言えるのか。浅田は天皇制を戦前的な暴力の中心としての「凸型」と、戦後的な「無責任の体系」としての「凹型」の二つに分け、前者をムキになって批判することの戦略的無効性を言うが、では後者に対してどのような批判・批評が可能なのかを明らかにはしない。
 浅田にとって現在でも「凹型の天皇を空虚な中心とする「無責任の体系」の論理」は「主要な敵」なのだろうか。私はそれを疑う。少なくともそれは憲法論議を活性化させることで憲法9条を危うくする危険を犯すに値するほどの「敵」ではないようである。しかし憲法1条と9条の共存こそが「無責任の体系」を作っているのではないのか。
 もちろん「天皇制の廃止」を主張すれば、天皇制が簡単に揺らぐというものではないだろう。しかし私はこの問題について、言語行為としての有効性の観点から戦略的に語ることに意味はないと考える。むしろ原則論は率直に言うべきである。デリダは「正義は待ってくれない」と言ったが、天皇制の廃止が「正義」であるとすれば、それは明らかに「緊急の課題」である。これは実践ではなく理念の問題である。従って百年後もそれは「緊急の課題」であり続ける。たとえ浅田が危惧するように、憲法1条の廃止を訴えた結果として、それがかえって憲法9条の「改正」につながる政治的意味を持ってしまったとしても(決してそれを意図するわけではないが)、それでもなお天皇制の廃止は言われ続けるべきである。
 結果的に浅田の言葉は、最も洗練された象徴天皇制擁護のメッセージになっているように私には見える。一度中断された「表現の不自由展・その後」が、会期末近くになって形だけ再開したことが意味のあることのように言われているが、ほとんどの人が見ることができなかった展示が、僅かの人にボディチェックと撮影禁止の条件づきで公開されたことを過大評価するのは、アリバイ作り以外の何物でもない。
 現在の日本人の在り方、すなわち主体性を持つことなくただ大勢に従って曖昧な微笑を浮かべて生きること(私自身のことでもあるが)、そのことの象徴として天皇は厳然と機能している。たとえば差別はいけないと言い、いくら言葉狩りをしてみたところで、天皇制という差別的(階級差別であり、女性差別であり、民族差別でもある)制度がある限り、差別批判は形骸でありタテマエであるにとどまり、ガス抜きのスケープゴートとしての差別者叩きの後には、何もなかったようにまた同じ差別が反復されるだろう。あるいは日本人は外国人に対して積極的に自分の意見を言えないから英語を習えと大学入試改革やら教育改革をいくら言っても、天皇制がある限り日本人は主体的に外国人と渡り合うことはできないだろう。「平成」から「令和」への移行が象徴したのは、この古代的遺制としての天皇制の「生きている廃墟」(この言葉は江藤淳から借りたが、江藤と違ってそれは本来的な天皇制を失った戦後日本社会ではなく、むしろ滅んだはずだったのに生き続けている天皇制そのものを指す)としてのほとんどオカルト的な現前ぶりであり、そのことを演劇的に再現前させて見せたのが、「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動だったと振り返ることができる。
 そもそも「表現」とは、それが心の中のものを外に押し出して表すという意味であるとすれば、不可能以外の何物でもない。「表現の自由」か「不自由」かということはその意味で偽の問題に過ぎない。天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」とされるが、そもそも天皇が「日本」あるいは「日本国民統合」を「象徴」=表現することは、「日本国民の総意」があろうとなかろうと不可能である。現代日本において芸術が芸術たろうとするのであれば、「表現の自由/不自由」ではなく「表現の不可能」に真摯に向き合うべきである。

(付記)ちなみにここで言及した『批評空間』の二〇〇〇年の共同討議の中では、絓秀実と渡部直己の批評的位相の違いが鮮明に出ていて目を引く。すなわち渡部が漱石の『こころ』における明治天皇の病状についての新聞記事の小説化を「不敬」的な「抵抗」だとして讃美するのに対して、絓は「僕はやっぱり日露戦争後で漱石よりも自然主義のほうが非美学的な「クズ」だったという意味で、ラディカルだったような気がする」と発言し、特に秋声について「秋声あたりがいちばんベケット的な消尽の文学に近かった」と評価する。私が同年四月に出した『小説家の起源―徳田秋聲論』第三章で、ベケットの『モロイ』をもじって寸劇めいたものを挿入したのは、この絓氏の発言が記憶にあったからだと思う。現在の絓氏は日本近代文学をもう一度読み返す気はないかもしれないが、日本における「表現の不可能」を考える上で、自然主義や秋聲は依然として漱石より(「不敬」という渡部的問題設定は、「表現の不可能」ではなく「表現の自由/不自由」の問題系の中にある)重要だと私は考える。

大風呂敷について

 大澤真幸『社会学史』を読んだ。 私は最初の大学では、社会学で卒論(思い出したくない黒歴史だが)を書いたので、パーソンズやマートンなど懐かしい名前が出て来て、楽しかった。
 私は大澤氏の批評にはいろいろ疑問を持っている。特に『資本主義のパラドックス』(このようなマイナーな本で判断してしまうのは公平ではないのは認めるが、ハイドンについて私は公平ではいられない)の中で、モーツァルトを持ち上げるために次のようにハイドンを使うやり方が、理論的粉飾を凝らしていても小林秀雄そのままなのは違和感しかない。「ハイドンの作品においては、作品の統一性がまずあって、それにあとから動的な性格が付加されて、作品の内的な多様性が作り出される。他方、モーツァルトの作品では、多様化へのどうしようもない傾向がまずあって、そこに、あとから統一性が被せられた結果、生命体のような動的な統一性が作り出される。このような印象を、両者の作品は与える。作品を支持する原初的な衝動が、まったく逆なのである。統一性を最初から確保している音楽と、多様化への欲望を抑えきれない音楽」。
 大澤氏の論法では、ハイドンの音楽において、死んだ形式が最初にあり、後から見せかけの動的な生命性が付加されるのに対して、モーツァルトの音楽は生きた本当の生命的な動的多様性が最初にあり、それが後から枠にはめられる。この論理は、モーツァルトに音声的な現前性を割り振り、ハイドンを文字的な非現前性として定義することで、モーツァルトの「どうしようもない傾向」=「原初的な衝動」を聖化したい音声ロゴス中心主義的欲望によって展開されていると読める。別にモーツァルトを讃美するのは構わないし、いくらでも花束を捧げるに値する作曲家だとは思うが、そのためにハイドンが踏み台として使用される(モーツァルトの「生命体のような動的な統一性」を、ハイドンの死んだ形式性を鏡として写し出す)論法には食傷する。このハイドンに対する扱いの小林的粗雑さの一点において、私は大澤氏の現代思想理解そのものに疑いを持つ。大澤氏は現代において小林秀雄的「考えるヒント」を恐るべき博識で展開しているが、それは各分野の通説をそのまま取り込んだ上で大澤氏の理論枠組によって再解釈するというものであり、この方法はその通説そのものに対する批評を放棄することによって円滑に遂行される。
 しかし『社会学史』は、そもそもの大澤氏の専門分野であるということもあり、私がこれまで読んだ大澤氏の本の中では最も読みやすく、ためになる本に思えた。同時に、三十年以上前に私が少し囓った時と全く同様にルーマンで終わっているのを見て、社会学は理論的に進んでおらず、これ以上発展の余地はないのかと思った(フェミニズムがまったく取り上げられていないのは、大澤氏がアカデミズムから離れた事情によって理解できるとしても、社会学というものが他の人文社会諸科学と同様にいかに権威的男性たちの固有名の系譜としてあるかを示してもいる)。もっともこの本については、大学の社会学者である佐藤俊樹氏が徹底的な批判をしている(「神と天使と人間と」)。その当否について専門的な判断をする能力は私にはない。ただ佐藤氏が「民主主義の社会」において社会学を初めとする社会科学、そして歴史学・文化人類学・地域研究・分析哲学の存在意義が失われていないのに対して、「第一原理を主張する種類の哲学と人文学、すなわち「人間」の真理を特権的に探究する学」は、その存在意義を見失い「文科系の危機の震源」となっていると主張していることについては、問題の所在は三十年前と何も変わっておらず、三十年後も変わらないのだろうなと改めて確認する思いがした(それにしても現代日本は「民主主義の社会」なのだろうか)。
 いずれにしろ私は、大澤氏が専門外の領域を横断することを佐藤氏のように批判する気はない。むしろ私は、その横断の横断性がなおも社会学という安全装置によって予定調和的に管理されていることに違和感を持つ。去年私は福嶋亮大氏の『百年の批評』について週刊読書人で批判的な書評を書いたが、それに対するウェブでの反応の中で、私が福嶋氏の「大風呂敷」を批判したと解したものがあった。それは私が福嶋氏に中国の古典文学をもっとやったらどうかと書いたからだろうが、しかし私は「大風呂敷」そのものは否定しない。というより私自身「大風呂敷」を広げて来たし、これからもっと広げたいと思っている。問題は「大風呂敷」がどれたけ批評的に面白くなれるかである。この点で、私は福嶋氏の本に不満だった。福嶋氏は優秀なレヴューアーであるが、そのレヴューは対象をそつなくまとめる一方で、官僚的無難さに回収してしまう。これは結局テクストの細部に氏が興味を持っていないからに見えた。
 それと対照的と言えるのは、福嶋氏をしばしば絶賛する渡部直己である。渡部氏の批評には細部しかない。そしてそれはそれで問題であり、氏の批評はしばしばテクストを距離感なく無理矢理愛撫しているような(本人は入念に「前戯」をしているつもりかもしれないが)様相に陥る(蓮實重彦のテクストの愛し方には、もっと慎みと抑制と自己抹殺的献身があった)。去年「新潮」に掲載された早稲田大学退職後の復活(?)第一作「話芸と書法―水滸伝から読む十九世紀日本文学」前編を読んで、渡部氏の批評の健在ぶりを祝すると同時に、問題点はより深刻になっていると思った。
 後編はまだ出ていないし、私もまた中国文学については素人のアマチュア愛好家に過ぎないので「大風呂敷」なことしか言えないが、それでも渡部氏が金聖嘆による『水滸伝』の「腰斬」を肯定的に評価していることに対しては疑問を感じた。『水滸伝』は、社会からドロップアウトした好漢たちが粱山泊に集合するまでの前半と、宋江が粱山泊を率いて朝廷の「招安」に応じ、朝廷に利用されて各地の戦闘に参加して、やがて四散して行く後半との二つの部分から成るが、明末の批評家金聖嘆は、後半に価値がないとして、小説を「腰斬」し、前半七十回だけの本を刊行して、流通させた。
 渡部氏は、この「腰斬」について、(『水滸伝』の)「後半部はごく一部を除いて現につまらぬし、宋江を「悪者」に仕立てるのもまた批評家としての「技倆」のうちだという」正岡子規の金聖嘆評に「強く一票入れる」と表明すると同時に、「陽明学左派」の「童心」(李卓吾)の発露をそこに見る。「童心」とは「純粋なる最初の一念」であり、たとえば金聖嘆にとっては「『水滸伝』なるテクストそのものになってしまいたい」という「ひとつの純真な同化志向」であるとされる。
 この「純真な同化志向」という概念は、渡部氏の批評そのものの性質を自ら言い当てていると言える。だが私には、この「同化」は批評の放棄にしか見えない。『水滸伝』の後半は、朝廷への盲目的「忠義」を最優先にして仲間を犠牲にする主人公宋江の偽善的な「奸詐」によってつまらなくなっていると言う。しかし文学的に成功しているかどうかはともかく、反体制的な自由のユートピアに見えた梁山泊が、結局卑小な東洋的専制主義の走狗として没落して行くことは、むしろ『水滸伝』の最も根底的な現実認識であり、『水滸伝』を長篇小説たらしめる時間的構造だったのではと思うが、それを不快だからといって暴力的に「腰斬」して見ないことにするのは、「精神勝利法」(『阿Q正伝』)ではあっても、批評的とは言えない。
 去年の「映画芸術」のインタヴューによると、渡部氏は、セクハラ事件の後、京都に隠棲し、そこで『水滸伝』に出会い、この評論の構想を得たと言う。出来すぎの物語みたいだが、まさに梁山泊の好漢たちがそうであったように、渡部氏はこれから「仮面紳士」から「逃亡奴隷」(伊藤整)にジョブチェンジして、文壇という梁山泊に生きるのだろうか。しかし「逃亡奴隷」はもはや守るべき「体面」を持たないとは言っても、自由であるわけではない。現在なお東アジア的専制主義社会の一形態と言える日本に生きる者としては、『水滸伝』の好漢たちの悲惨な末路から単に目を背けるのではなく、そこから読み取るべき教訓は様々にあると思う。
 実際金聖嘆を初めとする明末の文人たちが現実を無視している間に、明朝は倒壊し、満洲族が中国を征服して清朝を打ち立てる。明末の爛熟した中国思想は、江戸時代の日本に流れ込み、『水滸伝』も広く読まれるようになったわけだが、他方新しく建国した清朝の文学は、あまり日本で読まれなかったように見える。特に清代の代表的な文学作品である『紅楼夢』はほとんど読まれた形跡がない。これは近代になっても同様であり(北村透谷『宿魂鏡』が『紅楼夢』の中の照魔鏡の挿話に依拠し、永井荷風『濹東綺譚』の中に林黛玉の詩の引用があるぐらい)、『水滸伝』を愛読しつつ『紅楼夢』をあまり受け容れない(私の愛読する『国訳漢文大成』では両者ともに幸田露伴訳として訓読訳があるが、後者は実際は平岡龍城が訳したものに名義貸ししただけであり、露伴が『紅楼夢』を読んでいたか分からない)のが、日本人の中国古典の受容態度だったように見える。
 『紅楼夢』は、不思議に繊細な心理描写(特に深窓の少女たちの心理)が奇跡の狂い咲きのように輝いている作品で、ここには既にある種の「近代」があるという思いを起こさせるのだが、にもかかわらずこれは一つの袋小路、行き止まりであって中国は『紅楼夢』的なものから直接「近代」を発展させることはできなかった。中国は『紅楼夢』的なものを一度否定し、ある意味で「心理」や「内面」そのものを全否定しなければ「近代」に到達できなかった。これに対して、日本においては、『紅楼夢』と同時代に本居宣長が『源氏物語』に「もののあはれ」を「発見」するが(福嶋氏も『百年の批評』の中の一文で触れている)、それは切断されることなく日本的「近代」にそのままつながっていく。すなわち本居の国学は平田篤胤経由で明治維新のイデオロギーとなり、更に明治時代に坪内逍遙が馬琴の『八犬伝』(『水滸伝』の日本的展開と言える)を批判して小説における「人情」の重要性を主張するに当たってもバックボーンとなり(『小説神髄』では本居宣長は肯定的に引用されている)、文学的「近代」の主調低音の一つとなる。
 この違いは何か。私は、『紅楼夢』は異民族による漢民族の支配という抑圧の下に生じた「内面」の産物であり、そこでは徹底的に男性性が去勢されているため、感情の解放がナショナリズムとそのままでは結びつかなかったのに対して、本居国学は、江戸幕府の朱子学的秩序という同じ民族同士の身分制的支配構造による抑圧がもたらした「内面」の産物だったが故に、感情の重視が男性性をむしろ解放し、ナショナリズムの中核となりえたと考える。この意味では、日本の敗戦とアメリカによる支配の結果として成立した現代日本の美少女崇拝的なアニメ・マンガ文化は、その男性性の去勢された在り方において、『紅楼夢』的なものと近い面を持っている。現代中国人が日本のオタク文化になじみやすいとしたら、その理由の一端はそこにあるかもしれない。
 今年最初の記事ということで大風呂敷を広げさせてもらったが、私はいつか『紅楼夢』論を書いてみたいと思っている。それはもちろん専門的なものではなく素人の感想にしかならないので、あくまで自己満足のためのものである。私にとって『紅楼夢』は、曹雪芹が書いたオリジナルの八十回本であり、高顎補作の後四十回は評価しない。終わらない夢、終わることのできない夢、未完のままであることが、『紅楼夢』にはふさわしい。

ハーゲン・カルテットのハイドン・チクルスを聴く

 十月の初めに、トッパンホールで、ハーゲン・カルテットによるハイドンとバルトークの弦楽四重重奏曲の三日間に渡る連続演奏会を聴いた。 1日目は、作品76の1・バルトーク第二番・作品76の2、二日目は、作品76の3・バルトーク第四番・作品76の4、三日目は、作品76の5・バルトーク第六番・作品76の6という組合せだった。 ハイドンの作品76は、私はハイドンの最高傑作の一つだと思っているが、それでも日本ではなかなかまとめて聴く機会は少ない。第三番「皇帝」が最もよく演奏され、次に第四番「日の出」、第二番「五度」、第五番「ラルゴ」という感じだが、第六番などはほとんど演奏されることがない。 私が作品76を生でまとめて聴くのは、古典四重奏団によるハイドン弦楽四重奏曲全曲演奏会以来だった。
 ハーゲン・カルテットは初期にハイドンのCDを出しているが、作品20が、かっちりとフレーズを区切り語るような演奏だったのは印象に残っているだけで、愛聴しているわけではなかった。ともあれモダン楽器の有名な弦楽四重奏団がハイドン・チクルスをすることは滅多にない機会なので、期待して聴きに行った。
 期待は半ば満たされ、半ばはぐらかされた。1日目の作品76の1は、ぽつりぽつりと動機ごとにかみしめて確認するような演奏で、流れは良くないが、これはこれでありだと思った。特に第2楽章のコラールとコラールの間に挿入される運動的な間奏部で、第一ヴァイオリンが極度に切り詰めた点描的なスタッカートで変化を出していたのは、初めて聴く表現で面白いと思った。ただ第一ヴァイオリンの音程が不安定なのが気になった。これは三日間を通してのことで、バルトークの方は感じなかったのに、ハイドンでしばしば音程が乱れたのは、私がバルトークよりハイドンをよく聴いているからかもしれないが、調子が良くなかったのだろうか。二日目以降、ハイドンの演奏からは、ぶつ切り的なごつごつ感がなくなり、流麗になって行ったが、かえってそれは安全運転に切り替えて無難に流しているような味気なさを覚えた。
 期待していた「ラルゴ」は、曲自体が好きなので、生で聴くだけで感動したが、好みとしてはもっとヴィオラなどの内声が前に出てほしかった。演奏自体は第4楽章が力強く印象に残った。最後の作品76の6は、現在でも評価が定まりきっていない謎の音楽であり、そのことは作曲者自身が転調の迷宮めぐりと言える第2楽章を「ファンタジア」と題したにもかかわらず、それが一般的なニックネームになっていないことにも現れている。特にフィナーレは、私にはマーラーのブルレスケを連想させる痙攣的でぎくしゃくしたリズムが特徴の、耳にささくれ立った音楽に思えるのだが、その感じを意識して実現してくれる演奏はあまりない。第一ヴアイオリンが酷使される音楽(特に展開部)であり、今回のハーゲン・カルテットの演奏は、ちょっとふらついていた。
 全体を通して最も良いと思ったのは、第1日目のアンコールで弾かれた「皇帝」のメヌエットで、これは思いがけず柔らかい音楽で気に入った。三日目のアンコールのシユーベルトの「ロザムンデ」のメヌエットも幽玄の極みだったが、これはもともとそう書かれているのであり、「皇帝」の方は元気よく弾かれることが多いので、不意打ちの快さがあった。ベートーヴェンが「スケルツォ」を確立して以降、わざわざ「メヌエット」と題された音楽は、柔弱でなよなよした音楽となって行くように思う。
 弦楽四重奏の演奏会でハイドンが演奏される時のプログラム構成の一つの型として、ハイドン(十八世紀音楽)→20世紀音楽→十九世紀音楽(ベートーヴェン・ロマン派)というのがある気がするが、この三日間はハイドン(十八世紀音楽)→バルトーク(20世紀音楽)→ハイドンという、十九世紀音楽を消去した構成で聴くことができた。いろいろ書いたが、基本的には満足した演奏会だった。
 プログラム・ノートの執筆者は『ハイドンのエステルハーザソナタを読む』という好著を書いている音楽学者の伊東信宏氏であり、それなりにしっかりしたものだったが(作品76の各楽章を表にして比較したのは面白かったが、メヌエットを一律ゆっくりした楽章に分類しているのは違うのではと思った)、「ハイドンがこの作品集において目指していたのは、「統一」よりも「多彩さ」」であり、「それは素材の節約をはかる市民社会の美学ではなく、豪奢で破格なものをコントロールしきることに価値を見出す貴族社会の最後の輝きだった」と書いてあったのは、良く分からなかった。「市民社会の美学」は「素材の節約をはかる」ものだったのか。むしろ資本主義社会の勃興と連動する形で素材を放漫に消費するのがベートーヴェン以後の音楽だったのではないか。またハイドンが仕えた田舎の貴族社会においてこそむしろ「素材の節約」が求められ、与えられた僅かな素材を器用仕事によってやりくりするのがハイドンの本来の音楽の形だったのではないか。かつての伊東氏の本もそういうハイドンの「まかない料理」的な性質を主張するものだった。
 片山杜秀は、最近の文春新書『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』の「あとがき」で、「教会や王や貴族への憧れがクラシック音楽の市民社会での地位を支えてきた」と書いている。だとすれば、「市民社会の美学」とは、成り上がりの「市民」が、もはや存在しない「王や貴族」を想像的に模倣し、テクノロジーの進歩に支えられた「豪奢で破格なもの」をひたすら追求するところに成立する。そのような市民社会では、「貴族のために下賤の者が書いた音楽」ではあっても「貴族自身の音楽」ではなかったハイドンの音楽の地位は低下せざるを得ない。
 片山氏は、近現代の日本音楽の偏愛的紹介者として知られるが、その分、本来の西欧クラシック音楽についてはむしろ正統的な趣味の持ち主のようで、この本では衰退しつつある十九世紀中心主義的クラシック音楽の制度を擁護している。それは近代日本の右翼思想への氏の共感とも連動するもので、要するにロマン主義者なのだろう。
 それはともかく、作品76は、ハイドンの代表作であるにもかかわらず、その位置づけがうまくなされておらず、まだ良く分かっていない、過小評価されている(「音楽史」的メルクマールは、作品20や33だろう)作品群である。それは「貴族社会」でも「市民社会」でもない「革命期」、「転形期」の音楽であり、それ以上に時間の関節が外れた音楽でもある。来年リリースされるであろうハイドン・ロンドン・カルテットのCDが今から待ち遠しい。

前回記事の訂正と補足

 前回の記事に早速猫飛ニャン助=絓秀実氏がリアクションしてくれた。「その渡部が柳田をフローベールに、花袋をデュ・カンに擬しているとは失念」。ありがたかったが、それを読んで俄に不安になり、出典を確かめてみたら、案の定間違いがあったので訂正する。
 前回記事で私は、「渡部直己は、花袋をマキシム・デュ・カン、柳田をフローベールに比した」と書いたが、その出典と思っていた『日本小説技術史』の第四章を改めて見ると、「蓮實重彦の大著になぞらえて、その生涯を(正確な対応関係も、文学史的な意義を度外視してまで)フローベールのいない国でのマクシム・デュ・カンとつい総括してみたくなる作家」と、花袋のことを形容していた。従って渡部氏は、花袋のことをデュ・カンに擬してはいるが、柳田をフローベールと言っているわけではなかった。日本は「フローベールのいない国」である。私がこのような誤りを犯したのは、以前私が「子午線」2号のインタヴューでやはりこの渡部氏の発言に触れ、「デュ・カンに当たるのはむしろ花袋の友人だった柳田国男で、フロベールが花袋にに当たると見た方が批評的に面白く読めると思う」と述べたことが頭に残っていて、いつの間にか渡部氏が「柳田をフローベールに比した」と書いていたように思い込んでいたようだ。この点は訂正し、ミスリードしたとすればお詫びしたい。
 ただそれでも渡部氏が、花袋を「正確な対応関係も、文学史的な意義を度外視してまで」デュ・カンに擬したのは間違いない。そしてそのような見方に適合するような振舞いを花袋自身がしばしばしているのも確かである。しかし私は、やはり花袋とフローベールとの関係には考えるべき余地があると思う。
 ちなみに初期の蓮實重彦は、中村光夫のフローベール研究を「ことによったらフランスの田山花袋で終わったかもしれぬロマンチックな一文学青年が、小説家フローベールへと変貌する息づまる内面の劇を改めて生きうる」ものとして評価していた(『中村光夫全集』第二巻月報)。ここで「フランスの田山花袋」とは蔑称であり、ことによると蓮實氏も花袋をデュ・カン的存在として認知していたのかもしれない。しかしフローベールが「フランスの田山花袋」でありえたとしたら、逆に花袋も「日本のフローベール」たりえたのではないか。蓮實は、フローベールの初期作品から『ボヴァリー夫人』への飛躍の契機をエジプト旅行に見、そしてそれとのアナロジーにおいて、中村の『フロオベルとモウパッサン』から『二葉亭四迷伝』への飛躍の契機をフランス留学に見るが、花袋が日露戦争に従軍したことは、『蒲団』への飛躍(あるいは転落?)の契機として考えられないだろうか。蓮實氏は中村の『二葉亭四迷伝』を「これこそ、自然主義作家たちが曖昧に逃げて通った「フローベール体験」のラディカルなまでの徹底化でなくして何であろう」と評価するが、本当に「フローベール体験」のラディカルなまでの徹底化が可能とすれば、書かれるべきだったのは、田山花袋伝ではなかったか。中村の近代日本文学論には東アジアについての認識が欠落している。二葉亭は北京にいたこともあるが、その視線は東アジアを飛び越えてロシアに向かっていた。中村の『二葉亭四迷伝』は、批評家たちが自然主義作家たちを曖昧に逃げて通るための口実として機能して来たように見える。
 

久米正雄記念館と田山花袋記念文学館

この夏は、本の執筆のためどこにも行かなかったので、夏休みの最後に思いついて、福島県郡山のこおりやま文学の森資料館と群馬県館林の田山花袋記念文学館をハシゴして見て来た。前者は、久米が撮影した映画「現代日本文学巡礼」を特集した「特別企画展 甦る文豪たち」が目当てだった。こおりやま文学の森資料館は、郡山市文学資料館と久米正雄記念館の二つの建物からなり、特別企画展は前者だったが、そこでは映画は各パートに分割されて展示されていたので、映画全体を通して見るには久米正雄記念館の常設展示が良かった。円本宣伝用に造られたこの映画は、芥川の木登りサービス場面で有名だが、徳田秋聲と山田順子にも尺を取っていて、私はまたそれが見たくなったので行ってみた。この映画を見るのは4回目ぐらいだが、やはり何とも言えない不思議さを感じる。
 秋聲と順子のバート(3分12秒あり、芥川のパートの1分57秒より長い)は、まず「逗子の海静かなるほとり/さゝやかなる別荘に滞留中なる/德田秋声氏/を訪ねれば……」という字幕(「德」は正字だが「声」は略字表記になっていた)が映り、それから卓上の百合の花が写され、続いて順子が秋聲のために林檎の皮を剥く場面に接続する。順子は和服だが、髪はモダンな独特の髪型である。「別荘」とあるが、『仮装人物』の該当する時期の記述を見ると(『仮装人物』自体にはこの映画撮影のことは書かれていない)、順子が一九二七年四月に借りた家のようである。家賃は五十円で、「そんな家を借りて、何うするのだらう」と庸三=秋聲が経済的な心配をしたことが書かれている。家の前にはホテルがあり、それは「逗子なぎさホテル」と見られる。
 映画でも「ホテルの方へ、いらつしやいませんか/百々子さんや、一穂さんが、/遊びに行つてゐますから……/山田順子女史」という字幕が挿入され、場面はホテルの白壁の前に切り替わる。戦後には「太陽族」の根拠地になったことで知られるこのホテルは、一九二六年に開業したばかりだが、『仮装人物』の「是からの季節には、あの辺の海岸も盛る頃で、あのホテルに若い人達も集まる筈であつた」という記述を見ると、当初から若者を引き寄せていたらしい。そこは一穂の慶應大学での友人の井本威夫の住居も近く、間もなく順子と井本の間の恋愛関係が新聞に載ることになるのだが、映像にその気配はまったくない。
 この映画は一九二七年五月制作となっているが、秋聲パートが何時撮られたのは分からない。ともあれ秋聲と順子が、素ではなくたぶん久米の指示に従って演技しているのは間違いなく、林檎を剥いたりするそのわざとらしい感じも「仮装人物」的と言えるが、葉巻きをくわえた秋聲はちょい悪オヤジっぽさが出ていて、なかなか良い。順子は(伊藤整は映画を小樽で見て、すごい美人だと思ったという)、妖しさと怪しさが同居したような感じで、特に最後に秋聲の末娘百々子をブランコに載せて揺らす場面はやはり少し怖さを感じた。もっともそれも久米の演出の効果だろう。
 久米正雄記念館は、鎌倉の久米邸を移築したものとのことで、波打った窓の板ガラスが、本郷の秋聲の家を思い起こさせた。来館者は私一人で(特別企画展の方は、ちょうど市の関係者の視察があったようで、学芸員らしき人が、団体客に対して文アルで久米が登場していることなどについて説明していた)、じっくり映画が見れて良かった。
 田山花袋記念文学館も私一人だった。記念館は船着場のある風光明媚な沼のほとりにあり、かつて小島信夫(『私の作家評伝』)が花袋のことを「平坦地の詩人」と呼び、花袋が幼少の頃一家を挙げて平野に流れる川を船に乗って東京まで下ったエピソードに注目していたことの意味を実感できる。館内の展示で私の目を引いたのは、晩年の花袋の漢詩稿である。花袋は交友はあまりなかった芥川の自殺に相当ショックを受けたらしく、芥川について何首も詩を書いている。その中でも印象的だったのは芥川一周忌に寄せた次の七言絶句である。「鷗外先生絶相憶/島斑徳痩四十年/一場悪夢芥亡後/那処文壇又聞鵑」。
 「島」は島崎藤村、「徳」は徳田秋聲を指すと、展示されていた詩稿に花袋自身の手で割注が入っている。「鵑」はホトトギスで、文学者の比喩だろう。この詩は、ちょっと永井荷風の詩「震災」を連想させるが、荷風のように新世代を積極的に拒絶するのではなく、新世代を求めながら得られない寂寥を歌っているところが、花袋らしいと言える。
 晩年の花袋は、中島清氏の論文(『田山花袋記念文学館研究紀要』第22号~26号所収)によれば、大正十五年から昭和五年の間に、2300を超える漢詩を書いていると言う。花袋は生涯に約3500首の漢詩を書いたが、約七割が晩年の五年余りに書かれたことになる。漱石が『明暗』を書きながら漢詩を書いていたことは神話的に意味づけられるが、花袋も飯田代子との俗了された情痴を描いた『恋の殿堂』『百夜』などを書きながら、漢詩の世界に身を浸していた。花袋の漢詩は漱石のような禅的な形而上的世界ではないが、むしろ漱石よりも素直に江戸漢詩や中国漢詩(花袋は宋詩が好みだったらしい)の伝統につながっていて、故郷の思い出、叙景詩や家族・友人との交流(交友の復活した柳田國男について詠んだ詩もある)、不遇で病気がちな晩年の心境などが、小説よりも率直に詩情を込めて歌われる。中島氏は、晩年に漢詩を量産した点において花袋と漱石の類似を指摘し、花袋を近代日本有数の漢詩人として再評価する可能性を述べているが、私も氏の紹介する漢詩を拾い読みする限り、花袋は漱石に匹敵する漢詩人として正当に評価されるべきではないかと思った。晩年の漢詩を注釈して岩波文庫にでも入れたら花袋のイメージも変わるかもしれない。
 丸谷才一は「いはゆる日本自然主義の作家には伝統といふ意識がない」と書いているが(「維子の兄 舟橋聖一」)、丸谷の考える「伝統」は和文的なものに偏っていて、漢文的なものに関心がないように見える。それは戦時中の軍国主義と漢文的なものとの結託に対する反発という意味合いもあるのかもしれない。漢文的「伝統」を血肉化していたという意味において、花袋は漱石と対等であり、荷風や谷崎より本格的に見える。私は、花袋の問題は、「伝統」を切断したことではなく、むしろ「伝統」を切断しきれなかったことにあったと思う。
 記念文学館の展示を見終わって出口に向かおうとした時、ふと書棚に『花袋・フローベール・モーパッサン』という本が目に入った。何となく手に取ってしばらく読んでいた。この本は、犬山の「明治村」の「成瀬正勝文庫」に所蔵されている稀覯本の『ボヴァリー夫人』英訳本に、「明治卅九年一月二十日 田山花袋 呈岡田美千代子」という花袋の署名が入っていたという話から始まり、以下書物をめぐる迷宮めぐりのような書誌学的探求が展開されて行く。東京に戻ってから改めて確認してみたが、著者は山川篤というフローベール研究者で、フローベールと花袋との間に何か明確なつながりを見いだそうとするその執拗な探求は、結局明確なゴールにたどりつくことなく終わっているようにも見えるものの、答えのない推理小説のようでもあって面白い。
 少なくとも確かなのは、明治39年に花袋が岡田美知代に『ボヴァリー夫人』の英訳本を贈っていたという事実である。山川によれば、この本(山川は「臨別本」と名付ける)は一ページ目の「plain」という英語に鉛筆書きで日本語訳が書き込まれているが、その筆跡は女文字で、美知代が書いたと見られる。花袋はなぜか「plain」を「プレーン」または原語のまま表記したそうだが、「平原、平坦、平面、見通しの良い、分かりやすい、平凡な」といった意味を持つこの言葉は、とても花袋的である。書き込みは最初のページだけで、美知代がこの本を結局どの程度読んだのか分からないが、山川は、『蒲団』において竹中時雄(花袋がモデル)が女弟子の横山芳子(美知代がモデル)に英語を教える時に読んだ本「ツルゲーネフの「ファースト」といふ短篇」は、現実ではこの「臨別本」の『ボヴァリー夫人』だったのではないかと想像する。
 山川は、花袋が『ボヴァリー夫人』について言及することがないことを「不思議」とし、その「謎」は美知代との関係を考えることで解けるのではないかと示唆するが、それ以上は踏み込まない。しかし作家論的文脈は別にしても、テクストの次元において、『蒲団』と『ボヴァリー夫人』、花袋とフローベールは、真剣に比較に値するのではないだろうか。渡部直己は、花袋をマキシム・デュ・カン、柳田をフローベールに比したが、私はやはり花袋は日本のフローベールとして考えたい。

『三体』についての感想

 劉慈欣のSF小説『三体』(原作2006年連載、2008年出版)を読んだ。とても面白かった、原作は三部作であり、今回訳出されたのはその第一作ということなので、全体を読まなければ確定的なことは言えないが、今の私の関心に触れるところがあるので、備忘のために感想を書いておく。(以下全面的にネタバレしているので未読注意)
 この小説は以下のようなプロットに基づいている。中国文化大革命で父親を殺された女性科学者葉文潔が、地球から四光年の距離にある宇宙人の文明「三体文明」と偶然コンタクトを取り、三体文明に人類文明を矯正してもらうことを願って、地球の情報を伝える。三つの太陽に照らされて母星が居住不可能になりつつあった三体人たちは、450年後に地球に到達するべく宇宙艦隊を組んで出発する。文潔は「種の共産主義」を唱えるエコロジストの外国人マイク・エヴァンズと共に、三体人を迎え入れるための「地球三体運動」を開始し、オンラインゲーム「三体」を通じて同志を集めると共に、「三体文明」に対抗できる文明を人類が作らないように、地球の科学者を脅迫したりして科学の進歩を押しとどめようと画策し、「三体文明」自身も量子レベルの最小のスーパー人工知能「智子」を地球に送り込み、地球を監視しつつ科学者たちを攪乱する。
 荒唐無稽に見えるが、私はこの小説を純粋な「SF」には読めなかった。作中のオンラインゲーム「三体」には周の文王や殷の紂王、秦の始皇帝などがゲームキャラとして登場し、その世界観は、中国の歴史そのものをなぞっている。すなわちそのゲーム世界では、三つの太陽の内一つだけが適切に地上を照らす気候の穏やかな「恒紀」の時代と、三つの太陽が同時に地上を照りつけて干上がらせたり逆に一つも太陽が昇らずに凍らせたりする「乱紀」の時代が交代して訪れ、「恒紀」には文明が繁栄するが、「乱紀」には滅亡し人間は脱水して干物になって貯蔵される。「乱紀」が再び「恒紀」になると宮殿に籠もって避難していたいた王が水をかけて人間を再生する。これは「一治一乱」的な中国史観を強く連想させる。「三体」世界とは、伝統的な中国的世界のアレゴリーに見える。 
 この小説は、中国で大ヒットし、作者は現在も中国で活動しているとのことだが、これを読んだ私の第一の感想は、なぜこれは中国の検閲に引っかからなかったのかということである。今の中国ではどこまで表現の自由があり、どこからがだめなのか。その境界を知りたいと思った。
 冒頭の文化大革命の部分はかなりリアルで、紅衛兵が「マルクス主義思想」を振り回して科学者を「反動的学術権威」のレッテルを貼って吊し上げるところは真に迫っている。これは現在の中国では許容範囲であるらしい。基本的に反体制組織「地球三体運動」が仲間割れしたあげくに体制に鎮圧される話ではあるので、体制批判にはならないのかもしれない。文潔は「三体文明」が人類を救うのではなく絶滅させに来ることをエヴァンズが隠していたことを知って幻滅と沈黙に陥る。これは中国を良くするために外部勢力に頼ることは、外部勢力に利用されるだけだという教訓かもしれない。体制側のキャラクターで印象的なのは警官史強だが、この人物はアメリカの刑事ドラマに良く出て来る叩き上げの庶民派警官のイメージと、中国の伝統的な農民的リアリストとを合体させたようなキャラクターで、美少女テロリストを精神的に動揺させて容赦なく殺すなど残忍なところもあるが、憎めないように描かれている。史強が表明する大地への揺るぎない信頼(終わり近くで華北大平原の麦畑に群がるイナゴを指して「地球人を虫けら扱いする三体人は、どうやら、一つの事実を忘れちまっているらしい。すなわち虫けらはいままで一度も敗北したことがないって事実をな」と言う場面がある)は、とても中国的(もちろん勝手なイメージに過ぎないが)だと感じた。
 中国の近代以前の歴史は、南方の農耕民族国家が繁栄して豊かになると、北方から遊牧民が侵攻して来てそれを破壊するという反復として捉えられるが、宇宙を疾駆して地球を目指す「三体文明」にはその遊牧民的なイメージが重ねられているようにも読める。小説の最初の方で、文潔が配属された大興安嶺の兵団が、モンゴルとの国境線で「ソビエト社会帝国会主義の戦車」と対決することを渇望している場面は象徴的である。その時は結局戦争は起こらず、駐屯軍が大森林を伐採して砂漠に変えるという環境破壊を行っただけに終わるが、「三体文明」はこの到来しなかったソビエト軍を代補する存在と言える。ただ生存のためにハングリーに地球に押し寄せる「三体文明」は、それ自体イナゴ的であり、中国そのものの比喩にも見える。
 まだいろいろ考えてみたいが、三部作の第一作しか読んでいないので、あまり先走っては言えない。来年以降、第二作以下の日本語訳が出るらしいので、楽しみに待っていたい。

フランス革命について

 6月の末に、鈴木秀美指揮のオーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会に行って来た。前半はモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』の序曲とアリアの抜粋、後半はハイドンの交響曲二曲(10番、100番)というプログラムだった。いつも通り安定した古楽器演奏を適切な大きさのホールで聴く喜びを堪能した。こういう演奏を聴くと、ハイドンの交響曲をサントリーホールや東京芸術劇場で聴くのは野蛮だと口走りたくなる。100番は、第2楽章の途中で打楽器隊が楽器を豪快に打ち鳴しながら観客席の間の通路を通って舞台に上がるという趣向で、音量的にもゴージャスで非常に満足した。   
 音楽的には大満足だったが、この打楽器隊が顔を黒く塗って「トルコ風」(?)の装いをしていたことについては、よくある趣向とはいえ、違和感を感じた。ポリティカル・コレクトネスを言うつもりはないが、18世紀西欧社会にとっての「オリエンタル」な他者としての「トルコ」のイメージを、何も21世紀の日本で再現しなくてもと思った。片山杜秀の近著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』によると、テレマンからベートーヴェンに至る「トルコ風」の音楽は、オスマン帝国の軍楽隊の経験消化に由来するとのことだが、現代において「トルコ風」の音楽を演奏するのであればそこに現代からの批評を加えて見たらどうかと思う。
 私はこのプログの初期の記事「マリー・アントワネットと軍隊交響曲」において、100番を、当時同時進行中のフランス革命において優雅なものが軍隊によって踏みにじられるイメージで解釈してみたことがある。特に第2楽章は断頭台に牽かれて行くマリー・アントワネットを私は想起するのだが、このコンセブトで演出するなら、打楽器隊はトルコ人ではなくフランス革命軍の格好をするべきということになるだろう。そして第2楽章最後のラッパの合図と共に起きる全オーケストラの轟音と同時にたとえばフランス人形(マリー・アントワネットに見立てた)の首を斬って見せたら完璧な演出となるのだが(悪趣味なのは認める)、これをもし日本の演奏会でやったら(特に皇族が来るコンサートで)ドン引きされることは請け合いに違いない。ベルリオーズの幻想交響曲の第4楽章の断頭台上への行進が、現代の聴衆の顰蹙を買わず、逆に快感を覚えさせるのは、それが恋愛という普遍的動機に基づいた個人的な行動的犯罪に対する刑の執行であるからであり、そこで聴衆は個人の内面の自由と社会的な正義の欲求の双方を同時に満たして満足する。これに対してマリー・アントワネットの処刑を音楽的に再上演してみせることは、とりわけ天皇制の残存する現代の日本においては、認知的不協和を引き起こす危険を持つ。
 蓮實重彦は18世紀のフランスのヴォルテール的な知性が「フランス革命が導入した大殺戮」をどうして容認したのか分からないと言い、フランス革命は「68年」とは比較にならないテロルであって、知識人は未だにそれについて「責任のある発言」ができていないと指摘している(『「知」的放蕩論序説』)。この蓮實のフランス革命への疑問は、蓮實の現代日本に対する態度とつながっている。かつて蓮實は、吉本隆明が『悲劇の解読』の中で横光利一の「悲劇」を「アジア的な専制の原理」と結びつけて論じたことに疑問を呈し、「アジア的な専制共同体」を自分は実感として理解できないと言っていた(磯田光一との対談、『饗宴Ⅰ』所収)。天皇制下の日本を「市民社会」である「かのように」把握し「アジア的な専制共同体」の現前をを否認するという蓮實の日本に対するスタンスは、フランス革命に対する批判的態度と連動するものであると言える。
 だがやはり「東アジア的専制主義」(これまで「東洋的専制」など、いろいろ言葉に迷って来たが、私は今書いている本では「東アジア的専制主義」という言葉で統一することにしている。ここで言う「東アジア」とは漢字文化圏を指し、東南アジアやインドは含めない)は、現代の日本においても現前している。たとえば今話題沸騰中の「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由」展覧会をめぐる騒動(「平和の少女像」などの展示内容が「反日」的であるとして名古屋市長や官房長官が疑問を呈し、抗議が殺到して脅迫沙汰にまでなってついに3日間で展示中止に追い込まれた)に関連して、「spartacus@accentdeverite」氏は、展示中止に反対するツイートの合間に、次のように書いている。

「近年の日本の嫌韓・嫌中は、東北アジア覇権国を自負してきた「日帝」が、「華夷秩序」の周縁―なにしろ「漢の奴の倭国王」である―という本来の地政学的地位に格下げされる際に、「日帝」構成員が示す去勢否認の症状にしか見えない。また、「行動療法」で痛い目に遭わないと治らないのだろうか」

 私も展示中止には反対だが、しかしこのような論法による日本の嫌韓・嫌中(日本への敵対行為は「嫌日」より「反日」と呼ばれることの方が多い。この「嫌」と「反」の非対称性は日本と中韓との間の関係性の非対称を示している)への意味づけは、批判として有効には見えない。 「華夷秩序」に「本来の地政学的地位」などというものはなく、「華夷秩序」そのものが錯誤であり、「東アジア的専制主義」の反映である。天皇制は日本固有のものではなく、といって世界普遍のものであるということでもなく、東アジア固有、漢字文化圏固有の「東アジア的専制主義」の一形態(北朝鮮の先軍政治も中国の共産党独裁も別の一形態である)に過ぎない。天皇制を日本固有のものとして批判することは天皇制への有効な批判とはならず、結局天皇制に回収される。
 この「東アジア的専制主義」についての認識の問題は、「表現の不自由」展中止を、日本の市民社会の未熟さの徴候と見るか、それとも市民社会の崩壊の徴候と見るかの違いにつながる。確かめたわけではないが、私の印象では、展覧会中止に批判的なツイートの多くは、後者の立場に見える。少なくとも以前の日本の方が市民社会は機能していたという認識がそこにはある。これは市民社会の表象代行システムを批判したいポストモダニスト的欲望が機能しているとも言えるが、「spartacus」氏の言葉に見られるように、それはしばしばプレモダンで「本来的」な「華夷秩序」のアイロニカルな肯定に帰着する。
 私は日本を含めた東アジアは未だ市民革命以前の状態にあると考える。たとえば台湾や韓国は、それぞれ「統一」した時に、現在の香港のようなことにならないかどうかによって、その民主主義の真価が試されるだろう。東アジアの民主主義はアメリカ軍によって守られていて、アメリカの軍事的現前がなくなったら、たとえ外部からの侵略がなくても内部からなし崩し的に消え去るかもしれない。しかし他方でアメリカに支えられている限り、それは模擬的な民主主義にとどまり続ける。これは第二次世界大戦後不変の構造である。
 そしてこの時、将来において東アジアで市民革命がたとえ可能であるとしても、それはテロルなしで可能なのだろうか。ここで問いはフランス革命に戻る。

「資本の本源的蓄積」の神話と秋聲・漱石

 今年度の前期の大学の講義は、自然主義文学を読むというテーマで、有名作品を毎回取り上げて読んでいるのだが、この間『あらくれ』を取り上げるに当たって、大塚英志『怪談前後』を読んでみた。以前から持っていた本だったが、まともに読んだのは初めてだった。結局授業では使わなかったが(花袋と柳田との関係についての部分は使わせてもらった)、柳田民俗学と自然主義文学との関係を執拗に分析した力作であり、多くの発見があった。と同時にここで扱われている諸問題は、その後何も批評的フォローがされていないとも感じた。
 特に『あらくれ』に出てくる「六部殺し」説話をめぐる分析は、私の関心に直接交差する。『あらくれ』のヒロインのモデルを秋聲の妻はまとする明白な誤り(事実ははまの弟小澤武雄の「同棲者」(「妻」ではないと野口冨士男は強調している)で洋服店の共同経営者だった鈴木ちよ)はあるものの、私の最初の批評文「『あらくれ』論」まで引用しての「六部殺し」説話についての解説は、改めて『あらくれ』における「六部殺し」説話の意味を考え直すきっかけを私に与えてくれた。
 「六部殺し」説話は、近世から近代にかけて日本の民俗社会に広く広がっていたとみられる「世間話」の類型である。村のある家に旅の六部巡礼が泊まる。六部は大量の所持金を持っていて、その家の主人は六部を殺してその金を奪い、それを元に金持ちに成り上がったというのがその説話の大筋である。この物語は小松和彦が「異人殺し」の物語の典型として取り上げていて(『悪霊論』)、私も「『あらくれ』論」でそれを参照した。『あらくれ』の冒頭、実家の母に嫌われたお島は、七歳の時に養家に貰われるが、その養家はこの「六部殺し」によって資産家になったと噂される家だった。この噂を耳にしたお島は、養母に噂を打ち消されたにもかかわらず、養家から心が離れて行く。
 大塚はこの『あらくれ』における「六部殺し」説話の扱われ方を、「作者が「お島」を取り巻く環境としてあるはずのフォークロアとしての説話を、まさにフォークロアとしてフォークロアの外部から記述し得ている」と高く評価し、お島が作品の中で「「六部殺し」の説話を内に抱える現実」とは全く異なる新しい「現実」を生きようとしていると読む。これは江藤淳の「徳田秋聲と「充実した感じ」」(『言葉と沈黙』所収)や私の「『あらくれ』論」と似た論旨だが、大塚は続けて、この『あらくれ』と対になるテクストとして夏目漱石の『夢十夜』の「第三夜」を分析する。「第三夜」は背中に背負った子供が百年前に殺した「盲目」だったという物語だが、大塚はこれを「ありふれた怪談に「私」を導入し、更に「場所」と「時間」を導入することで、漱石は「六部殺し」の物語性を解体し、場所と時を欠いた時空に逃亡していた「私」をいま、ここに引きずり出した」と解釈する。
 私はこの大塚の漱石解釈には異論を持つ。大塚は「説話が支配する旧現実」から離脱した作家として秋聲と漱石を並列的に位置づけているが、そうしてしまうと見えなくなってしまうものがある。秋聲と漱石は確かに共に「旧現実」から離脱したかもしれないが、その離脱の様相には根本的な差異があり、その差異こそを見なければならない。
 それを考えるためには、まず「六部殺し」説話とは何なのかを考える必要がある。小松和彦は『悪霊論』において、「六部殺し」を典型とする「異人殺し」伝説は、近世後期から近代にかけて「貨幣経済によって解体の予感をいだいた村落共同体が語り出した、いわば〝貨幣殺し〟のフォークロア」であり、「貨幣を殺害するために、貨幣をもった異人が、日本各地に流布するフォークロアのなかで殺された」と分析している。
 この考察を踏まえて、私なりにかみ砕いて言えば、「六部殺し」の説話が語るのは。「なぜあの家は金持になったのか」という疑問に対する物語的な回答であると考えることができる。そしてその答えは、人に言えない後ろ暗いことをしたからというものである。極めて素朴であるが、同時に明快な答えである。近代の初期に流通したこの物語は、マルクス的に言えば日本における「資本の本源的蓄積」の神話と言える。資本が資本を生み出し労働者を搾取しながら自動的に増殖するためには、まず最初に原初的な資本がなければならない。その最初の資本はどうやって作られるのか。暴力的盗みによってというのが、日本の民俗社会の答えである。金持ちではなかった者が金持ちになるには、何か不当なことをすることなしには不可能である。これは成金に対する嫉妬、ルサンチマンの言葉であるのかもしれない。だがそれは実感に基づいた現実でもある。
 この時『夢十夜』と『あらくれ』の差異は、「資本の本源的蓄積」の神話に対する態度の違いとして、読み直すことができる。すなわちそれは血塗られた「本源的蓄積」を「相続」するのかしないのかという差異である。『夢十夜』が示すのは、「相続」した者にかけられた呪いと罪の自意識と言うべきものである。その罪は「私」にとって記憶がないものであるが、その罪がもたらした恩恵を「私」は確実に享受している。急速に発展する資本主義社会の中で「本源的蓄積」を「相続」したが故に先天的に勝ち組であること、そのやましさの文学的表現として漱石の「私」はある。
 これに対して『あらくれ』が示すのは、「相続」しなかった者、あるいは「相続」できなかった者の「現実」である。お島は洋服店を何度も開業し、精力的に働くことで経営は軌道に乗りかけたように見えるが、そのたびにちょっとした景気の気まぐれなどで、店を畳む。お島は商売にとりつくが、必要な「本源的蓄積」がないために繰り返し失敗する。それは困難な「現実」ではあるが、漱石的な呪いや罪とは無関係な「安易」な世界には違いない。
 両者は大塚の言う「旧現実」を、同じ意味において離脱したとは言えない。秋聲が『あらくれ』において、「旧現実」からの「相続」を拒絶し拒絶されるヒロインを描いたのに対して、『夢十夜』において漱石は、「旧現実」から「相続」したものを「本源的蓄積」として受け継ぎながら、それを文字通り「夢」の中に抑圧することで近代日本の新しい「現実」と折り合いをつけたと言える。この意味で漱石は「「六部殺し」の物語性を解体し」(大塚)たのではなく、むしろその物語性を保存した。そしてそのことにおいて漱石は、「本源的蓄積」が不当な利得であることを隠蔽し、日本資本主義の最も洗練されたイデオローグとなる。これは漱石が金力に対する嫌悪をしばしば表明していることと矛盾しない。金力に対する嫌悪は、自身がその金力に寄生して養われていることの自意識と切り離せない。1980年代後半から90年代前半のバブル時代において、漱石評価が最も高くなったことは偶然ではない。貧乏人は金持ちにルサンチマンを持つなというルサンチマン批判(ルサンチマンへのルサンチマンと呼びたいが)が時代の精神(今も続いているかもしれない)で、村上龍がもてはやされた時代だった。
  『怪談前後』の大塚は、漱石に対して十分批評的とは言えない。その甘さは、この本の中で花袋と柳田を比較して、柳田にありうべき「自然主義」を見いだし、結局柳田礼賛してしまう甘さにもつながっている。大塚もまたバブルの申し子(捨て子ではなくもちろん嫡出子の一人)的批評家の一人だったということなのかもしれない。ともあれ『怪談前後』は、私にとってとても参考になった本だった。

侠客的なものについて

 位田将司・立尾真士らの同人誌『G‐W‐G』3号「特集 天皇/制と文学」を、入手することができた。まず読んだのはやはり絓秀実「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち―ケーススタディ」である。改めて絓氏の卓越したモラリストとしての首尾一貫性に感心した。去年ネットで話題になった渡部直己のセクハラ問題について、懇切丁寧に委曲を尽してその問題点を解説していて、ネット情報だけで判断することの危うさが良く分かる。私自身、渡部氏や「美しい顔」問題について不用意なことを書いたかもしれないと反省した。ただ他人による「享楽の盗み」をあれこれあげつらうことは、それ自体が抗しがたい享楽には違いなく、私も頭では分かっていても、ネットの噂話を見るとつい書いてしまうことがある。「享楽の盗み」叩きを止めるには享楽を断念するモラルが必要となるのだが、市民的モラルの正当性が失われている(あるいはそもそもない?)現代日本において、それは非常に困難であり、特に享楽からの疎外意識を持ちやすい男性にとっては、よほどの知性と判断力が必要となる。単に「怒号」するだけで「享楽の盗み」叩き(「ヘイト」とも言われる)を抑えられると思うのは幻想に過ぎない。「怒号」は新たな「享楽」を作り出し、新たな「享楽の盗み」疑惑を「怒号」された相手や第三者に誘発させる。「怒り」と「ヘイト」の区別をつけるには、鎌田哲哉的才能が必要となる。
 絓氏の論を読んで私が考え直してみたいと思ったのは、田山花袋の「蒲団」の問題である。絓氏は「文壇が、特権的に享楽を盗む特異な―才能溢れる?―人間たちの共同体と表象されてきたこと」の起源に、小林秀雄の「中原中也と長谷川泰子との三角関係をはじめ、その享楽を盗む疑似「原父」的なキャラクター」の神話を指摘する。これはその神話以前にはまだこのような表象は確立されていなかったということである。すなわち自然主義文学の起源の一つと目される「蒲団」の物語は、「特権的に享楽を盗む」ことに失敗した「文学者」、セクハラを遂行できなかった「文学者」、そのことによって自身の才能の貧寒さを露呈させた文学者の物語であった(主人公の「性欲」は蒲団をかぐだけでは満足できなかったので、泣くしかなかった)。この意味で「蒲団」は単なるセクハラ暴露小説ではなく、むしろセクハラ批判小説と言える(ハラスメントがあるとすれば、書かれる以前の現実のセクハラというよりは、書かれることそれ自体によってヒロインのモデルに及ぼしたテクスチュアル・ハラスメント的な被害が問題となるだろう)。以後の自然主義文学においては、花袋に限らず、たとえうまく行った恋愛・情事であるにしても、決して読者(特に男性)にとって羨ましいもの(つまり「享楽の盗み」的なもの)として書かれることはなかった(これに対して自然主義を批判した漱石は、倫理と享楽の盗みを両立させた「ラッキースケベ」(享楽を盗んでもセクハラと言われないで済むこと)的シチュエーションを書くことに生涯固執し続けたと言える)。小林が「私小説論」において自然主義文学とその鬼子としての私小説を批判したことの深層にあったのは、「享楽の盗み」ができない「私」(要するに非「モテ」ということだが)を叩くことで「享楽の盗み」を合法的にできる「社会化した私」(「リア充」)を正当化し、後者を特権化することだった。絓氏はかつて小林を明智小五郎に例えていたが、日本的「名探偵」とは、罰をうけることなく犯罪という享楽を盗み、それを読者に共有させる存在であり、現在の「名探偵コナン」においてそれは希薄な形で国民的に共有されている。
 ただ私が一点気になったのは、渡部氏が発したと報道された「おれの女になれ」発言について、絓氏が映画『日本大侠客伝』 の中でヒロインをヤクザが「おれの女にならないか」と恫喝する場面と比較しているところである。氏は渡部氏がこの映画と同じニュアンスで「おれの女になれ」という類の発言をしたとすれば、それは「一〇〇年以上前の日本の九州の積出港には厳然としてあったであろう「封建的遺制」が、一九二〇年代ニューヨーク・ハーレムにあった白人向け高級クラブの名を借りた高田馬場の大衆的なカフェ(コットン・クラブ)に、突如として現出した」ということに過ぎず、「あまりにも時代錯誤的な話で、興味がわかなかった」と述べる。
 だがそれは本当に「時代錯誤」なのだろうか。絓氏は他方で、渡部氏の例より遙かに悪質な広河隆一の「性暴力」「レイプ」については、「広河の話は、現代にも『大侠客伝』があるということだ」と書いている。別に文学の世界に限らず、日本社会においては至る所で性をめぐる「封建的遺制」が現在も百年前と変わらず反復されているのではないか。それでは絓氏はそれをなぜ「時代錯誤」と呼ぶのか。それは現代日本が、欧米諸国と共通の「自由と民主主義」社会であるという前提があるからであるように見える。
 しかし本当にそうなのか。私は最近「東洋的専制」という概念をオッカムの剃刀代りに使っていろいろ考えているのだが、現代日本の「享楽の盗み」と「享楽の盗み」叩きに、欧米のそれとは異なる東洋的刻印が押されていることの徴候が、この「時代錯誤」には含まれているように感じられる。  
 ここで絓氏が映画『日本大侠客伝』を引き合いに出していることは、その意味で示唆的である。私はこの作品を見ていないが、ヒロインとヤクザがいるなら、当然ヒーローとしての「侠客」もいるだろう。絓氏は「時代錯誤」で「興味がわかなかった」と否認の身振りをしているが、私は渡部氏に対する絓氏の振舞いに、どこか任侠的なもの、侠客的なものを感じる。そしてこの問題に限らず「義を見てせざるは勇なきなり」的な侠客性は、絓氏の批評の通奏低音のようにも見える。それは時に蓮實重彦の東大総長からの退任を親分の刑務所からの出所に例えるような感性の発露ともなるのだが(『知的放蕩論序説』)、この侠客性は、探偵性と共に小林秀雄の文壇制覇の大きな要因だったことは指摘しなければならない。中原中也や坂口安吾など、当時の名だたる「無頼派」文学者たちと酒場でやり合った、酒場で誰それを泣かしたという武勇伝が、小林に「インテリやくざ」的なオーラを付与し、以後の文芸批評家たちの憧れの行動モデルになった。
 この治外法権的暴力の容認を伴う侠客性は、欧米における「ギャング」性や「マフィア」性とは異なっている。しかし日本では両者がしばしば混同され、その中でゴダールのような映画が評価されたりもする。といって侠客性は純日本的なものであるのでもなく、東洋的、東アジア的、漢字文化圏的なものである。それは「封建的遺制」というよりは、司馬遷『史記』の「侠客列伝」にまで遡る「古代的遺制」と言える。侠客は、時の権力に虐げられた弱者を法の外側から「義」によって助けるが、それは権力そのものの批判には向かわず、権力を本来的な正しい在り方に戻すことに「義」を見出して行く。その意味で侠客は、日本の天皇制を表面的に批判できても、東洋的専制の構造そのものは批判できず、そのことにおいて結局迂回しながら背中から後ろ向きに天皇制に回帰する。天皇制もまた江戸的な「封建的遺制」ではなく朝鮮・中国的な「古代的遺制」であり、だからこそ日本の近代化のためのイデオロギー的中核になりえた。
 絓氏がそうだというわけではないが、侠客的なものが持つ問題性についてはもっと批評的になる必要がある。絓氏はこの論の最後で「戦後天皇制民主主義」を「セクハラもなければ不倫もなく、嫉妬も羨望もない」「ただ、「弱者」によりそった「憐み」と「同情」だけがある」天皇家の姿として定義しているが、この天皇家のイメージは、欧米的な「自由と民主主義」ではなく、古代中国的な堯舜的徳治政治の範疇に属しているように私には見える。とすればやはり、天皇制を廃止するには「東アジア同時革命」(共産主義革命ではなく市民革命による「自由と民主主義」の初めての獲得)が必要なのではないか。

東洋的専制の現状

 小谷野敦『とちおとめのババロア』をやっと読んだ。予想していたのとは少し違った内容だったが、小谷野氏らしいと言えばらしい小説と思った。結婚相手を探していた東京の仏文科の30代の女子大准教授福鎌純次が、出会い系サイトで雍子という女性と知り合うが、彼女は実は皇族だったという物語である。もっともその後に特に波瀾万丈の展開があるわけではなく、淡々と交際が続き、結婚に至るまでが、平板な文体で綴られる。「ローマの休日」と言うにはときめきが足りず、中年の男女の熱量のないだらけた関係を要約的になぞった、設定だけで作られた小説という感じで、面白くはない。ただ皇族を扱っていることが興味を引くところであるが、今謹慎中(?)の渡部直己的に(??)批評するなら、「描写」が足りないという批判はできるかもしれない。
 特にセックスシーンが「ヨウコの体はふくよかでなめらかだった」程度で終わっているのは手抜きだと思った。皇族女性と一般男性のセックスなのだから、もっと詳細にせめて谷崎的にでも描写するべきなのではないか。勤務先の女子大生たちとの間に何もないというのも、この場合逆にちぐはぐである。題材はスキャンダラスになる可能性を持っていながら、その契機をことごとく潰している。それは聖なるものを否定し、すべてを凡庸なものとして描こうとする意図なのかもしれないが、作中に言及されている蓮實重彦の『伯爵夫人』の過剰な性描写と比較すると、やはり物足りない。雍子が徳田秋聲を研究しているから(亀井麻美さんがその設定のモデルなのだろう)、描写が淡々としたものになったのか。しかし秋聲的な時間の錯綜や叙述の破綻があるわけでもない。この短編集に収められた他の小説を見ても、小谷野氏の小説は細かい描写はしないで、出来事をつまらなそうに報告する作風のようではある。だが『とちおとめのババロア』では、投げやりなようでいて、描写が露骨になり過ぎないよう配慮している気配がある。虚構は現実と違うのに、現実世界のタブーが虚構を無媒介に規制し、虚構に対して勝利しているのではないか。結局天皇制への自主規制がそこに働いているように見えるのだが、実際はどうなのか。ともあれ最後に入籍した雍子の「やっと人権が手に入った」というつぶやきは、天皇制という制度そのものの非人間性を示し、それを「象徴」として押し戴いている我々日本人の無自覚の非人間性をも振り返らせる。
 この『とちおとめのババロア』の生煮え感に比べると(ジャンルが違うので比べられないが)、これも最近見た韓国映画『金子文子と朴烈』は、一見すべてが明快である。関東大震災と朝鮮人虐殺後に、民衆の不満の矛先を変えるために官憲が起した朴烈事件が、一貫したストーリーによって描かれ、それぞれのキャラが個性的に描き分けられている。純映画的にどうだかは分からないが、特に文子役のチェ・ヒソは、見事な日本語で凛々しく美しく文子に成りきっていた。大震災後にあわてふためいて会議する日本政府の高官たちの姿は、何となく『シン・ゴジラ』を連想した。朴烈は現代韓流ドラマ的なノリもまじえ、まじめな運動家というより、アナーキストらしい軽薄な色男という感じもする。検察官や牢獄の看守とのやりとりなどコミカルな部分も多く。この軽いエンターテインメント風味が韓国でヒットした一因かもしれない。とにかく日本のテレビや映画で、この時代の歴史がまともに物語として描かれることは少なくとも当面望めそうにないので、かなり本格的な時代考証も含め、楽しめた。
 その中で私が少し引っかかったのは裁判の場面である。最初の公判で、文子と朴烈は韓服を着て出廷する。特に朴烈は王服を着て、朝鮮国王のような姿を取るが、私はここに、反天皇制運動に東洋的専制(「アジア的専制」と言うと誤解されるようなので、とりあえずこう呼ぶ。基本的に東アジアの漢字文化圏特有の専制的支配を求める心性の構造を指す)が幽霊的に回帰して来る姿を見たような気がした。朴烈の王服着用についての出典は二人を弁護した布施辰治『運命の勝利者 朴烈』と見られるが、山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』は、「反権力主義の朴がいくら自民族であれ、王権を認めるようなことを要求したとは考えにくい」と述べている。しかし私には「反権力主義」が「王権」の密輸入によって支えられるのは大いにありそうなことに見える。また朴烈が獄中で文子に正式の結婚を申し出、怪訝な顔をする文子に、死刑になった後、朴烈の親族が文子の遺体を引き取れるようにするためと説明するところは、何か獄中で宮本顕治が中条百合子に筆名の改姓を要求したのに似た東洋的専制を感じた。戦前の日本の裁判官の法服(史実に従って再現されている)も古代の官服のように時代錯誤的に異様で、大日本帝国がどのように古代的な専制構造の反復だったのかについて勉強になった。
 この映画のクライマックスは死刑判決の場面だが、その後すぐに恩赦というアンチクライマックスが来る。明治の大逆事件は、権力の側が積極的に死刑に動いたが、大正の朴烈事件、難波大助事件(両者はともに病身の天皇ではなく摂政の皇太子が標的だった)では、恩赦を与えたがる権力に対して被告の側が積極的に死刑を望んだ。金子文子は、大正末の大逆のヒロインとして明治の管野すがと比較できるが、すがが自らの顔を「表象不可能なもの」(絓秀実『「帝国」の文学』)にするのに対して、文子が美人として表象可能であることもいろいろなことを考えさせる。
 映画では恩赦の後は駆け足となり、文子の獄中の自殺(他殺の可能性もほのめかされる)は伝聞のみで直接は描かれず、生き残ったその後の朴烈の生の軌跡も描かれない。そこは物足りない。獄中で転向し、戦後韓国に戻り、朝鮮戦争で北朝鮮に拉致され、その地で死んだ(処刑されたとも言う)朴烈の転向の連続としての後半生は、文子との一途な恋愛賛歌を描くことを主題とするこの映画にとっては、夢を壊す蛇足なのかもしれない。しかしそこが描かれない限り歴史は完結しない。そしてそれを描けないことは「東洋的専制」が東アジアにおいて過去のものとなっていないことを示してもいる。

否定・否認・批判

 前々回の記事(「漱石神話の現在」)についてツイッターの反応を見ていたら、次のようなツイートを見つけた。「思想家の加藤周一は代表的な評論『日本文学史序説』(1975)で既に夏目漱石を全否定してますけど。僕は加藤の思想的な支持者ではないがその全否定ぶりは「アンチ漱石」派の中でもかなり目立つ。江藤淳や吉本隆明や蓮實行人や絓秀実や大杉重男らとも少し違う観点で「アンチ漱石」の系譜を探りたいところ」(えかきのルロアさん)
 匿名なのでどういう人が書いているのか分からないが、加藤周一が夏目漱石を全否定していたというのが初耳だったので、そうだったっけと『日本文学史序説』を図書館で借りて調べてみたが、どこで加藤が漱石を全否定しているのか全く分からなかった。むしろこれ以上ないくらいほめているのではないだろうか。 この本の中で加藤は、正岡子規が漱石から特定の文化を超える「文学」の一般概念を学んだのではないかと述べ、漱石は詩人として蕪村に近いと言い、『文学論』の「F+f」を「以後日本人がみずから行った「文学」の定義で、これ以上精密なものはない」と言っている。また『明暗』を「日本の心理小説の最高の頁」と評価し、漱石は「軍国主義」に反対だったとして、「日本の代表的な小説家は、このように考え、その考えにおいて一貫し、しかもその生き方において、その考えとの斉合性を見事に保った」と締め括っている。
 どう読んでも加藤は、漱石を「全否定」どころか全肯定しているようにしか見えない。実際加藤の漱石についての記述を読んでいくと、柄谷行人の漱石評価の原型が既にここにあると感じられ、加藤周一→柄谷行人→小森陽一という岩波知識人の系譜を考えたくもなる。とにかくこのツイッター氏が言うような「「アンチ漱石」の系譜」は存在しない。少なくとも江藤淳・吉本隆明・柄谷行人・蓮實重彦はそれぞれの仕方で漱石に花束を捧げ、漱石神話を更新している。これらの中で一番距離を取ってるのは蓮實重彦かもしれないが、それでも『闘争のエチカ』では、小津と並べて漱石の言葉の「魂」なるものを「唯物論的」に「顕揚」しているし、『批評空間』の座談会では近代文学の中で漱石だけが恋愛を描けたと、石原千秋や小森陽一に盛大にリップサーヴィスしている。
 漱石とは日本の文壇にとっての「シボレート」(それを正しく言えないと「敵」として抹殺される合言葉)である。この合言葉をうまく言えることが、少なくとも戦後日本の文芸批評家の王道の系譜に連なる条件であるのかもしれない。東浩紀も漱石に目配せをするのは忘れない(新著の『ゆるく考える』を買おうかと思って本屋で立ち読みしたのだが、漱石は「無頼派」だという猪瀬直樹の発言を肯定的に引いているのを見て、馬鹿馬鹿しくなって買うのを止めた。ちなみに『新記号論』も立ち読みしたが、日本には結局ソーカルはいないのかと思った)。
 そしてもちろん私は、この漱石という合言葉をうまく言えない。言えないことにおいて文芸批評家失格には違いない。最近「大失敗」という同人誌(私はまだ読んでいない)を出して気焔を揚げている「ミスター」氏が、前々回の私のブログ記事に反応したらしい次のツイートで、私に対して批評家失格宣言をしている。「大杉重男の情熱がよくわからない。漱石=天皇を否定したい、固有名を消去したいんなら、天皇を殺せば良い話だろう。スガさんは「否定」ではなく「否認」の人であるから文芸批評の人なのであって、大杉重男は本当に「否定」したいなら運動家になれば良い。」
 「否定」と「否認」の区別は、「隠喩」と「換喩」の区別にも似て、精神分析との関連で隠語的秘教性を帯びて使われがちなので、私も正確にその使い分けができる自信はない。だから私なりの語感に頼って言うなら、私の漱石論は「否定」ではなく「批判」である。たとえば私は「日本にデリダ的な知性がいるなら、「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という一行の解釈だけで一冊の本を書いているだろう」と書いたが、それはこの一行をPC的に糾弾し否定するということではまったくない。私が言いたかったのは、この一行の持つ意味の織物をすべてほどいた上で、改めて織り直すその過程そのものが、知的なスリルに満ちた「批判」となり「批評」となりうるということである。
 しかし小森陽一はそれとは逆の身振りをする。この一行を単に無視してなかったことにし、そのことによって、漱石が日本帝国主義の良き友人だったという明白な事実を「否認」する。漱石神話は、何時でも漱石礼賛にとって現代の価値観から都合の悪いと想像される部分(別に良き友人でいいじゃないかと思うが)を、なかったこととして「否認」する歴史修正主義的身振りに支えられている。『アンチ漱石』以来の私の漱石批判も、漱石支持者から直接的に否定や批判されることはほとんどなく、常に「否認」(要するに無視だが)の対象となって来た。去年私はある近代文学研究者から「あなたが小森を否定するから小森はあんなに大きくなった」という意味のことを直接言われたが、私にそんな影響力はないことは別にしても、これもまた狡猾な「否認」のレトリックと言える(それが正しいなら、左翼リベラルが安倍を否定するから安倍があんなに大きくなったと言う理屈も正しいということになる。いや正しいのかもしれないが。)。そして「ミスター」氏の「大杉重男の情熱がよくわからない」という言葉も、それと同じ「否認」のバリエーションにしか私には見えない。自分の「情熱」の源泉など考えたこともなく、いつも無根拠だが、強いて言えば、あまりにも「否認」ばかりされる(無視されるだけで論理的な納得の行く否定や批判はされた記憶がない)ので、逆に漱石批判に意味があるのかもと引きずっているところはある。世間を狭くするばかりでいいことはないのだが。
 また「スガさんは「否定」ではなく「否認」の人であるから文芸批評の人なのであって、大杉重男は本当に「否定」したいなら運動家になれば良い」という「ミスター」氏の言葉は、勢い余ってかえって絓氏を貶めることになっている。絓氏が天皇を「否認」はするが「否定」しないのかどうかは、絓氏自身に直接聞いてみたいが、少なくとも現在の絓氏は、「文芸批評の人」と呼ばれるよりも「運動家」と呼ばれた方が嬉しいだろう。他方私はと言えば、「運動家」になる資質も気持ちもまったくない。国木田独歩的(『牛肉と馬鈴薯』)に言えば、私はただ「言ってみるだけ」であり、スピノザ的な受動的認識者に徹するしかないと思っている。
 その上で言えば、私が批判の対象としているのは天皇制だけではない。日本と東アジアに通底し、天皇制を可能にし続けているアジア的専制と仮に名付けるしかないものが最終的な批判の対象である。天皇制を日本固有の特殊なものと考える限り出口はない。単なる「反日」「反天皇」は、アジア的専制への再服従に帰着する。権威に対する盲従、上下関係でマウンティングすること、ミソジニーとホモソーシャル、幇間的なものを善しとすること、家族主義、反人間主義、非合理主義的精神論、これらもろもろは日本固有のものではなく、東アジア全般に共通する根を持っている。平成天皇と金正恩と周近平の違いは、堯舜と桀紂と並の皇帝の違いのようなもので、存在の根は変わらない。
 日本の封建制をめぐる講座派と労農派の論争の盲点は、それが日本だけの問題として表象されたことにある。それはむしろ朝鮮、中国を含む漢字文化圏全体の問題であり、そう考えれば、東アジア全体が未だに封建制から脱していないことが見えて来る。天皇制の問題は、東アジア全体の問題の中の一つとして考えられなければならない。私が「東アジア同時革命」という概念を考えるのはこの文脈においてである。絓の『「帝国」の文学』は以前触れたように名著ではあるが、「父殺し」を問題にしながら、大逆事件と同時平行的に起きた韓国併合というもう一つの「父殺し」を視野に入れ損ねているという盲点を抱え込んでもいる。前近代において、中国や朝鮮は、日本に対して「父」あるいは「兄」として振る舞ってきた(日本側がそれを必ずしも認めなかったとしても)。近代において日本は「脱亜」し、中国や朝鮮を殺したのだが、その時日本は中国や朝鮮が「父」「兄」だったということ自体を「否認」したために、それは「父殺し」として意識されなかった。この「否認」は現在まで持続している。大逆事件と韓国併合は「父殺し」という問題系において一体的に考えられなければならない。
 もちろん中韓が日本の「父」あるいは「兄」であったというのも、儒教的倒錯である。そのような長幼の序列や家族的比喩は根源的に破壊されなければならない。それが現実的にいかに可能かは問わない。今はとにかく原理的に考えたい。

アファナシエフのハイドン

 以前のブログ記事「パンダと無意識」 で、ピアニストのアファナシエフについて「ハイドンをやりそうな感じはないので、あまり関心が持てない」と書いたのだが、そのアファナシエフがハイドンを録音したというので、手のひらを早速ひるがえして買ってみた。 「テスタメント」(遺言)と題されたそのボックスセットは、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ビゼー・フランク・ドビュッシー、プロコフィエフにそれぞれ一枚づつ捧げたボックスセットで、国内盤で高価である。私はふだんはなるべく安い輸入盤を買うようにしているが、このセットは日本発なので、日本盤を買うしかない。否定的なことを書いた罪亡ぼし的な意味もこめて、値段には目をつぶって買った。
 アファナシエフと言えばスローテンポがトレードマークであり、ハイドンではどうなるかと期待していたが、収録された三曲(ホーボーケン番号で二〇番、二三番、四四番)の中、際立って遅かったのは二〇番の第一楽章のみで、後は遅めではあるが予想ほどではなかった。そして軽くて明るいタッチのおかげで、停滞感がないのはさすがだと思った。録音は跫音が少し濁る代りに弱音が情報量豊かに入っていて、ハイドンには適していた。繰り返しをすべて行っても装飾などは入れず、基本的に楽譜に忠実なのも良かった。
 アファナシエフは、もはや「巨匠」ピアニストという存在がアナクロ以外の何ものでもなくなった現代において、なおも「巨匠」として振る舞おうとし、そして幸運にも日本でスポンサーを見つけることができた人と言える。ボックスセットのライナーノートに収録されたアファナシエフ自身のエッセイは、まさに化石みたいなロマン主義的感想文で、虚仮威し感満載の吉増剛造の詩も相俟って、滑稽ですらあるのだが、それとは無関係に、音楽は純粋無垢な素直さで心を打つ。特に二〇番の第一楽章は、一度はこういうゆっくりしたテンポで聞いてみたいと思っていたので、非常に満足した。グールドはハイドンの四八番の第一楽章を、音楽を解体するような遅さで弾いたが、アファナシエフの場合は音楽は遅くてもしっかりとその構築性を保ち続けている。それが限界だと言う向きもあるかもしれないが、これはこれで良いものである。深さを拒絶した表層の戯れとして美しい二三番のアダージョ、すすり泣きをこらえながら一人で帰るような四四番の第一楽章、虚無に向けてゆったりと舞って見せる第二楽章も絶品だ。アファナシエフにとってハイドンは、ベートーヴェンやシューベルトほど重要な作曲家ではないだろうが、それでもあと一枚、四六番変イ長調、四九番変ホ長調、五二番変ホ長調、そしてヘ短調の変奏曲を入れたCDを聴いてみたい。特に五二番の第一楽章を、二〇番のように遅いテンポで、休符に意味と無意味を込めてブルックナーのように弾いたら、さぞ素晴らしいだろうと想像しただけでわくわくする。ハイドン以外ではシューマンが良かった。特に作品111の終楽章の弱音部の口ごもるような感じが味わい深い。
 そう言えばアファナシエフはマーラーの10番は第一楽章だけで十分だと吉増剛造との対談で言っていたが、そのマーラーの10番全曲版の室内オーケストラ版(ミケーレ・カステレッティによる補完編曲版)のCD新譜(ヨン・ストゥールゴールズ指揮ラップランド室内管弦楽団)が出た。オリジナルなき編曲とも言えるが、クック版が白く単色的な幽玄の響きなのに対して、室内オーケストラ版は、もっと色彩的でマーラーらしい耽美が濃くなったように感じられる。クラスター和音にそれほど迫力はないが、私の好きな最終楽章の後半部分、クック版では弦楽合奏で重厚に主題が再現される部分が、室内オーケストラ版ではピアノの上昇音階が加わって違う味わいを見せているのが感動的だった。私は、ハイドン以外で特に好きな音楽がマーラーの10番とビーバーのロザリオのソナタなのだが(どちらもとても「厨二病」的な格好良さを持つ)、両者は多彩な編曲可能性を潜在的に持ちながら、また十分にその可能性が極められていない憾みがある。とりわけマーラーは、未完の作品を完成させるという観念に縛られないで自由な発想で編曲したらもっと面白い演奏ができるのではないか。
 カステレッティは、シェーンベルクによるマーラーの第4交響曲の編曲を参考にしたというが、おとといそのシェーンベルクの「グレの歌」をカンブルラン指揮の読響で聴いた。爛熟の極みと言えるオーケストレーションと第三部の合唱に圧倒された一方、物語の内容の男性中心主義にはちょっと引くものを感じた。マーラーの10番は、妻に裏切られても何もできない夫の絶望の叫びのような身も蓋もない弱さが魅力だが、「グレの歌」は浮気相手を妻に殺された夫のヒステリーが中心で、妻は言葉を与えられず、夫の身勝手なエゴイズムだけがむき出しに表現主義的に吐き出される。語弊を恐れずに言えば、シェーンベルクはマーラーよりずっとマッチョな作曲家に感じられる。。
(3月25日付記)この記事について、「大杉重男さんのアファナシエフのハイドンについてのブログを読み、そういえば、ザラフィアンツもハイドンの同曲を録音していて、少し聴きなおした。ザラフィアンツの方が遅い部分もあり、アファナシエフのように軽みがない、深い音色でこれはこれで類例のない演奏」(まさかな)という反応があったのを目にして、ザラフィアンツのハイドンの20番、44番のCDを取り寄せて聴いてみたが、確かにその通りだと思った。繰り返しはないが、ザラフィアンツは更に遅く、深くて、音も良く、アファナシエフより私の好みだった。良いCDを教えてもらうと、ブログをやって良かった気になる。

漱石神話の現在

 漱石神話という言葉は、現在の漱石観を示すものとしては一般には使われていないかもしれない。通常江藤淳の『夏目漱石』が小宮豊隆の「則天去私」的漱石像を打破して以来漱石神話は消滅し、漱石は脱神話化されたということになっている節がある。漱石を私たちが礼賛するのは、神話ではなく真実だからだというわけである。しかし私は漱石神話は様々な形で継続し続けていると考える。少なくともそれが神話ではなく真実だと言うに値するほどの知的労働が、漱石の価値測定に払われている形跡はない。
 最近読んだ岡崎乾二郞『抽象の力』における漱石の強引な使い方は、漱石神話の(少なくとも1980年代以来の)不変の機能ぶりを前提としないと私には理解できない。美術・建築に疎いので分からないが、私の読んだ限りこの本が目指しているのは近代日本の抽象芸術が西欧の影響下に従属していたのではなく、それなりに自立的で内在的な必然性によって展開したという歴史観を構築することであると思われる。そのための理論的バックボーンとして、漱石の『文学論』の「F+f」図式が召喚される。すなわち岡崎氏が日本の抽象芸術の原点に置こうとする熊谷守一の発想に漱石の影響があるというのが、本書の中心的発想である。
 しかしなぜ「F+f」図式なのか。それが分からない。本書では熊谷やその他の芸術家に対する漱石の影響関係が、具体的に説明されることなくアプリオリの前提になってしまっている。たとえば岡崎氏は「一九〇三年にロンドンから帰国し、数年後には発表されはじめた夏目漱石の仕事は、若い芸術家たちの芸術理解を大きく変更するほどの影響力を持った」と書くが、その根拠を何も示さない。漱石が東京美術学校に行って「文芸の哲学的基礎」を講演したことが強調されるが、この講演を具体的に誰が聞いてどのような影響を受けたのかが書かれていない(私が美術史に無知なだけで有名なことなのかもしれないが、少なくとも非常に不親切な書き方である)。熊谷は一九〇三年に轢死事件を目撃したことがきっかけになって数年にわたって《轢死》制作に携わり、その噂を漱石が聞いて『三四郎』の轢死場面を書いたというのだが、当時「轢死」と言えば『三四郎』の前年に書かれた国木田独歩「窮死」をまず思い浮かべるべきではないだろうか(後に芥川が『河童』の中で独歩を「轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人」と呼んでいる)。同年の田山花袋の「少女病」の主人公も轢死する。
 岡崎氏の視野に、漱石と同時代で最も影響力のあった自然主義文学がまったく視野に入っていないのは、実に「批評空間」的風景と言える。それは「読み終えたとき、あなたと世界は完全に更新されているだろう」という浅田彰の帯の言葉が冗談にしか読めない既視感である。 熊谷の《轢死》は一九〇八年の文展で出品拒否をされるが、その時の黒田清輝の「あんな畫は、何処の國でも、又何時の時代でも、公設の展覧会では屹度はねることになつてゐる」という言葉が示すのは、むしろ熊谷の絵が自然主義的な「露骨なる描写」であったことを示すのではないか。熊谷の絵の暗さも漱石的というよりは自然主義的に感じられる。岡崎氏は漱石の『草枕』を重視するが、『草枕』の芸術論は、fを欠いたFにf(憐れ)を回帰させようする反抽象主義的なものに私には見える。むしろ自然主義こそ無理想無解決においてFとfを分解し、抽象への道を開いたと言うべきではないか。岡崎氏の本は、美術の門外漢にとっては啓蒙的で勉強になるのだが、漱石が出てくるたびに突っ込みたくなる部分が多い。私の偏見かもしれないが、漱石が江戸時代の国学を受け継ぎ、時枝理論を先取りしていたとまで行くと、ついて行けないと思わざるを得ない。
 漱石の周りにはいつも曰く言いがたいオーラが取り巻いていて、それが漱石の客観的認識を妨げ続けている。同じ時期に読んだ奥泉光編集のムック本『夏目漱石 増補新版』の冒頭の座談会(奥泉・高橋源一郎・斉藤美奈子)を読むと、奥泉・高橋はもう漱石教の幹部だから仕方ないとしても、斉藤のような人でも漱石を前にすると批評を放棄してしまうのだと考えさせられる。斉藤氏は「漱石ほど有名で漱石ほど読まれない人はいないよね」と言い「高校の教科書に載ったせいで」「漱石はすごく損をしている」と言うが、そんなに教科書に載るのが迷惑なら「こころ」の代りに「蒲団」を教科書に載せた方が、セクハラ教育にもなって良いだろう。
 小森陽一の新刊『戦争の時代と夏目漱石』もかなり神がかった本である。『満韓ところどころ』を扱っているのだが、そこから漱石の日本帝国主義に対する批判意識だけを読み取り、安倍政権批判に接続する。この本が不誠実だと思うのは、「韓満所感」について触れながら「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という漱石の発言について、何も触れていないことである。漱石が小森氏の描き出すような批判的な人間なら、この発言はそれと明確に矛盾している。しかし小森氏はこの矛盾に目を塞ぎ、あたかも漱石がそんなことを書かなかったかのように論を進める。これでは安倍政権を批判できない。むしろ安倍政権をネット右翼より強力に応援することになるだろう。
 デリダは『共産党宣言』の冒頭のくだりを解釈することで一冊の本を書いた。日本にデリダ的な知性がいるなら、「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という一行の解釈だけで一冊の本を書いているだろう。実際今こそそのような本が必要なのではないか。この一行が含むあらゆる事実確認的・行為遂行的な帰結を検証し、その哲学的・思想的・文学的な含意を汲み尽して新たな地平を展開するような本。しかしこの発言が周知されて何年も経つのに、そのような本が書かれる気配はまったくない。それは日本にデリダ的な知性がいないという当たり前すぎる現実を示している。いるのは「ヘイトに対するヘイト」に取り付かれたヒステリー者だけである。

「父殺し」と「友愛」

 年末に金沢の徳田秋聲記念館に立ち寄って真山青果生誕140年記念「『檻(おり)』―真山青果との友情」展を見て来た。『文豪とアルケミスト』のおかげで俄に脚光を浴びた感のある秋聲だが、この企画展は流行に流されない気骨の感じられるものだった。
 徳田秋聲と真山青果と言えば、私が真っ先に思い浮べるのは絓秀実『「帝国」の文学』である。2002年に刊行されたこの本は、現在までのところ自然主義文学全体に対するまとまった批評的・理論的論考の最後の本である。これ以後文芸批評自体が思想的自立性を失って内輪向けに幇間化し、近代文学について考えることと現在について考えることとのつながりは見えなくなったが、問題は依然として宙づりのまま残っている。
 その第五章「「父殺し」の二つの型」は秋聲を専ら扱っているのだが、前振りに真山青果が使われていて、秋聲の『黴』の先行テキストとして青果の「枝」が論じられるのは創見と言える。絓氏は日本自然主義文学を総体として「父殺し」の文学としてとらえ、その場合の「父殺し」とは、二種類あると指摘する。すなわち「現実的」な「父殺し」と「想像的」な「父殺し」である。前者は「生ける父を殺すことによって、その地位を簒奪しようとする」のに対して、後者は「父はすでに死んでいるがゆえに、自らその「父殺し」の罪を引き受けようとする」ことと定義される。前者の「父殺し」を遂行したのが田山花袋であり、後者の「父殺し」を遂行したのが青果であって、秋聲は青果から「父殺し」を学んで『黴』を書いたというのが絓氏の見立てである。
 この絓氏の論は、秋聲論として、また自然主義文学論、近代文学論として多くの論点を提示している。ただ惜しまれるのは、絓氏が「枝」と『黴』を直接比較していて、「枝」に対する秋聲の直接的応答であると言える「檻」を参照した形跡がないということである。これは「檻」が従来ほとんど注目されたことのない作品だった以上仕方のないことであり、絓氏が先行論として意識していたと思われる平野謙(『明治文学全集 70 真山青果集 近松秋江集』の編者であり、解題の中で「枝」について詳しく批評している)も、「檻」を読んだ様子がない(読んでいれば言及したはずである)。だが「檻」は「枝」と対となる小説であり、そして両者を読み合せると、絓氏の論をもっと発展させる可能性が見えて来ると私は思う。
 「檻」は、物語内容的には、「枝」に続く内容を持った短篇である。秋聲は1908年9月15日、青果に誘われ国府津に一泊後、湯河原に旅行する。そして同年11月『新潮』に青果と共作で「湯河原日記」を出す。これは15日・16日が秋聲、17~19日が青果の執筆である。それは文語体による文字通りの簡潔な旅日記だったが、翌1909年4月青果は『中央公論』に「枝」を発表し、さらにその翌1910年4月秋聲は『早稲田文学』に「檻」を発表する。内容的に「枝」と「檻」は、「湯河原日記」を小説的な次元で書き直した共作とみることができる。
 すなわち「枝」の主人公は、青果をモデルとした岸田という小説家である。岸田はかねてから憧れていた死の床に伏す作家(国木田独歩がモデル)の病院に通って看病し、その通夜の席で酒を飲んで暴れ顰蹙を買う。友達のいない岸田のほとんど唯一の友は清水(秋聲がモデル)であり、清水は岸田の才能を高く評価し、いつも優しく励ます。その岸田に立見という美青年が弟子入りしたいと田舎から上京し。最初はとまどっていた岸田は次第に受け入れるようになる。ある時立見は突然いなくなり、岸田はショックを受けるが、戻ってきた立見から両親に岸田への弟子入りを許してもらうために帰省していたのだと告げられ安心する。そして岸田は立見と清水を誘い、亡き独歩がモデルの作家にゆかりの国府津に泊まった後、湯河原に逗留するが、二人とも仕事を多く抱えていたにもかかわらず何も書けない。
 「枝」を読んで印象的なのは、「餓えた人のやうに激し」い「岸田の友を求める心」である。岸田はその傍若無人な振舞いのために師である木澤(小栗風葉がモデル)や友人の峰岡と疎遠になり、清水と立見だけが岸田の友愛に応えてくれたように描かれている。そしてこの岸田の友愛は、同性愛的なイメージがまとわりついていることでも特異である。すなわち立見を連れ歩く岸田は「岸田、君は非常な美少年を連れて歩いて居るツてぢやないか。オスカア・ワイルドだツて評判あるぜ」とからかわれ、清水は「細く顫えのある、優しい女のやうな声」をしていて、岸田と温泉に入った時には「湯の中の手足は恐ろしく美しく見える」と描写される。
 他方、秋聲が「檻」で描く青果との友愛は、応答と応答拒否の間で揺れ動くもっと複雑な様相を示している。「檻」は、「東京から△△雑誌のN氏が遊び旁々原稿取りに来るまで、岡辺も林も一筆も筆を取らなかつた」と、時系列的には「枝」の続篇のように始まるが、そこに描かれる秋聲から見た人間模様は「枝」とは反対の印象を与える。すなわちそこでは「枝」の立見に当たる書生は影が薄くすぐに帰されて姿を消し、岡辺(青果)は温泉宿の娘に恋愛遊戯を仕掛ける。林(秋聲)はそれに巻き込まれるのを警戒するが、岡辺(青果)とは文壇の交友関係をめぐり何かにつけて口論になる。やがて林は東京に帰ろうとするが、岡辺に強く引き留められ、それを拒否すると絶交状を送られる。しかし林が本当に帰る際には、宿代を割勘にして岡辺も一緒に帰る。
 ここに示されているのは、言わば「父殺し」をした友にどこまで忠実でありうるのかという主題である。「父殺し」という概念は、フロイト的に考えると二重の意味を持っている。一つはいわゆるエディプス的な「父殺し」である。そこでは子は父を殺して母と交わり、その罰として失明し、盲目となって去勢される。もう一つはモーセ的な「父殺し」であり、そこでは息子たちが共同で「原父」を殺し、「原父」が独占していた女たちを共有する。前者はギリシア的「父殺し」、後者はヘブライ的「父殺し」と言えるが、両者は複雑に絡み合っていて、「父殺し」と「友愛」をめぐる問題系を形作っている。「友愛」は「父殺し」に起源を持つが、同時に「父殺し」をした者は「友」を失い孤立する。
 「枝」において青果が、秋聲や書生との間に結ぼうと欲望するのは、「我々を子に産んだ人々は不幸ですな」という親不孝の原罪によって結ばれた共犯者たちの友愛の共同体である。この原罪は現実的には専ら母親を不幸にしていることに対するものであるが、それは父が既に死んでいるからである。「枝」によれば青果は自分は稼いだ金で遊びながら、貧窮している母親に仕送りをせず、実家を顧みなかった。19歳の時に父を亡くした青果は長男として家を守るべき立場だったにもかかわらず、その役割を放棄した。
 これに対して「檻」で秋聲は、青果の友愛の押しつけに反発し抵抗しながらも、完全には拒否できないものを感じていることを書いている。「檻」には次のような記述がある。「けれど林は、然う自分ばかり潔白がつてゐる理由はないと思つた。近頃は殊に美しい処ばかり見せては居られなくなつた。自分の性格の痕つけて来たところを振顧つて見ると、浅猿しいことも卑しい処もあつた。自分で情なくも思つた。岡辺なぞも其全人格を無忌憚に暴露してゐるに過ぎないやうな気もした。自分のやうな善意を持つた人間が、必ずしも愧ずべき事を働かぬとは、保証できなくなつた」。
 これは岡辺=青果が代作を開き直って肯定することに対しての林=秋聲の感想だが、青果を鏡として秋聲は自分もまた「潔白」ではないことを自覚して行く。それでも青果と自分が完全に同類であるとは認めたくない秋聲は「けど、それには程度がある。根本の意志に相違がある」と抵抗するが、青果に「五十歩百歩ぢやありませんか」と言われるとそれ以上言い返せない。
 そして「黴」は、「自分のやうな善意を持つた人間が、必ずしも愧ずべき事を働かぬとは、保証できなくなつた」というこの「檻」の認識の上に立って、自分のした「愧ずべき事」を徹底的に描いた物語である。すなわち「檻」では岡辺から宿の女中との恋愛遊戯に誘われた林は「罠」を感じてそれをクールにスルーしたが、「黴」の主人公笹村(秋聲がモデル)は、親友の深山(三島霜川がモデル)の知合いで手伝いに来たお銀に手を出ししまい、子供を認知し入籍する。その間笹村はM先生(尾崎紅葉がモデル)の代作を務めて生活費を稼いだことが描かれ(はっきりと代作と書かれているわけではないが「己もまだ先方から受け取らんのだから」というM先生の言葉から推測できる)、また人目をはばかる女性と同棲生活を送り(「奥には媚なまめいた女の声などが聞えていた」という言葉で暗示されている)、創作意欲も盛んな同輩のI(泉鏡花がモデル)の姿も書き込まれている。「黴」は紅葉に対する「父殺し」の物語であると言えるが、それは一人ではなく複数の「子」らによるものである。鏡花が「黴」に激怒して秋聲と絶交したことは良く知られているが、その理由は単に紅葉に対して秋聲が「不敬」であるというだけではなく、紅葉を崇拝していた鏡花をも紅葉に対する「父殺し」の共犯者としてさりげなく暴露していることにあるように見える。秋聲は生涯鏡花の「紅葉殺し」を繰り返し証言(告発ではない。秋聲もまた共犯者だったのだから)している(最後の短篇「喰はれた芸術」は鏡花の紅葉未亡人に対する冷淡さを描くと同時に自分も夫人とは気楽に付き合えない気持ちを告白する)。鏡花の「紅葉殺し」が意味するのは、いわゆる「反自然主義文学」としてカテゴライズされる文学もまた、「父殺し」=過去との断絶なしには成立しなかったということである。
 「枝」を書いた青果は、間もなく二度目の原稿二重売り事件を起こし、小説を止めて新派劇の座付き作家に転身して成功する。「枝」の主人公は書くことに何の困難も感ぜず「小説を書く事ほど楽な仕事は恐らく有るまい」と考えているが、青果が小説家を続けられなかったのは、まさに「書く事が楽である」ためだったように見える。青果は「父殺し」をしたことの自覚が希薄で、自身が盲目であること自体に対して盲目だった。他方「常に窮々と苦しがつて、短い短篇一つ書くにさへ病気しそうだと云つてゐた」と書かれた秋聲は、「父殺し」の後の盲目の中で書くことの困難さに突き当たっていたからこそ、書き続けることができた。秋聲記念館の企画展には、大正半ばになって秋聲が書いた新聞小説『誘惑』を青果が新派劇にして大好評だったことが解説されていたが、秋聲が楽に書き飛ばすことに転向し通俗小説の濫作に向かって行くことの契機に青果が関わっていることは面白い。
 とはいえ「檻」や「黴」に見られるような「父殺し」の共犯者かつ証言者としての秋聲の位相は、その後「大正」の終焉においても反復されている。すなわち山田順子との恋愛関係を描いた一連の順子物の一篇「春来る」では、主人公融の恋人愛子の痔の治療を、大正天皇の侍医の一人であるK博士が行う。そして愛子の痔が無事治癒するのに対して、大正天皇は死ぬ。K博士は下心のある愛子の痔の治療には熱心なのに(実際博士のモデルとなった八代豊雄は誘惑されてこの後順子を一時愛人にする)大正天皇の病を治すことにはあまり関心がなさそうだという意味で「大逆」的な存在とも言えるが、作品に「大逆」的な緊張感は全くなく不謹慎に大葬の噂をする博士は喜劇的に描かれる。それは大正天皇が身体的に死ぬ以前に、既に存在感的にとっくに死んでいる状態だったからであると考えられる。この「大正」の終焉の白々しい抽象性は、現在の「平成」の終焉と比較したくなる。ただし病める天皇を皇太子が「摂政」として補助した「大正」時代が実際に終焉する以前に終焉していたとすれば、「平成」は逆に形式的に終焉しても実質的にはすぐには終焉しないのであり、次の元号の時代は病める皇后を抱える頼りない天皇を上皇が「院政」的に補助することから始まりそうである。
(2月5日付記)湯河原は幸徳秋水と菅野すがが検挙された地でもある。『「帝国」の文学』は大逆事件を花袋的な「父殺し」の極限形態としつつ、「幸徳と菅野もまた、そこで「湯につかりすぎて熱病を患った」(『黴』)ごとく、「大逆」事件にまきこまれることになるのだ」と指摘する。「檻」において、秋聲は、執拗に湯河原に引き留めようとする青果を振り切って東京に帰ることで、「湯につかりすぎ」ることを回避し、「父殺し」がもたらす破局を回避したのかもしれない。
 また「黴」における秋聲や鏡花らによる「父殺し」が意味するのは、「自然主義」と「反自然主義」の共犯者的関係だが、それがまさに「父殺し」であるが故に、「自然主義」と「反自然主義」とは「友愛」関係を結ぶことができないのだと言える。「反自然主義」は自分の「潔白」を信じようとし、「自然主義」は「五十歩百歩」だと冷笑する。

「漱石への絵はがき」再再考

 亀井さんから前回記事に対して、ツイート上で更にコメントがあった。秋聲や漱石の心の中について、後世の人間は想像できるだけで実証できない以上もうこれ以上は水掛け論にしかならないと思うのだが、私にとって迷宮をさまようような面白いテーマなので、亀井さんに対してというよりは、私自身への覚え書きとして、追記しておく。
 まず亀井さんは、秋聲が漱石を試したかもしれないという私の推測の「試す」という言い方に強い嫌悪感を示されているが、私はなぜそれが問題なのか分らない。「人間を知るといふ上において、さうした作物は私の参考になる」と言われたら本気かどうか試したくなっても別におかしくはない。それに私は、秋聲が漱石から何か具体的な反応があると期待していたとは思わない。連載中の「奔流」に対して漱石の理解が深まってくれる(その結果『朝日新聞』からの風当たりが良くなる)かもしれないというぐらいの期待はあったかもしれないが、漱石の今後の秋聲に対する態度全体が、間接的な答えということになる。そして結果的に『あらくれ』が漱石の文学観を洗い出す試金石になったのは確かである。秋聲の意図があったにしろなかったにしろ、それとは無関係に『あらくれ』という作品そのものによって漱石は試されたのだと私は思う。
 また亀井さんは、急いでいた漱石が『あらくれ』の献本を秋聲に依頼したという仮説を立て(急いでいたとすれば「文壇のこのごろ」に間に合わせるためということになる)、にもかかわらず漱石が『あらくれ』を批判したことについては、「漱石は、文学上の立場の違いと、社交上の礼儀とは別と考えていたふしがあり」、「送ってもらった本を批判することはありうる」と述べているが、私には違和感がある。そもそも「奔流」をめぐる手紙のやりとりからしても、漱石は自発的に『あらくれ』に興味を持ちそうにないし、読んだら批判することななるだろうことは、漱石自身最初から予想ができたのではないか。最初から批判するつもりの本を、著者にただで送らせた上で予定通り批判するというのは、それこそ嫌みである(実際「文壇のこのごろ」には、秋聲を引き立て役にして武者小路と志賀を文壇的に持ち上げる漱石の戦略的な意図があったように私には見える)。私のイメージする漱石は金の貸し借りに厳格な人であり、借りっぱなしにして平気なのは、本当に信頼できる友(中村是公みたいな)に限られているというものである。無償でもらった『あらくれ』を遠慮なく批判できたとすれば、それだけ秋聲を信じていたということになるのだろうか。そう考えるぐらいならむしろ、漱石が自分で『あらくれ』を買ったという、以前私が挙げたもう一つの可能性を改めて採用した方が良い気がする。その場合は漱石は批判するつもりで『あらくれ』を買い、買ったことを秋聲に何らかの手段で伝え、秋聲はそれに対する応答として絵はがきを出したということになる。ただ私はその可能性よりは、秋聲が自発的に漱石に献本し、たまたま白樺派をフィーチャーすべく「文壇のこのごろ」のインタヴューを受けようとしていた漱石の餌食になったという可能性の方がありそうな気がする。
 それから漱石が『道草』を秋聲に贈った理由を、私は亀井さんのように「社交上の礼儀」とは思わない。漱石は『黴』を高く評価しており、『道草』が『黴』を意識していたという指摘は既になされている。秋聲に『黴』の続篇を書くことを期待していた漱石は、改めてその希望(家庭の問題に直面する家父長の苦悩をテーマに書くこと)を『道草』に託して伝えたのではないか。あるいは『黴』のテーマを自分はもっと「哲学的」に考えて乗り越えた(『黴』と『道草』を比較してそのように評価する人もいる)という文学的勝利宣言かもしれない。亀井さんは漱石と秋聲との間の「文学上の立場の違い」(反自然主義と自然主義?)をかなり固定的に考えていらっしゃるように見えるが、私はそれは流動的な可塑性をはらむものだったと思っている(秋聲は『湯河原日記』で漱石の『三四郎』を褒めている)。そしてそれが決定的に固定化する契機となったのが、まさに『あらくれ』と『奔流』をめぐる秋聲と漱石の暗闘だったのだというのが、今の私の仮説である。
 亀井さんは「漱石が『吾輩は猫である』や『坊つちやん』で一躍人気作家となったのは明治38年~39年。その頃の秋聲は、まだ翻案ものを量産していて、『新世帯』で新境地を開いたのが明治41年」として、秋聲よりも漱石が文壇的に先行していたように言うが、「職業作家」として見れば、明治二十九年に「藪かうじ」で文壇に登場した秋聲は、明治四十年に朝日新聞に入社して「職業作家」となった漱石に十年先行している。秋聲は曲がりなりにも紅葉門下の四天王の一人であり、現在から見た文学的価値はともかく『雲のゆくへ』『春光』『少華族』などそれなりにオリジナルな作品を書いてもいる。秋聲にとって尾崎紅葉は師であり先輩と言えるだろうが、漱石のことは(後から来たのに追い越されたとは思っても)先輩作家とは考えていないと私は思う。亀井さんは先輩への「礼儀」にやかましいけれど、秋聲はそこまで礼儀正しいわけではないし(むしろ紅葉への無礼において鏡花に殴られた)、献本における献辞の有無にそんなにこだわっていたとも思えない。秋聲は紅葉に対してそうであったように、他の作家に対しても同様に対等の態度を取り続けていたと考える。
 私は、作家の内面や心理を実体的に明らかにできるとは思っていない。私はあくまでもその現実的な結果としての作品や書簡などの文字テクストから類推的に可能性を考えるだけである。そしてその可能性は一つではなく、矛盾を含みつつ複数ありうる。どの可能性を言及するかには、むしろ論者自身の文学観・思想が出てくるのだろう。
 去年出版された長谷川郁夫『編集者 漱石』では、「私はそんな腕のある~喜んで拝見したい」という漱石の言葉について、「立場の異なる作家としての本音でもあったが、秋聲の自尊心を擽ったことだろう。だが、その半分は編集者たる漱石の言であることに秋聲が気づいたかどうかは判らない」という解釈がなされている。「編集者たる漱石の言」とは要するに営業トーク、社交辞令ということであり、漱石は秋聲のご機嫌を取るためにわざと「人間を知るといふ上において、さうした作物は私の参考になる」といった媚びるようなことを言ったというのが長谷川氏の解釈である。「秋聲が気づいたかどうかは判らない」とは曖昧な言い方だが、文脈的には気づかなかった可能性の方に長谷川氏はウェイトを置いているように読める。そしてこの解釈に乗っかって考え直すなら、秋聲が漱石に『あらくれ』を贈ったのは、漱石のお世辞を真に受けて、漱石が興味を持つのではと思って贈ったという可能性も考えられる。そうだとすれば、一転して本音むき出しの「文壇のこのごろ」を読んだ秋聲のショックはより大きなものとして想像できる。もちろんこれも可能性の一つに過ぎない。漱石の没後、秋聲は漱石の「社交的美徳」を想起する一方「人道的徳義」を疑う発言をしたが(「書斎の人」)、それは『奔流』と『あらくれ』をめぐる漱石との具体的な交渉の経験に基づく発言であって、一般論的な「文学上の立場の違い」(それは後から文学史家によって見出された)には還元できないと私は考える。
 亀井さんは「今回大杉さんがお書きになった推論に殆ど同意出来なかったのは残念」とおっしゃっているが、以前は否定的だった秋聲が『あらくれ』を漱石に献本した可能性を認めてくださっただけで十分報われている。また「私のような者のツイートに対して、一文を費す労を敢てして下さったことに、深く感謝致します」ともおっしゃっているが、亀井さんがどのような方なのか私は知らない。プライヴェートの匿名的情報は多いが、パブリックな情報はない。亀井=仮名ではないかと考えたこともある。もちろん公的プロフィールを明かせと求めているわけではなく、曖昧なままの方が良いのかもしれない。そのマニアックな実証的で書誌的なつぶやきはいつも勉強させてもらい楽しませてもらっている。ともあれ私のささやかな思考訓練に付き合ってくださったことに私からも感謝したい。

「漱石への絵はがき」再考

前回の記事の質問に亀井麻美さんからツイートで早速返事があった。結婚直前のお忙しい時に(おめでとうございます)余計な時間を使わせてしまって申し訳ない。時系列を詳細に比較しての考証は説得力がある。今回は「秋聲が漱石に献本した可能性」に肯定的な結果となったので、ほっとした。
 ただ献本の経緯については、やはり私と亀井さんとでは解釈が違う。亀井さんは「秋聲から進んで献本したのではなく漱石から送ってくれと言ってきたのだろう」と推測されているが、もしそうであれば、なぜ漱石はそのような依頼をしたのか。「初めから書評を書く心積」があったのではないかという考察もされているが、漱石が『あらくれ』について実際にコメントした森田草平による談話筆記「文壇のこのごろ」では有名な「フィロソフィーがない」という言葉を始め、突っ込んだ批判が展開されている。自分から献本させたのだとすれば、そのことには触れずここまで言うのは、いくら「年長の作家」(亀井さんは「年長作家への礼儀」ということもおっしゃっているが、秋聲にとって漱石は「年長作家」ではあっても「先輩作家」ではない。文壇的にはむしろ秋聲の方が「先輩」である)とはいえ、かなり失礼な話ではないだろうか。それとも漱石はそれだけ秋聲を下に見ていたということなのか。
 私は、秋聲がやはり自発的に献本したのだと考える。出版社経由で献本して、リスペクトを示す手紙や献辞を付けなかったのは、『奔流』連載に先立つ交渉の際の漱石の手紙にわだかまりがあったからではないか。手紙の中で漱石は「私はそんな腕のある女の生涯などを知りません、又書かうと思つても書けません、人間を知るといふ上において、さうした作物は私の参考になるんだから喜んで拝見したい」と書いている。秋聲は『あらくれ』を漱石に贈ることによって、「人間を知るといふ上において、さうした作物は私の参考になる」という漱石の上から目線にも感じられる言葉が本気なのか、社交辞令なのか試したのではないだろうか。そして案の定「文壇のこのごろ」を見る限り、漱石にとって『あらくれ』は全く「参考」にならなかったようだ(「御尤も」とは思っても「御蔭様で」とは思えなかった)。
 もちろん資料が不足しているので、この件で実証的に決定的な断言はできない。秋聲の献本に対して漱石が岡栄一郎あたりに伝言して礼を間接的に伝え、それへの応答として漱石への絵はがき(「「あらくれ」は迚もおよみになるやうな代物ぢやありませんが、おひまがございましたら、ごらん下さいまし」)が書かれた可能性もあるかもしれない。いずれにしろ私は、秋聲は受動的に見えて、文学に対し常に非常にパフォーマティヴな作家であると思っていて、そのパフォーマンスの運動性を最大限の可能性において読み取り、そこに内在する「フィロソフィー」について考えてみたいと考えている。

小谷野敦『近松秋江伝』

 小谷野敦の『近松秋江伝』が出た。私は以前WanderingBooksという首都大学出身の学生たちが運営していた書評サイト(今は閉鎖)で、小谷野氏の『川端康成伝』をほめ、次は近松秋江伝を書いてほしいと要望したら、氏からツイッターで書くつもりがないような反応があり、がっかりして、「小谷野が近松秋江伝を書くはずがない。小谷野は夏目漱石から谷崎潤一郎を経て大江健三郎に至る、きわめてオーソドックスな保守的文学史に依拠した批評家であるのだ」とこのブログの記事「小谷野敦と大澤聡の新著」(2015-05-03)で書いたことがあった。しかしその後氏は思い直したのか(後書きにあるように亀井麻美さんの力が大きいのかもしれない)、遂に秋江伝が書かれることになったのはめでたい限りである。
 小谷野氏と言えば、実は私は昔新潮新人賞の下読みのバイトをしていた時、氏の「あるストーカーの記録」(告白だったかもしれない、よく覚えていない)と題する投稿原稿を読んだ記憶がある。エゴ丸出しの素っ気ない文章であまり面白くなかったが、主人公が主人公を嫌がる同級の院生を留学先まで追いかけて行き、彼女の部屋にたどり着くところは近松秋江みたいだと思い、一応一次は通過させた。たぶん『非望』という小説(こちらはまだ読んでいない)の原型だろうと思う。
 その記憶もあって私が小谷野氏に秋江伝を期待したのは、ストーカーの存在論のようなものがそこに展開されることだったが、『近松秋江伝』はむしろ職人的に書かれた非常にオーソドックスな伝記である。淡々とすべての事実が等価値に並列されていて、少し遠くから秋江を突き放して眺める感じが、平面描写の小説を読んでいるようなところがあるのは少し物足りない。分量の問題もあるのだろうが、コンパクトにまとまっていて、秋江作品をある程度読んでいる人向けと言えるかもしれない。実際氏の秋江伝の本領は、『黒髪』の後、秋江が結婚して子供二人を儲けて家庭を守り始めると共に少しづつ文壇から疎外されて行く後半生を手際良くまとめたところにある。いずれにしろ全体的には秋江の初めての本格的評伝であり、本の出にくい現在において、その意義は大きい。秋江が女を追いかけて木橋(恭仁大橋だと思う。以前私は行ってみたことがあるが、もう鉄橋になっていたものの、寂れた雰囲気はそのままで「山又山が重畳している気勢」は感じられた)のたもとで荷車に乗るかどうか迷うところで「ランスロの荷車」を連想しているのは、特に興味深い創見と言える。
 ただこの本について私が望蜀の思いを特に持ったのは、徳田秋聲との関係についての記述に対してである。秋聲の名前は登場頻度は多いのだが、秋聲との関係はそこからなかなかはっきり浮かび上って来ない。小谷野氏は秋聲にそれほど関心はないのだろうが、秋江の評論を読むと、大正期において秋江は常に秋聲をレファレンスにしていたように見える。秋聲の通俗小説への評価もあながちリップサーヴィスとは思えない。それが秋江が家庭を持ち、逆に秋聲が妻を失って山田順子との恋愛関係に走るのを境に、秋江は秋聲に批判的になって行く。そこには大正文学から昭和文学への地殻変動が感じられる。秋江は、秋聲夫人はまが亡くなった時に弔辞を読んでいる。この弔辞が残っていれば、正宗白鳥の秋聲への弔辞と並べることができただろう(ことによると徳田家にまだ眠っているかもしれない?)。秋江ははま夫人と親しかったようで、秋聲文学の陰の立役者として夫人を高く評価していた。
 第四章の終りに「山田順子はいったん荷風のもとに行くが、荷風が慶應卒の勝本清一郎に委ね」とあるのは、何か典拠があるのだろうか。『仮装人物』を読む限り、順子を勝本の元へ行くように誘導したのは秋聲自身であり、荷風の介在する余地はない。勘違いか、氏の小説家的創作なのか。また参考文献に長田幹彦の『文豪の素顔』が載っていないが、参照していないのだろうか。『黒髪』のモデルの容貌についても書いてあるし、秋江の音読み訓読みをわざと混ぜてつかう隠語的な言い方についての証言や、花袋秋聲記念アンソロジーから中村武羅夫の圧力で長田が排除された件についても長田側の証言が残っている。
 谷崎潤一郎が講演会で長田や秋江をディスっていたと推測される『不同調』の匿名批評の話は面白かったが、「谷崎は、藝者娼婦との交情は描いていない」という指摘については「飈風」はどう考えるのかと聞いてみたい。谷崎の最初の妻は元芸者でもある。谷崎は晩年の秋江に『吉野葛』の限定版を贈っているが、『吉野葛』は、娼婦だった母の不在の記憶を真偽不明の曖昧な記録の中から蘇らそうとする物語であり、特にこの物語を谷崎が秋江に贈ったことには意味があったと私は考える。しかもその時秋江は既に盲目で、ラジオで『吉野葛』を聴きたいと娘に口述筆記した手紙の中で返事しているのは、何か秋江自身が谷崎の物語の中の人物になったような趣があり、秋江最後の文学的パフォーマンスという感じがする。秋江は『黒髪』の女を追いかけていた時、高野山で一ヶ月こもる前に吉野も一日だけ訪れており(谷崎のように奥地まで行ってはいないが)、紀行文も書いている。
 私は評論家デビューの頃、秋江の『別れたる妻に送る手紙』『執着』『疑惑』を「テクスト論」もどきのやり方で(東浩紀の郵便論を意味を「脱構築」し(ねじ曲げ)つつ盛大に使って)読み破る論文を、『論樹』に載せたことがある。もともとは『批評空間』に送ってみてだめだったものを書き直して『論樹』に出したのだが、当時今は亡き菅聡子さんが褒めてくれたのは嬉しかった記憶がある。それはデリダをもじって「人生の配達人」と題をつけたのだが、いつかは今度は『黒髪』連作を中心に、「人生の受取人」と題して書いてみたい(もちろん思いっきり「テクスト論」風に)と思っている。その前にやるべきことが沢山あるので、何時になるのかは分らないが。
 12月の初め、私は別件で神戸に行ったついでに、足を伸して、岡山の和気町の秋江の故郷に行って来た。実は私は、秋江の次女の道子さんが亡くなる数年前、八木書店の編集者の滝口さんに紹介していただいて、道子さんとお会いしたことがある。引っ込み思案の私としてはなけなしの勇気を振り絞ったのだが、道子さんは寿司を取ってくれて大いに歓待してくれた。いわゆる研究に役立つような話は何もなかったが、話し好きで、お父さんが大好きであることは良く分かった。秋江伝にも出てくる熱海の土地で大損したことについては悔しそうに語っておられた。秋江が「ストーカー」と呼ばれることには大変憤っていて、一度『黒髪』を映画化しようとして、映画関係者が道子さんを訪ねた時「秋江は有名なストーカーで」とうっかり口を滑らせたので、話が流れてしまったと言う。だからもし今も道子さんが生きていても、小谷野氏の秋江伝に抗議したかもしれない(以前小島信夫が『私の作家評伝』で秋江を取り上げた時、道子さんらしき人から抗議の手紙を受け取ったことが書かれている)。
 その時は道子さんと一緒に、秋江の生家の前まで行ったのだが、墓までは行かなかった。最近亀井さんが秋江の墓参りをした写真を見て、やはり一度は見て置こうと思った。前回は七月で蒸し暑かったが、今回はちょうど良い晩秋の気候で、快晴の空の下、紅葉が綺麗だった。秋江の生家と墓がある和気町藤野地区は低い山に囲まれた盆地にあり、岩山に草木が茂るような地勢は、関東と違って明るい感じがする。秋江の生家は以前来た時より荒んで見えた。墓地も亀井さんの記述のおかげですぐに見つかった。秋江の短篇に『墓域』という作品があるが、この墓地を描いているのだろうか。秋江(そして妻と長女)の墓は「徳永家先祖之供養塔」の背後に少し小さく見えた。花も用意しないでただ秋江の墓の前に突っ立っただけだった。
 ここは道鏡をめぐる宇佐八幡事件で有名な和気清麻呂の出身地でもあり、昭和十五年神武紀元二千六百年に建てられた大きな碑が秋江の生家の近くにあった。また川を少し遡ったところに和気神社があり、神社の域内に秋江の文学碑もあった。前に来た時は雑草が生い茂って近くに寄って見る気がしなかったのだが、今回は雑草が枯れ、真紅に紅葉した楓の傍で、自然石に彫りつけた文学碑がよく映えて見えた。秋江が清麻呂に直接言及したことはないと思うが、清麻呂のことは当然知っていただろう。『疑惑』の雑誌初出版の冒頭(単行本以降削除されたので、全集以外では読めない)には、父の病気の治癒を願って隣の老人が隠岐の白山権現に願掛けし、病気が治ったので長兄が白山権現へのお礼に宮柱として材木を川に流したという伝説のような物語が語られているが、身近にあったはずの和気神社ではなく、遠い白山神社の霊験が語られるというのが、秋江の国家主義に対する距離感を示している気もする。ともあれ和気神社にはまた町立の民俗歴史資料館があり、今回は寄らなかったが、以前行った時には、秋江が子供の頃に書いた絵を見せてもらった。平凡だがなかなか上手で素直に風景を描いた水彩画だった。
 帰路は岡山の吉備路文学館に立ち寄り、正宗白鳥展を見て来た。白鳥の一生が簡潔にまとめられていた。白鳥の生家跡の写真を見て、道子さんが秋江の生家も、白鳥のように更地にして標識だけにしたいと言っていたのを思い出し、何となく江藤淳の「生きている廃墟」という言葉を想起した。日本の近代文学はある意味で今も「生きている廃墟」であり続けているのだろうが、若き日の江藤のようにそれを自信満々に一蹴することもできない。
 白鳥展で面白いと思ったのは、『朝日新聞』の薄井秀一宛の手紙(大正五年六月二十四日付)である。その中で白鳥は夏目漱石「明暗」終了後の自身の連載小説(「波の上」)についての腹案を語るのだが、そこに「今の日本の中流社会が舞台です そして道徳問題で非難される描写はないだらうと思ひます」という言葉があった。これは前年「奔流」の連載をめぐって漱石が秋聲に「女郎の一代記」という腹案を聞いて懸念を示したことを想起させる。当時『朝日新聞』に自然主義文学者が書く時、まず「道徳問題」をクリアしなければならないということなのだろうか。
 そう言えば、以前「奔流」をめぐる漱石と秋聲のやりとりについてこのブログで考察した時(「漱石への絵はがき」)、私は、秋聲が漱石に送った絵はがきの「「あらくれ」は迚もおよみになるやうな代物ぢやありませんが、おひまがございましたら、ごらん下さいまし」という文面の解釈として、秋聲が漱石に『あらくれ』を献本した可能性と、漱石が『あらくれ』を自分で買った可能性の二通りを挙げた。私は前者の方かなと思ったのだが、亀井さんはツイートで後者だと断言されていた。その後私は何人かの研究者に聞いてみたが、みな分らないとのことなので、時間が経ってしまったが思い出したついでに後学のため亀井さんにもっと詳しく教示してもらえればありがたい。私としては『黴』系統の作品が好きな漱石が、自分から『あらくれ』を買うだろうかという疑問もある(性に関心のある徳富蘆花は、日記を見ると買ったようだ)。

プログラムの順序について

 前々回の記事について岡和田氏からプログで応答をいただいた(大杉重男氏への応答)。
 改めて提示された疑問や批判については、今回の子午線掲載論文も含めた単行本(憲法九条と東アジア同時革命を軸に、この10年くらいの私の批評を大幅に加筆修正してまとめる予定)を可能なら来年中に出版したいと考えているので、そこで必ずしも直接的な形ではなくても大局的に答えられればと思っている。岡和田氏とは一度路上で直接挨拶されたことがあり、昔早稲田で私の授業に出ていたことがあったという話を聴いた覚えがあったが、それがシュレーバーについての授業だったことはすっかり記憶から抜け落ちていた。休みが多かったようで申し訳ない。私としてもいろいろな意味でぎりぎりの苦しい授業だった。「深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を見ている」という格言の現実味をシュレーバーを読んだ時ほど感じたことはない。
 11月20日と22日、銀座王子ホールで開かれたポール・ルイスのピアノ・リサイタルに行って来た。ハイドン・ベートーヴェン・ブラームスのみを取り上げる「HBB PROJECT」の第二回と第三回の演奏会である。全四回で、去年開かれた第一回目は聞き損ねたが、第二回と第三回は満を持してチケットを確保した。プログラムは、第二回がベートーヴェンの11のバガテルOp.119、ハイドンのピアノ・ソナタ第49番変ホ長調、ハイドンのピアノ・ソナタ第32番ロ短調、ブラームスの4つの小品Op.119、第三回はブラームスの7つの幻想曲集Op.116、ハイドンのピアノ・ソナタ第20番ハ短調、ベートーヴェンの7つのバガテル Op.33、ハイドンのピアノ・ソナタ第52番変ホ長調。いずれもハイドンがプログラムの中心となるという、画期的な試みである。実際演奏も1番力がこもっていたのはハイドンで、容赦なくたたきつける強音と緩急自在のリズム感にしびれまくった。最も良かったのは最後の第52番で、第1楽章ではモットー的な主題提示の重厚さと、きらめくような走句の疾走感が見事に両立し、そして落とし穴のように随所に出現するフェルマータと休止が、両者を巧みに接続していた。第3楽章も同様の快演で、現代のピアノでハイドンを演奏する際の理想形がそこにはあった。私はイギリス系の演奏家のハイドンが好きだ。硬質で冷ややかなのにエネルギーに満ちている。ただこの響きは、CDではなかなか再現できない。ルイスのハイドンのCDは一枚だけ出ているが、それはダイナミックレンジの幅が狭く、ずっとあっさりしたおとなしい印象の演奏になっている。
 通常のピアノの演奏のプログラムでは、ハイドンの曲はもし入ることがあっても1番最初に指ならし的に置かれるのだが、特に第三回では、ブラームスとベートーヴェンがハイドンの前座を務めるという転倒的な試みがなされ、それは見事な異化効果と共に成功していた。こうした試みは他のジャンルでもやってほしいが、ピアニスト一人の意志で可能なピアノ・リサイタルと違って、ハードルは高そうだ。たとえば、弦楽四重奏で、前半にベートーヴェンの第14番嬰ハ短調、後半にハイドンの作品76の5といったプログラムを組んだら、あるいはオーケストラで、前半にベートーヴェンの「英雄」、後半にハイドンの102番というプログラムを組んだら、どうだろう。「英雄」の初演当時、ベートーヴェンは聴衆の疲労を恐れて「英雄」を最初に演奏してほしいと考えていたと何かで読んだ記憶があるが、現在のクラシック演奏会のプログラムは、オードブル・メインディッシュ・デザートというコース料理の隠喩によって制度化されてしまっていて、それを動かすのは難しそうだ。満腹したい=大音量でストレスを発散したいというのが、現代のクラシックの聴衆の平均的欲求なのだろう。それでもアンコールで派手な曲を入れて調節すれば何とかなりそうな気もするが・・・。

『アンチ漱石』補遺

 ツイッターを見ると、丹生谷貴志氏が最近私のブログを発見したらしく、特にハイドンについての記事を読んでいただけたのは、全くの素人批評に対して初めて読者を得たようで嬉しかった。更に私の過去の本も読んでいただいたようで、『アンチ漱石』について次のように書いているのを見た。

「大杉重男『アンチ漱石』は長与又郎による漱石の脳その他の解剖所見文書から始まるが、大杉さんは死体解剖に到るまでの「漱石の神話化」としてそれを提示するが、長与博士の視線が「自然主義小説」の視線の奇妙な模倣であることはもっと注視してもよかった。「秋声・善蔵」等による奇妙な復讐?」

 この疑問について、私なりに応答しておくと、私自身は「長与博士の視線」を「「自然主義小説」の視線の奇妙な模倣」あるいは、「「秋声・善蔵」等による奇妙な復讐」とは考えない。秋声の『黴』における尾崎紅葉の解剖された脳についての記述がそうした連想を妨げる。すなわち『黴』には、M先生(紅葉がモデル)が末期に「死骸を医学界のために解剖に附してくれとかいうようなこと」(引用は青空文庫。ルビは省略。以下同様)を言ったことが記されており、実際M先生の死後「先生はやはり異常な脳を持っていられたそうだ」という会話が弟子たちの間でなされたという描写がある。しかしそれを聞いていた主人公の笹村(秋声がモデル)は 「どうして解剖などということを言い出したろう」と思い、「死際までも幾分人間衒気のついて廻ったような、先生の言出しを思わないわけに行かなかった」と、M先生の「人間衒気」を批判する。つまり少なくとも秋声はここで、「長与博士の視線」的なものをあらかじめ批判的に描いているのであり、紅葉の「異常な脳」に視線を向けることを断固拒絶している。その秋声が漱石の脳に関心を持つはずは、なおさらないだろう。
 もちろん漱石の脳の解剖は、紅葉の場合と事情は異なっている。夏目鏡子によれば、彼女は原因不明のまま亡くなった五女雛子を解剖しなかったことの後悔を漱石と共有しており、だから漱石は自分の遺体の解剖にも同意しただろうと考え、解剖を申し出た。そこでは「人間衒気」は漱石自身ではなく、漱石周囲に移動しているようにも見える。しかしそれは漱石が紅葉以上に巧妙なやり方で自己神話化を遂行したとみることもできる。
 すなわち私には、「長与博士の視線」は、漱石自身の小説である『こころ』の「私」の視線の反復であるように見える。『こころ』の「先生」は、「私」に宛てた遺書の中で、「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです」と語り、「私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです」と述べるが、これはまさに自らの死体(「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう」)を自分自身で解剖して見せる身振りである。『こころ』の「私」が「先生」を研究的な「冷たい眼」で見ないように、長与博士は、医学的な所見を語っているように見えながら、漱石の脳を「冷たい眼」では全く見ていない。そもそも脳をいくら切り刻んでみても「天才」の秘密が何も明らかにならないことは、少し前にNHKのドキュメンタリーで紹介していた、世界の科学者たちに切り取られて散逸したアインシュタインの脳の断片群を見ても明白である。盲目にならなければ漱石を読むこと=見ることはできず、この盲目性が、人をひきつける求心力と狂気を作り出す。
 秋声の視線に解剖的なものがないということではない。ただそれは「死体解剖」ではなく、「生体解剖」的なものだったと私は考える。『仮装人物』では過去の記憶を想起することが「心の皺のなかの埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓」を「敲き出」すことであると形容されているが、「心の皺」とはまさに脳の生きた襞であって、生きているものを生きたまま切り開いて見せることに秋声の関心はあったように見える。田山花袋は自身の自然主義的描写を「皮剥の苦痛」という「生体解剖」的な隠喩で語っていたが、『仮装人物』の場合は「癒えきってしまった古創の痕に触わられるような、心持ち痛痒いような感じ」という、もっと微妙な感覚に訴えるものになっている。そしてこの「古創」の『仮装人物』における最も端的な描写は、ヒロインの葉子の痔の手術の後で執刀医のK-博士が主人公庸三に見せる「白蝋のような色をした彼女の肉体のある部分に、真紅に咲いたダリアの花のように、茶碗大に刳り取られたままに、鮮血のにじむ隙もない深い痍」である。庸三はこの「深い痍」を「葉子の、しかしそれはすべての女の本性」と見なすように読めるが、この「痍」がなぜ「すべての女の本性」につながるのか、私にはまだ良く分かっていない。
 ともあれ『アンチ漱石』は、今から読むといろいろ考え直したり補足したいところが多いが、その機会は今のところありそうにない。出版当時ほとんど全く評価されなかったので、今になって少しでも読んでもらえるのはありがたいことである。

文学を愛することについて

「子午線」6号に私が寄稿した批評「ただ一つの、自分のものでしかない歴史」について、初めて活字で論評が出た(岡和田晃「〈世界内戦〉下の文芸時評第四四回」、『図書新聞』2018年10月20日)。非常にありがたい。批判的な評だが、無視されるよりはましだし、その方が私が自分の考えを進める契機になる。感謝しつつ遠慮なく社交辞令抜きで応答しておきたい。
 岡和田氏の私への批判点は二つある。一つは私の論は「アシモフが基盤になることからもわかるとおり、アナクロで危機感が薄い部分もある」という指摘、もう一つは筒井康隆の慰安婦像についての発言「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」について私が「どんなに愛国的なネット右翼でも、この言葉に従って実際に慰安婦像の前に行ってペニスをしごいて射精する男はいないだろう」と書いたことに対する「台湾の慰安婦像を蹴りつけるネトウヨ(しかも、杉田水脈の周辺から)が出てきている以上、慰安婦像を性的に汚す輩がいつ現れても不思議ではない」という批判。
 最初の批判について言えば、アシモフが「アナクロ」であることはたぶんその通りなのだろうと思う。しかしまさに「アナクロ」=時間の線条的な秩序の壊乱こそが、「歴史の終り」が「歴史認識の始まり」をもたらしたとする私の論の主題であった。私はアシモフを文学的に評価しているわけではない。ただアシモフの「ロボット工学三原則」は日本国憲法を考えるためのモデルとして有用だと思うから使っているだけである。アシモフが「アナクロ」だということは日本国憲法も「アナクロ」だということであり、そしてその「アナクロ」と真剣に付き合う必要があると私は考える。東浩紀以降の批評家は、時間が過去から未来に線条的に流れることを前提として今を語ることが多いように見えるが、私は最初の批評が徳田秋声であったことが示すように、最初から「アナクロ」であり、線条的な時間の中にいたことはなかったし、今もいない。
 「危機感が薄い」という批判がどういう部分を指すのかは分らないが、いずれにしろ「危機感」という内面と「危機」(=批評)とは全く別であり、重要なのは後者である。岡和田氏にとって批評とは、「危機感」を持つことで「危機」を解消しようとする行為であるようだが、私にとって批評とはそれ自体「危機」そのものであるしかない状態である。岡和田氏がアシモフの代りに推奨するJ・G・バラード「終着の浜辺」を読んでみたが、廃墟趣味と抒情性においていかにも「純文学」的ではあるものの、冷戦時代の歴史性を色濃く反映していて、ここからどう出発すれば良いか(「終着」だから出発などナンセンスには違いないが)分らなかった。SFの「文学」的評価について専門家らしい岡和田氏と争う気は全くないが、アシモフのエンターテインメント小説の中で論理的に展開されるあっけらかんとした戦争への反省なき合理主義の方が、現在の世界を考える上で私には参考になる。
 もう一つの批判について言うと、「慰安婦像を蹴りつける」ことと「慰安婦像を性的に汚す」こと、更には「慰安婦像の前に行ってペニスをしごいて射精する」ことの間には大きな違いがある(台湾でやるのと韓国でやるのとでも全く違う)。蹴ることよりも「性的に汚す」ことはハードルが高い。それでもたとえば精子を模した液体、あるいはどこか別の場所で射精した精子を袋に入れて持って行き、慰安婦像にぶちまけることはありうるかもしれない。しかし慰安婦像の前でペニスを露出して勃起し、射精まで導くことは、次元の違う行為である。
 蹴ることが相手だけを傷つける行為であるのに対して、勃起して射精することは相手に欲情し、そのことで自分をも「汚す」行為である。それは単なる「ヘイト」によっては不可能だろう。「ヘイト」に凝り固まった人間は、慰安婦像の前でどうやって勃起できるのか。筒井の言葉は「可愛い」から射精しようと呼びかけることでこの困難を解決している。そこでは「ヘイト」は「愛」と結びついているので、単純にポリティカル・コレクトネスでは切ることができない。だから私は小説で書くべきだったと書いた。そんな差異はトリヴィアルなものでしかないと言われるかもしれないが、文学はそういうトリヴィアルな場所でしか生き死にをしない。私は筒井の言葉を岡和田氏よりは文学的に受け止めて解釈したつもりである。
 岡和田氏は(引き続いて綿野恵太氏の論考を批判する文脈の中で)私のことを「文学嫌い」と言うが、主観的には私は私にとって文学だと思うものを愛している(文壇は好きではないし、文壇に依存した文学は基本的に嫌いだが、たとえ文壇的でも良いと思えた作品は好きだ。そうでなければ秋声にここまでこだわったりしない)。だが私はそのことをいちいち表明したり、告白したりしたくない。
 「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」である。岡和田氏はこのことを真剣に考えるべきではないか。「文学嫌い」という根源的な「ヘイト」があると考えて、その根源的な「ヘイト」を攻撃することは、それ自体が「ヘイト」の典型的な構造にはまっている。他者が持っていると想定される根源的な「ヘイト」は何時でも主体に先取り的に想像されたものでしかないのだが、「ヘイト」の主体にはその想像性は絶対に見えないのであり、「ヘイト」は客観的に実在して見える。この時間が脱臼した構造的盲目性こそ「ヘイト」の本質である。
 いずれにしても私は文学を愛することよりも、文学に愛されることに関心を持っている。同時にそのために何もできないことに絶望してもいる。この時少なくとも文学に愛されるために文学を愛する身振りをするのは最悪である。それは容易に「過度の求愛」(©渡部直己)に陥り、何もかも台無しにするに決まっている。

東アジア同時革命について

 八月最後の日から九月初めにかけて、中国広州に行って来た。誘われて首都大の中国文学教室と広州の華南理工大学の共同研究会に参加し、そこで発表の機会を与えてもらった。なかなかの盛会で、広州近辺の他の大学からの参加者もいて、さまざまな刺激を受けた。私は、明治時代の山田美妙の小説『女装の探偵』と平成時代の安彦良和の漫画『王道の狗』を、共に作中に登場する金玉均の役割を比較することを通して分析し、明治維新・自由民権運動・68年革命を再考するという壮大な構想を建てたのだが、考えが十分まとまらず時間も足りなかったので、発表そのものは中途半端に終わってしまった(何時の日か、ちゃんとしたプレゼンができるようになりたいものだ)。しかしこの機会に山田美妙を読んで考えることがいろいろあった。
 美妙は、二葉亭と並んで日本近代文学の起源に位置する作家である。しかしその扱いは二葉亭と比較するとむごいものがある。今になってやっと主要作品を網羅しした『山田美妙集』が完成に近づいているが、全集ではなく、晩年の作品や辞典類は割愛されている。その作品についての本格的な批評や研究は未だに数えるほどしかないという状況であり(嵐山光三郎の伝記小説『書斎は戦場なり』のほか、研究サイドでは山田有策や『文学』2011年の小特集「山田美妙没後100年」掲載の論文などがあり、大橋崇行の基礎的研究が最近出たとはいえ、美妙のテクストが真に批評的に読まれることがあるとすれば、それはこれからだろう)、特に美妙が文壇から疎外された中期以降については塩田良平の昔以来実質的にほとんど進展していないと言っても過言では無い。
 この冷遇に理由が無いわけではない。美妙の小説はプロットが極度に人工的で不自然極まりない。しかも冷酷で非人間的なところがあり、人間を動物同然に見ようとすることが特に女性に対してマイナスに働き、厭味なレトリックとしばしば出て来る取ってつけたような残酷シーンが不快感を起こさせる。変態的なところもあるが、フェティシズム的なところはなく、細部にこだわりがないので、読者を引きつけられない。欠陥は無数に挙げることができるが、しかし二葉亭とは別のもう一つの存在できなかった不可能な近代文学の起源としての美妙は、奇妙に私を惹き付ける。
 『女装の探偵』は、美妙がスキャンダルで文壇を追われた後の明治三十年代に書かれた長篇冒険スパイ小説である。その主人公は『史記』の荊軻伝を読んで発奮し、森有礼を暗殺する西野文太郎に憧れ、暗殺者を志願して家出する美青年で、偶然会った金玉均の書生となり、女装し「国事探偵」となって、玉均と日本のために工作活動をする。
 私はこの主人公を、遙かに大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」の主人公と比べたくなる。『女装の探偵』の主人公は、大江の主人公のような性的な内面性を持たないが、金玉均が暗殺された後に「尼」のように髪を切って「男装」するなど、ホモセクシャルなものを感じさせる特徴的な細部が、全体のホモソーシャルな物語のプロットに亀裂を入れている。明治天皇の御真影を極度に崇拝する身振りも、大江の主人公の昭和天皇への性愛と比較してみたい。大江が左翼の側から右翼少年を書いたのに対し、美妙はアジア主義と合体した帝国主義に賛同する側から愛国青年を描く。この点では三島由紀夫とも比較できそうだが、美妙には大江や三島のような分りやすいフェティシズムがないので、そこが論じる時に難しいかもしれない。
 ただ広州での発表では、私は大江や三島には言及せず(要旨には一行入れたが)、『女装の探偵』との比較対象として、専ら安彦良和の『王道の狗』を取り上げた。この漫画は、自由民権運動に敗れて北海道で懲役労働に服していた主人公が、仲間と共に脱獄してアイヌ人を名乗り、上京して金玉均のボディガードになって、玉均と共に日本・朝鮮・清国の平和的発展に尽そうとするが、かえって自分の行為が引き金になって玉均は暗殺されてしまう。安彦は『機動戦士ガンダム』の作画監督として有名だが、全共闘体験があり、この漫画では「68年革命」を自由民権運動と重ね合せ、その後の反動の時代をいかに生きるかを問うていると読める。善悪二元論が解体し、組織の中のパワハラ的なものとのマイナーな闘いに視線が向けられる初代『ガンダム』はすぐれて「68年」的アニメだったと言えるが(ララアの登場以後ニャーエイジ的なものに回収されてしまう)、『王道の狗』は漫画としての面白さは措いて、そのマイナーな闘いを継続する意図はあったと言える。しかしそこでは「アジア主義」がナイーヴに肯定されている嫌いがあり、『女装の探偵』を参照するなら、「アジア主義」と表裏一体の関係にある日本帝国主義についてのもっと透徹した認識が必要ではないかと考えられる。
 発表ではこのように整然とは話せず、途中で終わってしまったのだが(温かく受け止めてくれた研究会の皆さんに感謝)、ともかく二葉亭に欠落し、美妙が不可能性の中心としてとらえていたのは、東アジアという問題系だった。明治維新が一つの「革命」であったとすると、その「革命」を日本以外の東アジアに波及させて行くことで継続するか、それとも日本の内部だけで進行させて行くかの二つの方向性があったと言える。前者は「アジア主義」につながり、後者は脱亜論的な西欧化につながる。後者の方向性を文学において示したのが二葉亭であり、その「た」止めを主とする言文一致は内面を表現する均質的で近代的な小説言語としての日本語を作り出したが、他方前者の方向性を文学的に体現した美妙は、「た」止めから「です」止めという敬語文体に移行し、内面を表現できない不均質な小説しか書くことができなかった。絓秀実は『日本近代文学の〈誕生〉』(早く文庫化して手に入れやすくなってほしいものだ)において、二葉亭の「た」止めから尾崎紅葉の「である」体への移行に言文一致の主流を見ているが、「です」体については男性的な父権に奉仕する女性的な文体として若松賤子に触れる一方、美妙の「です」体は「詩」の問題として処理されていて、両者が論理的につながっていないように見える。「です」体が女性的(現代のLGBT的視点から見るとこの形容自体粗雑のそしりは免れないが)であるとすれば、「です」体に転向した美妙は「女装」したと言える。二葉亭の幼馴染みで、紅葉の盟友でもあった美妙は、文アルに登場したら人気が出そうでもある。その小説も、元祖ライトノベルと考えれば、別の読み方ができるのではないか。
 西欧近代に適応するには、全面的な自己からの離脱が必要であり、二葉亭はそれを実践してある程度成功したと言えるが、美妙は「変装」するだけで良いと考えていたところがある。晩年のファルス的な滑稽小説『妙な術』(今回の『山田美妙集』にも収録されない)では、「貨幣の神」に授かった術で「烟」になった主人公が、元に戻る呪文を忘れて困る滑稽が語られるが、それは「変装」を繰り返したあげく文壇的に透明人間になってしまった美妙自身の寓話と言えるかもしれない。
 そして近代日本は一国近代化を推し進めたあげく、帝国主義的に膨張し、1945年の破局に至るのだが、大日本帝国が最大限に拡大した第二次世界大戦の時期に、皮肉にも東アジアは日本の侵略によって初めて一種の「同時性」の中に置かれたと私は考える。『子午線』6号に掲載した論文「ただ一つの、自分のものでしかない歴史」において、私は東アジアの歴史認識問題を解決する契機があるとすれば、それは「東アジア同時革命」(日本の天皇制と中国・北朝鮮など東アジアの諸独裁制の同時的廃止)しかないと結論づけた。その時は明確に考えていなかったのだが、日本国憲法についての「八月革命」説を踏まえるなら、1945年の日本帝国崩壊時に「東アジア同時革命」は既に一度起きていたと言うべきである。ただし「八月革命」が「脳内革命」であったのと同じ程度において、それは「東アジア同時脳内革命」だった。「脳内革命」は日本列島に住む日本人だけではなく、旧大日本帝国の版図全体に渡って起きた。たとえば広州のホテルでも見た抗日ドラマもこの同時「脳内革命」の産物である。そこにこの問題を整理認識する困難さがある。
 「東アジア同時革命」は私の中ではまだ理論的仮説であって、実践的な手がかりはまったくない。研究会の中で、NHKドキュメンタリー番組「巨龍中国一帯一路」のイデオロギー性をロラン・バルトの神話学を使って分析するという中国人大学院生の発表があったが、それに対してまず放たれた質問は、どうやってこの中国では見られないはずのテレビ番組を見たのかということだった。中国に行ったのは3回目だが、今回は初めて入国手続きで両手の指紋を記録されて驚いた。往復の飛行機の中で、福嶋亮大・張彧暋の対談本『辺境の思想』を読んだが、香港で政治活動する張氏の発言の切実さと必然性に比べて、恐山に観光に行って手垢のついた日本文化論を滔々と語る福嶋氏の能天気ぶりを見ると、香港と日本は同じ「辺境」というカテゴリーでは括れないと思った。実際地政学的に言えば、日本は辺境というよりユートピアであり、「蓬莱」的な別天地である。

「祖先以前」あるいは「子孫絶滅以後」から見た「文学史」

 七月に平田オリザ脚本による青年団公演『日本文学盛衰史』を吉祥寺で見た。
 私はふだん演劇はほとんど見ないのだが、これは高橋源一郎原作ということで興味を持った。かつて『アンチ漱石』で『日本文学盛衰史』を批判したことがあり、あの作品がどのように劇化されるのか、改めて高橋の小説を再考かたがた、検証してみようと思った。
 結論から言えばとても面白かった。特に高橋の原作を根本的に改変している部分が良いと思った。以前高橋の小説を読んで私が反発したのはたとえば次のような文章だった。「二葉亭をもっともよく理解していたのは、生涯でもっとも親しく付き合った五つ年上の坪内逍遙ではなく、また多くの友人たちでもなく、生前ただ一度しか会わなかった二つ年上の森鷗外と、同じ朝日新聞社員でありながらやはり数度、それも僅かに会話を交わしただけの三つ年下の夏目漱石であった」。
 二葉亭を最も良く「理解」していたのは森鷗外と夏目漱石だった・・・。この独断的命題が私にとって不快なのは、それが「理解」という内面的身振りを伴っている点である。「理解」という言葉を用いることで、高橋は、文学史的事実と、虚構内事実との区別を曖昧にし、虚構を作るために必要な「労働」を回避しつつ、「ボクの考えた文学史」を読者に共感的に押しつけようとする。高橋の小説は基本的にこの「ね、分かるでしょ」的共感を前提として書かれている。
 平田版『日本文学盛衰史』はこの閉ざされた「内面」的共感性を異化し、もっと乾いた笑いに転換しているところが良かった。平田版は高橋版をなぞりながら、重点をずらし、別の物語に組み換えている。すなわち高橋版では、AV監督になり損ねる田山花袋を踏み台にして、夏目漱石と石川啄木が大逆事件をめぐる良心的知識人として中心化されるのだが、平田版では花袋と島崎藤村が狂言回し役となり(ツィッターでは『ゴドーを待ちながら』の二人組を連想する向きもあった)、明治の「文豪」たちがほぼ同等の凡庸な存在として脱中心化されているのが良かった。
 高橋版の中心にあるのは田山花袋批判である。AV監督の「ピン」(『あ・だ・る・と』など高橋の他の小説にも登場する)に花袋の「露骨な描写」の中途半端さを批判させ、その頂点で、現実における高橋自身の入院という出来事を「修善寺の大患」になぞらえて「原宿の大患」と名付けることで、高橋は漱石に自己を重ね合わせる。そして『こころ』を大逆事件に対する応答(K=幸徳秋水)と見ることで、全共闘的なものからの高橋自身の転向を正当化する。私にはこのストーリー(?)展開が、ダブル・スタンダード的で「ずるい」と思って来た。高橋の作品の中には「AV」的な露悪趣味と、「善人」を気取りたい偽善趣味とが同居しているが、両者は決して葛藤することなく巧みに棲み分けられている。「AV」と出会うのはあくまでそれとイメージ的に認知的不協和を起こさない花袋であって、高橋が自分と重ね合わせる漱石ではない(この意味では、「草枕」をポルノ化する夢を語り、『伯爵夫人』を書いた蓮實重彦の方が、高橋よりずっと批評的である)。高橋を代弁する「ピン」は、女弟子への欲望を内面に閉じ込めて実行しようとしない花袋に対して「押し倒しなよ」「どうしてやんないわけ」と批判するが、このような形の「内面」批判(非常にバブル的な感性を感じる)は、渡部直己問題を考えると、既に失効したと感じられる。漱石(二葉亭と違い文学を捨てなかったのに文学を「懐疑」したとして言わば「名誉二葉亭」的に称賛される)によって自然主義が乗り越えられた(あるいは少なくとも乗り越える可能性が示された)という「文学史」は、もはや完全に批評性を失った紋切り型以外のものではなくなっている。
 平田版『日本文学盛衰史』は、原作の至る所に顔を出す高橋の存在を最後の記念撮影場面以外から排除し、「文豪」たちを派閥関係なく基本的に仲良し同士にしたことで、高橋版における花袋バッシングを無効化する。その痕跡は、AV監督設定と、女性作家の座った座布団に顔を突っ込む身振りだけに残っている。石川啄木の伝言ダイヤル通い設定はなくなったのに(啄木役が女優で、伝言ダイヤルは風俗としてもう古いということはあるだろう)、花袋のAV監督設定が残ったのは可哀想な気もするが、それだけ花袋がまだアクチュアルであるということなのかもしれない(私が見た日には、意識が高そうな女性教師に連れられた制服姿の真剣な面持ちの男女の中学生か高校生の一団が見に来ていたが、どういう風に受け止められたのだろう)。劇は、北村透谷・正岡子規・二葉亭四迷・夏目漱石のそれぞれの葬儀の場に「文豪」たちが参集し、とりとめ無く雑談するという形式で進行し、各場は必ず花袋と藤村のおっさん二人組が残るという共通点を持つ。雑談の内容は文学史的なネタだらけで、知っているといろいろ楽しめるが、知らなくても雰囲気で流れはつかめる。
 その中で私が少し引っかかったのは、三場の二葉亭の葬儀に押しかけた幸徳秋水と菅野スガ子が「天皇粉砕!」と叫ぶ場面で、拡声器のボリュームが何を言っているのか分からないくらい引き上げられるところである。これは「天皇粉砕!」という言葉を聞き取れなくするための工夫なのか、それともこんなに絶叫しなければ「天皇粉砕!」とは今でも言えない言葉なのか。私としてはもっと静かに当たり前の普通の声で「天皇粉砕!」と言って欲しかった。幸徳と菅野のシュプレヒコールは、脚本によればシールズのデモの様子を模しているが、絶叫による言語の意味の空洞化というデモの在り方はシールズでも変わっていなかったのだろうか。「桂やめろ!」は聞こえても「天皇粉砕!」はボリュームが上がりすぎて聞こえない劇の演出は、「安倍やめろ」とは言えても天皇を批判できない現在の状況を皮肉っているのか。
 平田版でもう一つ気になったのは、同じ三場での漱石の朝鮮をめぐる発言である。そこでは漱石(女優が演じる)は満韓旅行について「朝鮮が外国のうちに見ておこうと思って」と、将来の韓国併合を既定路線として認識していることを語り、「今度は、ロシアのうしろにアメリカがいます」とアメリカ脅威論を振りまきつつ、「そのためにも、朝鮮はやはり、併合しなくてはならないと」と、韓国併合を積極的に肯定する。この言葉を受けて森鷗外が「それが朝鮮の民衆のためでもあるでしょう」と言うと、漱石は「えぇ」と答える(台詞は青年団で販売している上演台本に拠る)。
 漱石がここまであっけらかんと平凡な体制的帝国主義者として描き出されたのは、日本文学史上初めてのことではないだろうか。もちろん高橋版には漱石と満韓との関わりは全く出て来ないので、これは平田の付加した認識である。それは「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」という漱石発言の発掘など、最近の漱石イメージの変化に対応するものと言えるかもしれない。私も『満韓ところどころ』について批判的論文を書いたが(「「友」と「供」のポリティクス」、『論樹』二七号)、他方柴田勝二『漱石の中の〈帝国〉』のように、日本近代文学研究者には、漱石を朝鮮に同情的な反帝国主義者として無理矢理深読みしたい人も後を絶たない。平田の劇はこの意味で画期的に漱石神話を破壊していると言えるが、舞台で見るとこの漱石と鷗外の対話はさりげなく棒読みで流されていて、関心のない一般の日本人の観客には印象に残らないかもしれない。
 かつて私は『アンチ漱石』という本を書いた。それはお世辞にもうまく書けたとは言えないが、それとは関係なしに漱石神話は以前よりも大分薄れてきた気がする。去年は漱石のアニヴァーサリーイヤーだったが、それほど盛り上がらなかったようだ。すべての漱石本をチェックしているわけではないが、山本芳明の『漱石の家計簿』は、漱石が当時においていかに特権的で抜け目ない財テク作家だったかを具体的な資料を駆使して徹底的に解明し、金をめぐる漱石神話(清貧とか、金銭に対する批判性)を解体していることにおいて面白かった。
 ただ漱石が株の運用で資産を築いたという記述の中に、満鉄総裁の中村是公から貰ったとされる満鉄株についての言及がなかったので、この点についての見解は知りたいと思った。松岡陽子マックレイン『孫娘から見た漱石』によれば、漱石は中村から貰った株券を岩波茂雄に渡し、岩波はそれを担保に銀行から借金をして『こころ』を出版したと言う。これが正しければ、満鉄マネーが朝日・岩波文化の起源に少なくとも象徴的に関わっていたということになる。
 平田版『日本文学盛衰史』に戻ると、最後に「機械が書いた究極の小説」とそれを読む「機械の読者」というイメージが提示されているのも興味深かった。劇としての効果は滑り気味ではあったが、私はそのイメージに、最近やっと遅ればせに読んだメイヤス『有限性の後で』の中に出て来る「祖先以前性」という概念を思い浮べた。メイヤスを専門的に厳密に解読できる哲学的素養はないが、私の理解(誤解)した限りで言えば、メイヤスは人類が登場する以前(それをメイヤスは「祖先以前性」と名付ける)の宇宙の出来事を、現在の人類が科学的に認識できるのはなぜかという問いを建て、すべてを超越論的主観性の枠に閉じ込めたカント哲学を批判する。カントはヒュームの懐疑論によって独断論から目覚め、「コペルニクス的転回」を遂げて主観性の哲学を確立したと言われるが、メイヤスに言わせれば、それはむしろ「プトレマイオス的反転」であり、近代科学の可能性から背を向けて主観性に閉じこもった反動的身振りだった。
 私はここにメイヤスが描き出したヒュームとカントの関係を、自然主義と漱石に当てはめて考えてみたくなる。自然主義が露呈させた人間についての「フィロソフィ」なき脱中心化された物質的現実を、漱石は再度主観的な意味に回収し再中心化して、所有権を確立する。漱石文学の有名なテーマの一つに「父母未生以前」という禅に由来する時間概念がある。これは「祖先以前性」に似ているが、漱石が違うのは「父母未生以前」的な因縁あるいは関係性によって主人公の現在が脅かされるところである。メイヤスの「祖先以前性」は現在の「私」との間に因縁が全く欠如していることに意味があるが、漱石の「父母未生以前」は現在の「私」がそれと神秘的な(超越論的と言っても良い)関係性を持つことのできる対象である。そのことによって漱石はカントがそうしたように、世界を主観化し、「物自体」を排除した。
 この漱石的主観性は、柄谷行人が作った日本近代文学史の枠組において特権的な位置を与えられ、高橋版『日本文学盛衰史』はそれを継承することで高橋の文壇的地位を確立させた。高橋版の結末は「ぼくは瞑目する。/すると微かに聞こえて来る、滝壺の向こうに落ちていった一千億人の悲鳴。耳を澄ませば、その中に、確かに未来のぼくの悲鳴も混じっているのだ」という文で結ばれるが、ここで高橋は、人類全体の運命を自身の超越論的主観性の中に閉じ込め、そのことで、自身が小説家であると同時に批評家でもあることを保証し、他者からのどのような批評をも無効にする最強の鎧としての「文学史」を所有する。私は、この「文学史」を破砕するのに、「祖先以前」あるいは「子孫絶滅以後」の視線(その視線の主体は必ずしも「機械」やAIとは限らない)を導入したらどうだろうかと考える(平田の劇では最後に「かつて機械たちが宇宙船で植民したどこかの惑星で・・・銀河系の片隅で・・・また、一人の北村透谷が生まれます」という形で円環構造による文学の復活が語られるが、このような救済はもちろん蛇足である)。少なくとも「祖先以前」あるいは「子孫絶滅以後」の存在者は、「一千億人の悲鳴」の中に決して自分自身の声を聞き取らないことにおいて、高橋的な感傷の政治学に動かされることはないだろう。

前回記事の反響に対する補足的応答

  前回記事に対して早速ツイッターで反応があったので補足をしておく。まず吉永剛志氏のツイート。「「見事な現実的効果を挙げる「慰安婦」の一人称語り」「そのような小説を書く「蛮勇」を持つ日本人作家はいないだろうし、発表できる媒体もない」いやあんだろ。何言ってんだ。『子午線創刊号 古賀忠昭 遺稿拾遺 金愛花日記』 大杉重男に評論してもらいたい」。
 とりあえず指摘しておきたいのは、「金愛花日記」は「小説」ではなく「詩」であるということである。少なくとも遺稿をまとめた稲川方人はそう認定しているし、私も読んでこれは「詩」だと思う。だが「詩」であるとされることにおいて、それが「詩壇」の外で最初から読まれず論評の対象にならないとしたら残念である(「金愛花日記」はもっと読まれるべきテクストであり、研究対象になるべきだろう)。「小説」と「詩」の違いはトリヴィアルと言われるかもしれないが、「文壇」と「詩壇」が厳密に棲み分けをしている現代日本の文学状況を批判することには意味があると考える。また『子午線』は『群像』などと同質の「媒体」ではない。これは『子午線』を下に見るのではなく(「金愛花日記」を収録した『子午線』は現在最も批評的な雑誌と言えるだろう)、私の批判の対象が商業文芸雑誌(それだけで生活できる人はほとんどいないだろうが、少なくとも原稿料を得ることは執筆者の精神的な支えとなり、他で収入を得るための社会的ステイタスにもなる。ちなみに『早稲田文学』でまともな原稿料を出すことにこだわったことが悪い方向に向かい、版元にアピールするためかヴィジュアル重視路線に進んだ結果、変な方向に行ってしまったのが市川真人だったと、内情はまったく知らないが私は想像している)にあったということである。
 そしてもう一つ指摘したいのは、「金愛花日記」は2007年4月8日という脱稿の日付を持つ過去の「遺稿」であるということである。私は2018年現在の状況について書いたつもりであり、過去の「慰安婦」を題材にした小説ということであれば、つかこうへい(国籍はともかくとして日本語圏作家ではある)の『娘に語る祖国 満州駅伝-従軍慰安婦編』 (1997年)も挙げることができるだろう。PC的非難を恐れて、今は10年前(時間の停滞した「平成」という時代では10年など一瞬であり、誤差の範囲かもしれないが)よりも「慰安婦」についての新たな小説は、遙かに書きにくくなっているのではないか。
 以上により、前回の記事に修正すべき問題はないと思う。しかし古賀忠昭の遺稿は、一度読んでいるはずなのに、今回『子午線』第6号で「ただ一つの、自分ものでしかない歴史」を書いた時、完全に忘れていたのは事実である。「金愛花日記」の存在について思い出させてくれたことには感謝する。読んでみると、批判点も含めて批評を刺激する論点がいろいろ見えて来る。論じるとすれば、内容についてと同時に蓮實重彦『伯爵夫人』と比較してみたいと思った。蓮實は「詩」を否定し「小説」を称揚するが(蓮實と筒井康隆の対談を読んで、蓮實の言う「散文」は「テクスト論」と同じくらい意味不明だと思った)、現代日本における「詩」と「小説」の断絶が論の主題になるだろう。ただ他に書きたいことがいろいろあるので、すぐに書くとは約束できない(たとえ書けても載せてくれそうなのは『子午線』だけだが)。  
 次に中沢忠之氏のツイートについて。「大杉さんもPC批判からの議論ですね。石原先生はテクスト分析からのPC批判だけど、大杉さんはカルスタ文脈から」。
 猫飛ニャン助(絓秀実)氏が「浅学ゆえに教えてもらいたいのだが、日本文学研究者が良く使う「テクスト論」なるものが、いったい何か良くわからん」とタイムリーに皮肉をつぶやいていたが(中沢氏の発言を受けたものであるのかは不明)、「石原先生」=石原千秋の書くもののどこに「テクスト分析」があるのか私にはまったく分からない。同様に私自身は「カルスタ」と呼ばれたのは初めてなので、少し驚いた。私はただ普通に批評をしているだけである。こういう空虚なレッテル貼りで何か分かったような気になるのは、日本文学研究業界の非常に狭い隠語空間の中だけだろう。日本文学研究について私は系統的に勉強していないが、小森陽一と石原千秋が体現していると業界の中で当然視されているのかもしれない「テクスト論」は、この言葉自体が発散するオーラを除けば、バルトやデリダとは何の関係もないただの「作品論」と言い換えて何も問題のないものだと私は思っている。
 中沢氏が言及している『産経ニュース』の文芸時評8月号「正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと」で石原氏は、「美しい顔」の盗用問題で「あまり厳しい批判は文学を萎縮させる。いまや「若気の至り」という言葉は死語になりつつある」と書いている。しかしこの寛容な言葉は、かつて石原氏が自分の論文を無断引用したと激怒し『日本文学』誌上で柴市郎氏を攻撃したことと、どう整合性を持ち得るのか。金持ち喧嘩せずで石原氏は昔よりも無断引用に寛容になったのだろうか。それとも自分の著作が盗まれることは許さないが(柴氏は石原氏の「プライオリティ」を認めないで正面から反論している)、自分が褒めた作品が他人の作品を盗用するのは大目に見たいということなのか。研究論文よりは小説は盗用が許容されるということか。
 中沢氏は「当初は「非当事者性ゆえに評価」されていたわけではありません」と言っているが、石原氏は文芸時評6月号で次のように書いている。「読後にパラテクスト(テクストをめぐるテクスト)として「受賞のことば」を読むと、北条裕子は被災者ではなく、ボランティアとして被災地に赴いたことさえないという。つまり、北条裕子はただこの大災害を見ていたのだ。だから書けたのだとわかった」。ここで石原氏は、その石原流「テクスト論」(「パラテクスト」はジュネットの用語だが、氏によれば北条氏の顔写真もそれに含まれる)を武器にして、北条氏を明らかに「非当事者性ゆえに評価」し、オーラの形成に努めている。この種の評価は、盗用疑惑が出なければ、ますます増大し、神話化されて行っただろう。
 また中沢氏は「文壇で熱く語られる「震災」と沈黙される「慰安婦」の対立図式も、固有名としての「震災後文学」とその固有名性を批判する「慰安婦」という図式を想定しているのでしょうけれども、やや図式的すぎると思われます」とつぶやいているが、この私の文章のまとめ方自体が図式的であるのはともかく、どう「図式的すぎる」か分からないので応答のしようがない。ツイッターとプログでは字数が違いすぎて論争にならないと思うが、中沢氏自身の「震災」と「慰安婦」についての考え方が提示されないと何も言えない。
 最後に中沢氏の次のツイートについて。 「固有名が「無」の平成文壇に無理やり固有名を立ち上げて、固有名批判をする論拠を「捏造」しているとしていると批判される可能性がある。そういえば、大杉さんの漱石=固有名批判もそのような観点から批判されたことがあったと記憶します」。
 中沢氏から見ると、私は(かつて漱石神話を過大評価したように?)「文壇」の力を過大評価しているのかもしれないが(文学が死にそうだから、良いところだけ見てあげてくれというのもひどい理屈だが)、文学は現在も戦国時代の衰微した天皇家のように言わば「名跡」として生き延びている。いくら赤字でも文芸誌がなくならないのはこの「名跡」としての機能(その恩恵に浴して生活できている人は、広く考えれば大学にいる私自身も含めて結構いる)によっているだろう。私にはその「名跡」の自足ぶりが不快である。東欧出身のある日本文学研究者と話した時、「そうは言うけれど、日本に文壇があることがうらやましい」と言われて胸を打たれたことがあり、私は恵まれすぎた日本の状況に甘えているだけかもしれないと反省したが、しかし不快なものは不快である。この日本文学の「名跡」化問題については、ちょうど平田オリザの『日本文学盛衰史』を観劇していろいろ思うことがあったので、漱石神話の現在も含め、回を改めて考察したい。
 小説は結局「内面」を語ることしかできないのだから、いさぎよく「内面」を語ればいい。そしてその「内面」を関係のないものに接ぎ木して行けばいい。小説はそういう無責任なジャンルである。ただし責任を取ってるかのように格好つけないでほしい。それだけである。

複製権時代の文学

 北条裕子の「美しい顔」とそれをめぐる一連の騒動は、「無」あるいは「幽霊」の時代の文学としての「平成」文学を締め括るにふさわしい出来事と言えるだろう。この小説は群像新人賞を受賞し、選考委員と各文芸時評から絶賛され、芥川賞にノミネートされた。内容は、東日本大震災で被災した女子高生の一人称語りによる体験記の形を取り、母の死体に直面し、弟と共に沼津の叔母の下に引き取られるまでの内面の揺れ動きが読みどころの作品となっている。ところが作中の震災の描写に、震災についてのノンフィクション本からの無断借用があることが発覚し、状況は一変した。ノンフィクション本の版元からの抗議で群像がウェブサイトで経緯を説明し、著者も謝罪の文章を公表して、芥川賞も落選となった。
 私は以前「早稲田文学」に「コピーライトについての試論」という評論を連載したことがある。そこでは「作者」が死んだ後(これは現実に死んだということではなく、バルトあるいはデリダ的な意味で死んだということである)に「著作権者」が延命し続ける現代という時代を、ベンヤミンを改変して「複製権時代」と呼び、そこにおけるオーラの行方を考察しようとした(「著作権」という概念は「作者」側からの視点に立っているので、受容者の視点から「複製権」と言い換えて見た)。「美しい顔」問題は、この「複製権時代」の文学を考えるための格好の練習問題になる。
 すなわち「美しい顔」は、最初は作者が一度も被災地に行くことなく、何も直接経験しないまま想像力によって真に迫った物語を創造したという物語によって強烈なオーラを獲得した。しかしそのオーラはこの作品が、そのリアリティをノンフィクションという直接経験の記録によって代補していたことがあらわにされて、全面的に剥ぎ取られた。当初はプラスの付加価値としてあった経験の不在という同じものが、次にはマイナス価値として攻撃の対象になる。
  私がオーラを批判するのはひとたびそれが発動すると、「複製権」の存在が忘却され、現代において書くことにつきまとっている不自由さが隠蔽されてしまう(その結果牢獄をユートピアと取り違える)からでもある。オーラの有無は、作品を「一流」と「二流」に分割する。オーラと無関係に作品を読むことの追求は、私の「固有名批判」のモチーフにつながる。
 私は「美しい顔」を、盗用騒動が起きて初めて読んだので、ポジディヴなプラスのオーラからは自由だったとは言えるが、その分マイナスのオーラに染められて読んでしまったかもしれない。後半弟に母の死体を見せるかどうかで急に説教臭くなり、しかも弟の母との対面が一行で済まされてしまうあたりは明らかに密度が低下している。前半は被災体験のリアリティによって読ませる。特に作品の冒頭、主人公が自分を撮影するジャーナリストに対して延々と呪詛的な内面を吐露するところは印象的である。それは一読して読者の心をつかむ語りだが、その突出したリアリティは、作者が元モデルらしいということを考えると、モデル時代にカメラマンから受けた厭な印象に由来するのだろうなと私小説的に想像したくなる(同様の意見はツイッターでもつぶやかれていた)。小説は言葉の集合体であり、言葉は元の文脈と異なる場所に移し替えられる交換可能性がその本質なのだから、このような経験の移し替えは文学的には当然ではある。震災に固有の体験などはない。もし固有な体験があったらそれは体験していない者には伝わらないのだから、伝わる限りにおいて、それはもはや交換可能な非固有の体験ということになる。「美しい顔」はそのことを見事に実証して見せた作品であるだろう。私は西山雄二編『カタストロフィと人文学』に寄せた論考で、木村朗子が提唱した「震災後文学」という概念を批判したことがある。木村はシャーマンのようにとにかく震災について何でもいいから小説を書けと無根拠に煽動していたのだが、「美しい顔」はそのような文壇的煽動の一つの必然的帰結と言えるかもしれない。
 この騒動を小保方事件になぞらえる向きがネットであったが、私は佐村河内事件と比較してみたい。佐村河内の場合は音楽評論家・音楽学者による絶賛の嵐だったが、「美しい顔」も作家・文芸評論家・文学研究者の称賛の花束に包まれていた。盗用騒動になった後、これらの称賛者たちはどう応答責任を取るのか、あるいは取らないのか。この手のことは(渡部直己問題と同じく)黙って時間が解決するのを待つという自然主義的(?)態度が一番処世的に賢いのは明らかだが、いちはやくブログで応答している人もいる。日比嘉高氏がそうだが、その誠実な態度には敬意を表するものの、内容には疑問がある。
 すなわち日比氏は次のように述べる。「小説の言葉は奪うが、自分自身のために奪うのではない。「収奪」は、社会的な意味変換装置としての小説の機能の、ほんの一面でしかない。小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」(「「美しい顔」の「剽窃」問題から私たちが考えてみるべきこと」、ブログ「日比嘉高研究室」)。
 ここで日比氏は、他者の経験と言葉を模倣反復することによって奪う「小説の言葉」の暴力性を一方で認めつつ、「小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」と、その暴力性を中和し去勢する。小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」のであり、「再放流した言葉は、その先でうまくいけば社会のかたちを変えていく」と日比氏は語る。
 日比氏は小説を慈善活動のように見ているが、慈善がしばしばそうなるように、それは持って回った偽善の言説に近づいて行く。氏によれば小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」とされるが、それは奪ったものをもう一度奪い直し、そこから二重に個人的利益を引き出すということでしかない。小説はそこで暴力性を倍増させる。そもそも「自分自身のために奪うのではない」という意味がわからない。もちろん小説家は自分自身のために他者の言葉を奪う。たとえば島崎藤村の「新生」がいまだに根強く批判され続けているのは、藤村が他者の言葉を奪いつつそのことを社会的に正当化した論理が「偽善」(芥川龍之介)と見なされているからである。小説はそれがはらむ暴力性を簡単には馴致されない。日比氏は、北条氏が金菱氏(北条氏が盗用したとされるノンフィクションの一つの編者)に宛てた謝罪の手紙に「震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」という告白があったことについて「作者よ、それをいっちゃぁ、おしまいだよ」と述懐しているが(「「美しい顔」それが提起した問題についての補遺」、前記ブログ)、そもそも「自己の内面」と縁を切った小説などあるはずがない。日比氏は「自己の内面を理解すること」を「正直言って読者にとってどうでもいい問題」と言っているが、その「どうでもいい」はずのことを貴重なものであるかのように感じる感性的転倒こそが、近代小説を可能にしたのであり、「自己の内面」は少なくとも著作権違反を恐れないで済む唯一の聖域でありうるのだから、北条氏がするべぎだったのは、むしろ一切参考文献などを参照しないで完全に「私の想像(あるいは妄想)した震災」を書くことだったのかもしれない。もっともその時その作品が新人賞を取れたかは分からない。日比氏は「三島由紀夫の「宴のあと」裁判も、伊藤整のチャタレー裁判も、渋澤龍彦のサド裁判も、柳美里の「石に泳ぐ魚」裁判も、みな同じような雰囲気だったのだろうと」と述べているが、「真実」と「フィクション」の関係の在り方において「美しい顔」問題はそれらとは根本的に異なっている。その「ポスト真実」的な性格、少なくともインターネットにおける炎上という意味において、「美しい顔」はやはり小保方事件や佐村河内事件との連続性の方が強いと私は思う。佐村河内事件でゴーストライターとして世間を欺くことに加担した新垣隆氏は、むしろそれがきっかけとなって作曲家として再生した。北条氏にとっても、もし本当に才能があるのなら、この事件はネガティヴなものではなくむしろ物書きとして得がたいチャンスになりえるのかもしれない。これもツイッターで同様の指摘があったが、もし「美しい顔」を単行本化するなら、なまじ本文を修正するのではなく、参考にした箇所にアンダーラインを引いて詳しく注釈をつけた方が、より文学的に優れたものになると同時に、後世への参考資料として役に立つものになるだろう。
 また日比氏は「直接的な震災描写を、7年後に小説で行うことは蛮勇である」と言うが、震災直後に「直接的な震災描写」を行うことは「蛮勇」ではないのかはともかく(そうした小説を私は知らない)、たかだか七年で相対化されてしまうほど震災の体験はちゃちなものだったのだろうか。そうだとすれば震災体験は文学のテーマとしてそもそもたいしたことのないものということになる。だからこそ「震災後文学」などという軽薄なコピーが生まれることになる。本当に深刻なテーマなら、むしろ百年後に初めて真剣に考察の対象となる(直接的な経験をした者が誰もいなくなった時に、直接的描写は可能になる)のではないか。
 たとえば「美しい顔」問題と同じ問題が、「慰安婦」についての小説で起きたらどうなるだろうかと私は考える。元「慰安婦」の証言を使いながらそのことを隠して見事な現実的効果を挙げる「慰安婦」の一人称語りの小説を、やはり若い日本の女性が書いたとする。彼女は「自己の内面を理解する」ために書いたのだとして、そのことが露呈した時、どういう事態が起るのか。日比氏のような批評家は「美しい顔」の場合と同様の論理でその小説を擁護できるだろうか。そう問う時すぐに思い当たるのは、現在の日本でそもそもそのような小説を書く「蛮勇」を持つ日本人作家はいないだろうし、発表できる媒体もないだろうということである。「震災」は小説にしろと煽るのに、「慰安婦」については沈黙するのが日本の文壇と言える(筒井康隆はブログで「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」などとつぶやくのではなく、実際に韓国へ行って「慰安婦像」に射精しようと試みる「ネット右翼」青年(あるいは中年)の冒険の物語を小説として書くべきだった。もっともそのような小説をリアルに書けるのは若き日の大江健三郎のような天才だけかもしれないが)。前者については「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」希望を捏造かもしれないが想像できるのに、後者についてはその想像力が機能しない。なぜなら「慰安婦」問題は、一つの「社会」の内部にとどまらず、韓国や中国など他の「社会」をまたがる「国家」の次元の問題になるからである。「社会的文脈」はそこでは不断に暴力的に切断され、回復されることなく奪われ続けるだろう。

六月に聴いたハイドン

 六月はハイドンの曲を取り上げた演奏会を三つ聴いた。一つはヤマハホールでのマルク=アンドレ・アムランのピアノリサイタル。冒頭ハイドンの48番のソナタを弾いたのだが、最初のフォルテから朗々とピアノを気持ちよく鳴らせて気持ちの良い演奏だった。ハイドンというと、ちまちまと音量を抑えて弾く演奏を聴かされてげんなりすることもあるのだが、アムランはベートーヴェンやシューマンと変わらない音量で聴かせてくれた。そもそもグランドピアノで演奏する時点で時代考証など無意味なのだから(時代を考慮するならフォルテピアノやチェンバロやクラヴィコードで弾けばいい)、楽譜だけを見てそこから可能性の限界を引き出すのが正しいと思う。アムランのハイドンのCDは全部持っているが、抑え気味の録音のCDに比べて、生で聴くアムランは豪快で痛快だった。演奏会全体の白眉はシューマンの幻想曲で、第3楽章が多様な表情を湛えて美しかった。以前私はユリイカの「我が鍾愛するピアニスト」のアンケートでインマゼールを挙げたが(トッパンホールで聴いた「十字架上のキリストの七語」の凄演に感動したという理由だけで、まったくいい加減なものだった。そもそもピアニストそのものにはあまり興味がない。もう少し後だったらリヒテルにしていただろう)、今ならアムランを挙げるかもしれない。秋にはポール・ルイスのハイドン絡みのコンサートを聴く予定なので、楽しみだ。
 後の二つは、鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ(ハイドンの交響曲(第3番・第102番とベートーヴェンの交響曲第8番)、アルトシュテット指揮ハイドン・フィルハーモニー(ハイドンの交響曲第92番・チェロ協奏曲第1番・交響曲第94番)のコンサートである。期せずして古楽器系の新旧ハイドン演奏の聞き比べができた。鈴木の演奏は、もう長年聞いて来たが、今回も期待通りの重厚なハイドンで、特に第102番を堪能した。早くロンドンセット全曲をこのオーケストラで聴きたいと強く思った。
 ハイドン・フィルハーモニーは、昔アダム・フィッシヤーと共に来日した時に、甲府まで聞きに行った記憶があるが、その時とはまったく面目を一新していて驚いた。以前聴いた時は、良くも悪くもウィーンローカルの少し田舎くさいもっさりした伝統を残した素朴な味わいを感じたのだが、今回は、現代最先端のとんがったハイドンで、少しの緩みもない迫力とアイデア満点の演奏だった。低弦を除いて全員が立奏していたのがまず目を引いた。バロック音楽では結構あるが、ハイドンでオーケスラが立奏するのは初めて見た。その結果あたかもオーケストラ全員がソリストのような自発性と積極性を持って演奏しているように見えた。視覚的にも波がうねるように音楽と共に奏者がダイナミックに動き、流動的な音楽に更に加速していた。立っているせいか分からないが、少人数なのに音量に不満はまったく感じなかった。古楽器の金管が好調でほとんどミスしなかったのも良かった。この演奏を聴いてしまうと、なぜふだんオーケストラはみんな座っているのか逆に不思議な気がして来る。ずっと立ちっぱなしでいるには体力が必要で、年輩の奏者にはきついのかもしれない。
 若いと言えば、指揮者兼ソリストのアルトシュテットも若かった。ダブダブのスボンを着て、指揮台の上でひたすら踊り続けるような指揮だった。チェロ協奏曲の時もソロが休みの時はすぐに振り返ってオーケストラを指揮する。これも体力が必要だろう。クラシックと言えば、老年の指揮者の「円熟」「深み」を聴くのが伝統的な鑑賞態度とも言えるが、私は少なくとも生で聴くときは、若い演奏家の演奏が好きだ。リズムも音程も音量も、若さによってしか達成できない力というものが確かにある。特にハイドンの音楽は、書かれた時期を問わず(いやむしろ後期の作品において)本質的に「若さ」を要求するところがある。
 新旧と言ったが、鈴木の演奏が悪いわけではない。音楽の方向性が違うだけである。アルトシュテットと比較すると、鈴木の音楽がブリュッヘンの系譜であり、重心が低く、実は伝統的な正統派の音楽を継承するものであることが見えて来る。それはそれで良いものであり、秋の「戦時のミサ」が楽しみである。アルトシュテットは初めて聴いたということもあるが、立奏という演奏法が如実に示すように、重力から解放されたハイドンの響きがとても新鮮に聴こえた。
 最後にこれはハイドンではなく六月でもないが、七月一日に調布のグリーンホールで、ラシェル・ポッジャーの無伴奏ヴァイオリン・リサイタルを聴いた。メインの曲目はバッハの有名なシャコンヌ付のパルティータだったが、私の目当てはビーバーのパッサカリアだった。グリーンホールは音響が良く、ヴァイオリンがとても豊かに聞こえた。パッサカリアは「ロザリオのソナタ」の最終曲であり、「守護天使」という標題を持つ。バッハのシャコンヌの先駆のように言われるが、私はバッハよりビーバーが好きである。下降音階がひたすら繰り返されるだけでこんなに多彩で神々しい(しかしどこか人なつかしい)音楽が生み出されるのだから、天才的と言うしかない。演奏会の受付で、サイン会用にポッジャーの「ロザリオのソナタ」を買いたいのに置いてないとオタクっぽくクレームをつけていた若者がいたが、日本では「ロザリオのソナタ」はまだまだ認知度が低いのかもしれない。ヴァイオリン・ソナタによってキリストの秘蹟を物語るこの連作は、イエスの生誕に始まり受難の後の復活にも多くのページを割き、イエスだけではなくマリアの昇天も描いていて、バッハのようなプロテスタント的厳しさの代りに、異郷的(異教的でもある)で甘美な抒情と哀愁に満ちている。今年出たラウテン・カンパニーの演奏のCDでは、「ロザリオのソナタ」とピアソラの曲が交互に収録されていて、刺激的な相乗効果を挙げていた。「ロザリオのソナタ」は曲ごとに調弦が異なるという特殊事情でなかなか全曲を同時に演奏するのは難しいのかもしれないが、ヴァイオリン音楽の一つの絶頂と言えるものであり、日本でももっと演奏されてほしい(そして聴きに行きたい)音楽である。

批評禁止令の下で

 前回の記事(「「編集者」の時代としての「平成」」)で、「平成」という無の時代を表象=代行する批評家として東浩紀を挙げたが、そう言えば山城むつみを忘れていたことに気がついた。そう思ったら読みたくなり、『ドストエフスキー』と『小林秀雄の戦争の時』を読み返した。読んだらやはりおもしろくて、以前より印象が良くなったが、しかし根本的な問題は変っていないとも思った。
 山城の批評は、ポール・ド・マンの批評を日本において最も誠実に受容し応用実践したものと評することができる。ただしその誠実さは誠実であることにおいてかえって不実な盲目を孕まざるを得ない。それはちょうど、中村光夫が田山花袋を批判して、作者と作中人物の区別ができていないことを指摘したこと(この指摘自体は正しいかどうかは疑問があるが)を連想させる。山城は作者としてのドストエフスキーや小林秀雄を全面的に肯定するところから批評を始める。それはまさに文芸批評の王道であり、文学と文学者への敬虔な信仰告白である。それを読むと、自分がいかに文学から遠く離れた邪道に陥っているか、文学と無関係な俗な人間であるのかと反省したくなる。だが同時にやはり、山城の描くドストエフスキーや小林秀雄に対する根源的な疑問も湧き起こってくる。
 たとえば山城によれば、小林は「「悪霊」について」の連載がスタヴローギンの告白にさしかかった時に、中国に行き、日中戦争の惨状を目撃した。現地の慰安所などを見学し、そのことを帰国後に文章にしたが、その文章は検閲の対象となり、切り取られた。山城はその削除部分を断片的に復元しつつ、小林が「悪霊」論を続けられなかったのは、慰安所などにおいて小林が目撃した日本の「悪」が言葉を奪ったのではないかと示唆する。これは確かに注目すべき論点である。しかしその後の小林は、この他者体験を乗り越える真剣な努力をしたのだろうか? 私は説得されなかった。「「一流の文学者」なら、必ずやそこから自らの『悪霊』以後を書くはずだ」と山城は書くが、ここには小林(そしてドストエフスキー、武田泰淳など)が「一流の文学者」であるという盲目的な前提があり、その前提から小林のテクストがすべて好意的に読まれている。この前提を支えるのが「一流」と「二流」以下との差別であり、その差別なしに(小林の批評もそうだが)山城の批評は始まらない。同じ身振りは、『ドストエフスキー』においても、二葉亭四迷の盲目的な特権化に見て取れる。山城は序章において二葉亭がドストエフスキーを当時の日本において唯一まともに受容した作家だったとした上で、二葉亭の死後大逆事件を経て「日本の近代文学は、二葉亭の頭ひとつ分、低くなった天地に急速に繁茂して行った」と述べる。この歴史観は、山城がなぜドストエフスキーを読むのかを正当化するために不可欠だが、役目を果たすとその後の論述からは消滅し、バフチンを下敷きにひたすらドストエフスキーの五大長篇の精読(それ自体はスリリングでブリリアントではあるが)が続く(そこでは鎌田哲哉のドストエフスキー論への執拗な論争的参照があり、平成批評の不在の中心が鎌田だったことを改めて感じさせる)。だが最後にもう一度二葉亭と日本文学に戻らないとこの本は本当に終わったとは言えないのではないか。いずれにしても、大逆事件まで二葉亭が生きていたとしてどんな態度を取ったのかは分からないし、二葉亭が他の文学者より「高い」ところにいたと見ることは、かえって二葉亭をモノローグ化することになるだろう。
 山城は「漱石の絶筆『明暗』の続編を書くのと同じ要領で『浮雲』の続編を書いてしまったら滑稽なことになるだろう」と述べているが、「滑稽」で何が悪いのか。『明暗』の続編として想起されるのは水村美苗の『続明暗』だが、水村の最大の問題点はむしろそこに必要な「滑稽」さが欠如していたことにある。 山城は『ドストエフスキー』の中でスタヴローギンの告白についてその「滑稽」さを分析しているが、『浮雲』の続編を書くことを「滑稽」と見なす山城氏は、スタヴローギン同様「笑いに耐える用意」ができていないように見える。少なくとも『浮雲』の続編としては既に田山花袋の『蒲団』が書かれていて、そしてその「滑稽」さは無視できないと私は思う。
 「滑稽」さと言えば、渡部直己のセクハラ事件のニュースには私も驚いた。私は渡部氏の批評に対しては『日本近代文学と〈差別〉』以来批判的で、『不敬文学論序説』については「早稲田文学」のデュアル・クリティックで長い批判文を書いた。私には渡部氏の批評がテクスト論とPC的なものの野合のように感じられて、その「友」と「敵」の峻別の仕方の恣意性に反発した。一方で文学が「差別」に荷担するだけなら文学などなくなってもいいと言いながら他方で「過剰」な文学はその限りではないというロジックがダブル・スタンダードに見え、「過剰」の基準が曖昧に見えた。今考えると渡部氏が振り回していたのはPCというよりは江戸的な「勧善懲悪」だったのかもしれない。「俺の女になれ」という真偽不明の発言が話題になっているが、これが事実ならそれは花袋というよりは岩野泡鳴的に感じられる。実際渡部氏は初期に熱烈な泡鳴論(テクスト論的に自然主義文学を読み破るという点で当時は画期的であり、私も影響を受けた)を書いている。ただ渡部氏のセクハラに、泡鳴の刹那主義・半獣主義の強度はなさそうだ。昔懐かしの柄谷行人風に言えば、「暗闇の中の跳躍」に失敗したのだから、ご愁傷様と言うしかない。
 渡部氏についてのツイッターの発言をたどっていたら、去年週刊読書人に載った柄谷行人との対談「起源と成熟、切断をめぐって」へのリンクがあり、読んでみると、その中で渡部氏は、東浩紀を「マルクス的柄谷」、山城むつみを「キルケゴール的柄谷」と命名して、現在の若手の批評が東派と山城派に分かれていると述べ、東を絶賛していた。柄谷からは「「マルクス」系の方は、あまりマルクス的ではないという感じがするね」とたしなめられていたが、さすがに東がマルクスというのはないだろう。渡部氏は世間的には得意の絶頂だったのかもしれないが、批評家としての目は曇りすぎていた。
 前回記事で取り上げた『現代日本の批評』シリーズの東は、端的に言って「社長」であり、むしろマルクスに打倒されるべき存在である。他の批評家は全員「社長」にへつらって御説ごもっともと相槌を打つ無自覚の「幇間」といった感じで、そのことへの違和感が、私に批判的な記事を書かせたのだが、その「幇間」の一人だった市川真人も、今回のスキャンダルの隠蔽に関与した当事者として暗黙に名指されている。私は二〇一六年冬号の「早稲田文学」の「快楽の館」特集(篠山紀信撮影のヌードを背景に文壇人たちの仲良しこよしぶりを見せつけるためだけに組まれたようなもの)を読んで異様な印象を受け、このブログの「アレテイア」という記事(2017-1-27)で批判的なことを書いた。その記事で私は川上未映子を山田順子に喩え「顔写真付き「女流作家」」と形容した。すると川上は村上春樹との対談本の中で、私の名前を出さずに「女流作家」という形容は差別だと批判し、その後責任編集で「早稲田文学 女性号」を出した。まさか私の記事がきっかけになったのではないと思うが(私はもう長く文芸誌に書いていないし、川上氏とも話したことはなく、自分が文壇人に影響力のある存在とは信じられない)、この女性号を見ても、何か自分を誇示しようと虚勢を張っている感じが見ていて痛いところがある。巻末に置かれた「フェミニズムと女性に近づくかもしれない23冊」(豊彩夏選)は、ヴァージニア・ウルフに始まり川上未映子で終わっているが、仮にも自分が責任編集している本で、こんなに露骨に自分上げを許して良いものなのか、その無邪気さには毒気を抜かれる気がした。大文字のフェミニズム文学の歴史の中に自分を位置づけることに照れのないこの無邪気さは、やはり徳田秋声が描いた「現代のノラ」山田順子の無邪気さを想起してしまう。樋口一葉の「大つごもり」を現代語訳して載せているが、盗みを働いた女の子をイケメンの不良若旦那が救ってくれるという話は、フェミニズム的にはどう解釈できるのだろう。
 私は山田順子に必ずしも批判的ではない。山田順子的なものが勝利する文壇というのも、それはそれでおもしろい。私にはどっちみち関係のないどうでもいい遠い世界の話である。「女性号」はガチのフェミニストには評判が悪そうだが、そう感じるのは男性作家にも配慮し女性側の反省もしているところが、カマトトぶって見えるからかもしれない。いつかは新たな『仮装人物』論を書きたいと思っているので、むしろ川上未映子を鏡にして(もちろん両者は全然違うので、そのギャップも含め)山田順子を論じる手がかりが欲しいと思っている。とにかく今回の渡部氏のスキャンダル報道以後にネットで交わされている真偽の入り混った幽霊たちの言葉を流し読みしていると、昔少しは交流があった「早稲田文学」に関係する人々が文字通り「仮装人物」と見えて来ることに不思議な感慨を覚える。文壇にかかわることは、人を「仮装人物」にしてしまうのだろうか。
 川上未映子については、その新しい短編集『ウィステリアと三人の女たち』を蓮實重彦が絶賛している。小谷野敦氏(ちなみに今度発売された『子午線』第6号の安里ミゲルの詩「主体百六年冬十二月丁酉校聖親肇作憲法十二条」では「東の横綱大江健三郎西の横綱大西巨人から序の口小谷野敦にいたるまで」と、小谷野氏も「文豪族」の末席に入れて貰っている)が私の感想を知りたいようなことをツイッターでつぶやいていた。別にそれに答える義理はないが、興味を持ったので川上の新著を読んでみた。どの作品も散文詩や歌詞を引き延ばしたような趣がある。視点人物が唐突に変わったりするのは、渡部直己が宣伝していた「移人称」(大正時代の「主客合一」の精神を格好良くいいかえたもののように見える)と関係があるのだろうか。隠喩はちょっと村上春樹風に感じた。ヴァージニア・ウルフへのオマージュは、そう言えば山田順子はコレットにあこがれていたなとまたもや条件反射的に連想したが、秋声が順子を「コレツト女史を逆で行つた」と評するのに対して、蓮實は、ウルフの再来として川上を絶賛する。蓮實は「この書物を書きあげたわたくし自身にわたくしは敬意を払う」というウルフの言葉を引用し、それに似た「敬意」を集中の「マリーの愛の証明」に覚えると語る。しかし作者の自作への「敬意」と、読者の他人の作品への「敬意」はどうしたら類似できるのかを蓮實は説明しないので、読者には何のことか分からない。ここにも「主客合一」の大正的身振りがある。川上を絶賛する蓮實は、「高等幇間」という感じがする(単に阿部和重の配偶者だから褒めただけかもしれないが)。現代日本文壇において批評家は「幇間」としてのみ存在を許されているのかもしれない。東の「幇間」でなくとも、石原慎太郎とか保坂和志とか他にも仕えるべき「主人」はいるだろう。蓮實の場合は谷崎の礼賛者であるので、「幇間」であることに倒錯的な喜びがあるのかもしれない。女性号の座談会の中で女性批評家はなぜ現れないのかというこれまでも繰り返されて来た問いが提起されているが、「幇間」とはその本質において男性である以上、「主人」から解放されたいと願う女性がなりたくないのは当然とも言える。
 いとうせいこうが今年『小説禁止令に賛同する』という近未来小説(作中では馬琴が愛用した江戸小説の根本技法「偸聞」(たちぎき)についての渡部直己の言説が引用される)を出しているが、この小説がピンボケに見えるのは、現代において「禁止」されているのは小説ではなく批評だからである。現在ほど小説家が批評を気にしないで心安らかに小説が書ける幸福な時代はかつてなかった。現代日本文壇に布告されているように見える「批評禁止令」(小説を批判してはいけない)の下で渡部氏がむしろ生き生きとして見えたのは、渡部氏の批評がそもそも批評ではなかったということなのかもしれない。
 今回のスキャンダルでは、渡部氏が長年「抑圧」(?)してきた小説家のファンと見られる人々から、口々に自分ひいきの作家を擁護する声が聞こえ、その擁護された一人である筒井康隆が、かえって渡部に理解を示すツイートをするという滑稽な場面もあった。『子午線』第6号に書いた論文「ただ一つの、自分のものでしかない歴史」で私は、元「慰安婦」の少女像についての「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という筒井の発言をめぐり、一章を費やして論じているので、興味のある人はそれを読んでほしい。この論文は、かつて「早稲田文学」で連載した「日本人の条件」の憲法九条論をバージョンアップさせたものでもあり(一部重複している部分があり、また本ブログの記事「日本国憲法における贈与と交換」もはめ込んでいる)、「早稲田文学」では市川氏に大変お世話になったのにうまく書けなかったテーマが、今回はずっと納得のいく形で書けたと思っている。
 スキャンダルの舞台になったカフェ・コットンクラブは、リニューアル後の「早稲田文学」新人賞授賞式の会場でもあった。今後「早稲田文学」が続くにしても、ここで新人賞はやらないだろうな、と本当にどうでもいいことを考えた。

「編集者」の時代としての「平成」

   「平成」という時代は来年3月に終わる予定である。元号で何かが区切られると考えるのは、それ自体天皇制への屈服なのかもしれないが、しかし現に天皇制が厳然として機能している以上、これが日本の現実でもある。とはいえ「平成」という時代は何だったのか振り返って見ても、そこにはただ茫漠とした無があるだけだったという印象しかない。
 最近東浩紀監修『現代日本の批評2001-2016』を図書館から借りて来て拾い読みをし、この無という感覚を一層深く感じた。本当に何もないという現実がそこにはある。この本はその前編の『現代日本の批評1975-2000』と同様、かつての批評空間の座談会『近代日本の批評』シリーズを模倣した試みに見えるが、それらは続編のような体裁を取っているためになおさら、模範との違いが露骨である。『近代日本の批評』シリーズは、柄谷行人と蓮實重彦という二人の対照的な批評家を軸に、浅田彰を司会役として、一応批評家による批評史の提示となっていた。これに対して、東監修の『現代日本の批評』は、批評家の座談会というよりは、「編集者」の座談会という感じがする。実際そこに参加している人たちは東を初めとして批評家というよりは「編集者」あるいは「プロデューサー」と呼ぶべき人である。必然的にその話の内容は徹頭徹尾マーケティング的なものに終始せざるを得ない。参加者の一人佐々木敦は「東浩紀ひとり勝ち」と言っているが、この「ひとり勝ち」の意味は、東が平成にデビューした批評家たちの中で同時代的に最もメディアの人気者だった(所詮「マイナーの中のメジヤー」ということに過ぎず、それ故に文学・文壇に寄生し続けているわけだが)ということしか意味していない。
 『近代日本の批評』シリーズは、近代文学史・思想史についての通説的な論点を踏まえた上で、そこにポレミカルな新しい視点(たとえば福本イズムの再評価)が導入されていた。これに対して『現代日本の批評』には圧倒的に視野の狭い「編集者」たちの自画自賛の無駄話以外何もない。これはすなわち「平成」という時代そのものを表している。そのことは、『近代日本の批評』シリーズの中で蓮實重彦が「大正的なもの」について語ったことを想起させる。「平成」はちょうど「大正」の倍の長さを持つことになるのだが、それはただでさえ前後に比べて中身の薄かった「大正」という時代を、更に二倍に薄めた内容しか「平成」は持てなかったということである。
 実際「大正」は「童心」の時代とされるが、「平成」はゲーム・マンガ・アニメなどヴァーチャル・リアリティにフェテイシズム的に執着する「おたく」(「アダルト・チルドレン」は今は早くも死語になってまったが)の時代だった。「平成」が「大正」の倍あることは、端的に平均寿命が延びたことを示していて、そこでは老人が壮年の仕事をし続けると同時に、若者は何時までも大人の仕事ができない。比べるのもおこがましいかもしれないが、「大正」時代に重要な仕事をした文学者が漱石・鴎外・自然主義・白樺派・耽美派と、いずれも明治時代にデビューした人々であったように、「平成」時代に重要な仕事をした文学者は、「昭和」にデビューした人々だったように見える(女性作家は「平成」デビューでも質は落ちていない)。すなわち小説で言えば、個人的な評価は別にして大江健三郎、古井由吉、村上春樹といった既成作家たち、批評家で言えば柄谷行人や蓮實重彦をはじめとして絓秀実や渡部直己などである。「平成」を代表(表象=代行)する東浩紀のすべての仕事と、同時期の柄谷や蓮實が残した仕事とを比較するなら、後世に読み継がれるテキストとして残るのは後者であることは間違いない。『クォンタム・ファミリーズ』と『伯爵夫人』を比較するなら、後者の方が圧倒的に才能もアクチュアリティーも上であることに文学の残酷さを感じる外ない。東は批評の書き手としてよりも、市川真人などと同様プロデューサー、編集者として記憶されるだろう。そのスタイルの原型は浅田彰が作ったものだが、浅田がまだ持っていた美的センスや「歴史」についての感覚を東は完全に喪失している。それは「平成」という時代そのものが「歴史の終わり」の後の時代だったからだ。「歴史」が終わっている以上「批評史」などというものがあるわけがない。そこでは時間の流れは完全に止まっていた。
 『現代日本の批評』には余程ネタがなかったのか、「重力」のことも否定的なエピソードとしてではあるが少し触れられている。「重力」は、端的に言って、ダメ批評家とダメ編集者とダメ演劇作家とダメ映画監督とダメ詩人とダメ経済学者が集まって、リサイクルを目指したような所があったが、批評家が重複していたのが問題だったかもしれない。ともかく鎌田哲哉以外はそれなりに「更生」しているらしいが(逆「玉の輿」に乗ったり、早稲田の教員になったり、詩の賞をもらったりetc)、鎌田だけは、おそらくまだ自らの重力が作り出したブラックホールの中で「穴つるし」に耐えているのだろうと推察している。そして、何もしていないように見える鎌田と、あらゆることをやり尽くしているように見える東が、今や結果として批評的には等価値だったと言わざるを得ないところに、絶対的な「無」としての「平成」という時代の特質がある。
 「大正デモクラシー」に対応するものとして「平成デモクラシー」というものを考えることができるかもしれない。マーケティングに不毛に過敏であることは、文学者が自分を特権的な人間とみることができず、骨の髄までただの人間になったということを示している。自分の価値を少なくとも一万人の人が認めてくれなければ確信できないという発想は、三割の支持があれば維持できる現在の政権のミニチュア版的なものと言え、確かに「民主主義」(「一般意志2.0」?)には違いない。ただしそれは「幽霊的民主主義」と呼ぶべきものである。ツィッターのフォロワー数やアクセス数やいいねの数とはまさに、幽霊による投票であり、そしてその幽霊の実在を信じることが、「幽霊的民主主義」を支えている。だが幽霊は存在しない。それは無である。無は何個集まっても無である。そのことが露呈する時、「幽霊的民主主義」は崩壊するだろう。
 私は遠くないうちに出るはずの「子午線」6号に寄稿した評論のマクラで、「明治」を「精神」の時代、「大正」を「身体」の時代、「昭和」を「ロボット」の時代、「平成」を「亡霊」の時代と位置づけた。亡霊あるいは幽霊の時代としての「平成」が終われば、何かが変わる気がする。「大正」の後の「昭和」がろくでもない時代だったことを考えれば、それは悪しき変化かもしれない。実際「平成」という時代は、後世から見れば、天災はあったが、のんべんだらりとゲームばかりしていたお気楽な良い時代だったと評価されそうな気もする。少なくとも私にとって生活的には、昭和末期と比べてとても居心地の良い、小春日和の午後のような時代だった。

ハイドンを探して

 サイモン・ラトルという指揮者は、ハイドン好きを公言している割にはあまりピンと来るCDがない。ベルリン・フィルとの交響曲88~92番の録音は生気に乏しくモノトーンで、ボーナス・トラックとして入っていた90番のフィナーレのライヴ録音だけが音が鮮明で生き生きと輝いていた。過去のバーミンガム市響との録音も、世評の割には平凡にしか聴こえない。これは演奏以前に録音にも問題がある。ハイドンに限らずラトルのCDは音が悪いのが多く(少なくとも私の再生装置では良くきこえない)、その真価は実演を聴かなければ分からないに違いない。しかし来日の時はチケットが高いので聴いたことはない。
 2月に買った新譜「ハイドン:想像上のオーケストラの旅」も、相変わらず音質を含めて隔靴掻痒の感があった。「ハイドンの広大で多様な作品の中から最も奇妙で先見的なものを集めた「グレイティスト・ヒット」集」とあるが、そこに集められた作品の選択と配列は、B級BGM集という感じであまり私の趣味にはかなっていなかった(どうせB級なら私だったらたとえば交響曲64番のラルゴの代わりに93番のファゴットの放屁付きラルゴを入れたい)。実演なら効果的なのかもしれないが、CDでは客観的になってしまいユーモアが滑って「これじゃない」感が強くなる。最後の音楽時計から90番のフィナーレへのつなぎはなかなか良かったが、結局ラトルは、私にとっては、90番のフィナーレに隠された偽終止のユーモアを発見し世間に周知させた存在という以上にはなっていない。いずれにしてもCDでその演奏家の真価を測るのは不可能なので(録音の仕方で音楽はまったく変わる)、私の中でラトルは少なくとも当分謎のままであり続けるだろう。
 同じ頃に「ハイドンを探して」(In Search of Haydn)というハイドンについて啓蒙的に紹介するDVDを買って見た。こちらは基本的にはハイドンの音楽と生涯を啓蒙的に紹介するという形を取りながら、そこに最新の研究や新しい視点を入れていて、面白い指摘が随所にあった。中でも「朝」「昼」「晩」はアイゼンシュタットのハイドンザールの天井画に着想を得ているという話や、ベートーヴェンのピアノ・トリオ作品1(その3番ハ短調は、ハイドンが出版しないように言ったという、ハイドンによるベートーヴェン抑圧伝説の起源の一つになっている)の1番の出だしが、ハイドンの嬰ハ短調のクラヴィーアソナタの出だしにそっくりだといった分析が面白かった。もっとも私は、「ハイドンなしではモーツァルトやベートーヴェンはありえなかった」といった類の評価(これはハイドン没後二〇〇年記念にドイツで出された『私たちのハイドン』の中で多くの演奏家や指揮者が言っていたことだが)は、好きではない。ハイドンはモーツァルトやベートーヴェンは全く異なる価値を持つ全く別の存在なのであり、いかなる意味でも比較するべきではない。だが、クラシック愛好者はどうしてもそこにランクを付けたがる。このランク付けの欲望はハイドンに対してだけ発動するように見える。クラシックの「大」作曲家たちの中で、ハイドンのような微妙な評価のされ方をしている存在はない。DVDの中で、指揮者のノリントンは誰にでも理解できるハイドンの交響曲の革命的民主性の危険性をパリの王侯貴族たちは気がつかずに喜んでいたと皮肉っていたが、フランス革命後の「市民社会」がむしろモーツァルトやベートーヴェンと彼らに憧れたロマン派のような難解で誰でも理解できるわけではない反民主的な音楽を好むようになったのは、更に逆説的な皮肉と言えるだろう。クラシック音楽というジャンルそのものが、自分を特権的な個人と思いたいブルジョワのための音楽としてその時確立したのだと私は考えている。
 ともあれ「ハイドンを探して」は、ハイドン初心者よりも愛好家に役に立つような濃い内容のもので、アックスやアムランなどのピアニストがソナタの一節を弾いて見せて分析するのも良かった。そしてその中で最も気になったのは、ハイドンのオペラが高音に偏っていて、ソプラノに良い曲が多く、男性低音にめぼしい曲が少ないという指摘だった。これはかねてより私も感じていた傾向で(晩年の『天地創造』と『四季』に至ってやっとバスは主役の一角を占めるようになって来る)、男性役はテノールの場合が多く、主役がバス・バリトン系なのは『月の世界』(だからこの作品はハイドンのオペラの中で最も人気がある)ぐらいである。ハイドンのオペラが今一つ再評価されにくいのは、その音楽に低音が不足していることが大きいのかもしれない。
 これはエステルハーザに良い低音歌手がいなかったのからか、それともエステルハーザ侯の好みだったのか、と思って検索してみたら、関口信雄という人の「バリトンについての一考察」という論文を見つけた。二期会の歌手として長いキャリアを持つ関口氏によると、18世紀のオペラでは、若い王子のような主役はテノール、年老いた父親のような脇役はバスという割り振りが一般的であり、それに対してモーツァルトは主役級にバリトンを起用することで、オペラに一つの革命をもたらしたのだと言う。確かにモーツァルトのオペラでは、フィガロやアルマヴィーア伯爵、ドン・ジョヴァンニとレポレロ、ザラストロのように魅力的なバス・バリトンが劇の中心となることが多い。私がモーツァルトをハイドンより「男性的」と感じる理由でもある。「男性的」と言って語弊があれば、ヘテロセクシュアル的と言うべきか。これに対してハイドンの音楽は性的な比喩にうまくはまらない。ハイドンのソプラノ曲には「ベレニスのシェーナ」と「ナクソスのアリアンナ」という男に捨てられた女性の嘆きを歌う名曲があるが、これらの曲に切実な実感が籠もっているのは、エステルハーザ宮に閉じ込められて外界から遮断されていたハイドン自身の状況と重なっていたからのようにも感じられる。
 重低音が不足していることは必ずしも欠点ではない。十九世紀的なロマン主義の重力を知らず、それから自由であったとも言えるわけで、私はハイドンを「音楽史」あるいは「歴史」とは切り離して聴いている。私が現代楽器よりも古楽器演奏を好むことはそれと矛盾してはいない。古楽器演奏は、十九世紀的な有機的・進化論的「歴史」を解体する。最近はまるで雅俗折衷体みたいに、現代楽器と古楽器とのハイブリッドの演奏に落ち着きつつあるようだが、かつてのアーノンクールとウィーン・コンツェントムジクスのようなラジカルな古楽器演奏の可能性はまだまだ汲み尽くされていないと思う。

パンダと無意識

 蓮實重彦の「パンダと憲法」(「群像」二〇一八年一月号)を読んだ。民主主義は好きになれない。それはそれが表象=代行作用に支えられているからだけではない。もっと体質的に好きになれない。それは論理的に説明できないので比喩的に語るしかない。そう述べる蓮實は、ボージョレ・ヌーボー、ジャイアント・パンダ、駅伝を比喩の候補として挙げる。これらのほとんど村上春樹的とも言える(蓮實は律儀にも村上春樹に対する評価を「どうしても好きになれない村上春樹がノーベル文学賞を受賞して何の不思議もなかろうと思う」と、以前より少し上げて見せている)比喩の中でも、パンダについての言葉(「民主主義がパンダのように怠惰なのは、自然を人為的に統御しない限り、この中国産の大きな動物は嫡出子を残すことすらできないからである」(文章が微妙に変だが))は、現在の天皇の在り方の隠喩のようでもあり、また『伯爵夫人』における二朗への女たちの苛立ちにも似ている。そして蓮實は現在の政権が民主的な方法で改憲しようとしていることを批判し、現在の首相を「革命やクーデタを実践する勇気などとても持てそうにない男」と言って挑発する。
 この文章を間違っても民主主義否定の文章と読むべきではない。民主主義が好きではないというのは、民主主義社会の典型的な紋切り型に他ならない。実際蓮實自身、民主主義によって東大総長になったわけだから、民主主義を嫌うことは民主主義社会で手っ取り早く人気者になる方法に違いない。そして民主的手続きによって総長になった蓮實が「大学改革」において果して「テクストの官僚制」を逃れることができ、「変化に向けての不断の運動」に貢献できたかどうかについても問わずに置く。とにかく蓮實は民主主義=憲法が好きではないが、それは憲法を面白く読める読者がいないためでもある。「この世界には憲法より大事なことが多々ありながら、妥協の産物にすぎない憲法を論じる者のほとんが、そのことをきれいさっぱり忘れているかに見えることがとめどなく不愉快なのだ」。
 ここで蓮實が槍玉に挙げる「憲法を論じる者」の中に、柄谷行人は入っているのだろうか。柄谷は去年の毎日新聞のインタヴュー(「そこが聞きたい 憲法九条の存在意義」二〇一七年十一月二十七日)で、『憲法の無意識』の主張を改めて述べているが、それはネットで拡散されて少し炎上したらしい。何を今更という感じで、ふだんいろいろ柄谷の批判をしている私は、逆に擁護したくなりさえした。柄谷の憲法論はそう簡単に乗り越えられるものでもない。確かに「ルーツは「徳川の平和」」などと言われると「何ぽけてんねん」と偽関西語で突っ込みたくなるが、少なくとも実際に憲法が改正されない限りは、「どうだ、いくら意識では憲法を否定してもお前らは無意識では憲法を守っているんだ」と言い張ることができる言説装置にはなっている。そしてこの「無意識」という概念は「きれいさっぱり忘れている」という蓮實の言葉と微妙に響き合っている。やはり柄谷と蓮實というバブル時代の黄金批評コンビは、現在でもセットになって一つの認識論的布置を作り続けている。
 私は以前の「早稲田文学」連載で、憲法九条と「ロボット工学三原則」のアナロジーを考えたが、これは言わば「憲法の無意識」を言語的に実体化して考察しようとしたものだったと言える。私がもたもたしている間に柄谷に先を越された気分だが、今「子午線」のために「慰安婦」問題(私は少なくも「最終的かつ不可逆」などというホロコーストの「最終的解決」を連想させるレトリックには反対であり、この点では「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない」という漱石の言葉に同意する)について長い論文を書いていて、そこで「8月革命」としての憲法の意味を改めて考え直しているところである。柄谷と蓮實の閉域を突破することは容易ではないが(出るのはある意味簡単だが、大抵知的レヴェルが落ちる)、何か糸口をつかみたいとは思っている。
 ところで「群像」を久しぶりに読んだが、連載小説に「前回までのあらすじ」が付いているのに驚いた。この「あらすじ」は編集者が書いているのだろうか。近代文学の学会誌『日本近代文学』の論文に「キーワード」が付くようになった時も思ったが、顧客優先・読者優先的な官僚主義的配慮(民主主義的には変だと思わない人が多いのかもしれないが)がなし崩し的に浸透して来るのは確かに不愉快ではある。今の「群像」をどういう人が読んでいるのだろう。
 同じ「群像」のアファナシエフと吉増剛造の対談で、アファナシエフが「マーラーの一〇番の交響曲も一楽章しかないですが、未完成ではなくこれで十分、ハーモニーのレベルでは、すでに成立しています」と言っているのには、やはり趣味が合わないと思った。私はマーラーの中では一〇番のクック版フィナーレ(前にも書いたがギーレンによるCD-R盤)を最も愛しているので、一〇番が一楽章だけだったら随分マーラーを聴く喜びが減る。アファナシエフは大昔の来日公演でベートーヴェンの32番を聴いて結構感動し、シューマンのクライスレリアーナのCDを思い出したように聴くことがあって、それなりに優れたピアニストとは思うが(最近は全く知らない)、ハイドンをやりそうな感じはないので、あまり関心が持てない。ハイドンを軽視するロシア・ピアニズムの伝統の中でかつてあれだけハイドンを取り上げたリヒテルは偉かったと今さら思ったりした。

脱構築とジャッジメント

 十月末から十一月初めにかけて、七泊九日で、フランス・パリとブルガリア・ソフィアに行って来た。これは首都大の同僚の西山雄二氏とソフィア大学のダリン・テネフ氏が企画した首都大・ソフィア大合同の国際シンポジウム「世界の創造と破壊」に参加したものである。どちらも初めての国と都市だった。パリの自由行動の際、マリー・アントワネットの歴史館に行ったのだが、一緒に回ったドイツ文学の先生がクラシック音楽に造詣が深かったので、ハイドンの「王妃」交響曲の第一楽章に突然「告別」交響曲の動機が暴力的に出て来るのは、故郷オーストリアを思うマリー・アントワネットの気持ちを表しているのではないかという自分の仮説を話そうとしたら、つい声が大きくなってしまい、うるさいと館の人から注意され、マリー・アントワネットに不謹慎を叱られたような気がした。パリ(行ったのはカルチエ・ラタン付近だけだが)は美しく優雅で静かな街で、もっと事前に調べて行けば良かったと後悔した。行ったレストランはどこもおいしかったが、やはりドイツ文学の先生が探し出した店で食べたガレットが一番印象に残った。
 本番のソフィアでのセッションでは、「幽霊化するカタストロフィ ―3・11以後の日本の文学と思想」という題で発表した。他の首都大の先生たちはみな英語で発表し質疑応答も英語だったが、私は英語が聞き取れないので日本語で原稿を読み上げ、ソフィア大学の人たちはソフィア大学の大学院生が翻訳したブルガリア語の原稿を目で追うという形を取った。このセッションに集まった人々の中でただ一人英会話ができない存在として、言葉が通じないということがいかに「動物」的な体験であるかを改めて実感した。デカル風に言えば「私は翻訳できない、故に私は動物である」という気分だった。私の発表自体は放射能災害の不可視性を軸として、和合亮一と大江健三郎(『晩年様式集』)と「シン・ゴジラ」を批判的にレビユーしただけで、あまり生産的な内容ではなかった。発表後の質問で、現代日本文学の何が問題なのか問われたので、PC的な禁忌に縛られすぎていると答えたが、これは十分に意を尽した答えではなかった。また東日本大震災に限らずすべての災害には不可視の要素があるのではないかという質問には、すべてを一般性に回収して固有なものを認めない哲学的な思考の原型のようなものを感じた。質疑の中で村上春樹の批判を少ししたら、後で村上は世界中で読まれているのに何が悪いのかと聞かれ、これもきちんと答えられなかった。準備が足りずいろいろ反省点が残ったが、それでもブルガリアの文学雑誌(?)にそのブルガリア語訳の原稿を載せてくれるとのことで、改めてテネフ氏と西山氏に深く感謝する外ない。
 西山氏は最初に「日出る国の門の前で;日本におけるジャック・デリダ」(原文は英語)という題で発表した。あらかじめ英語原稿を貰っていたので内容は把握できた。日本におけるデリダ研究の系譜とデリダの日本との関わりをレビューするものだったが、最後に「アレテイア」が紹介されていたのには、以前のブログ記事(「アレテイアについて」)を思い出して一人で受けていた。ただ「判断あるいは批評的評価の権威は脱構築の最終審級の権威ではない」(The authority of the judgement or of the critical evaluation is not the authority of the last instance of deconstruction.)というデリダの言葉(Points de suspension)が引用されているのを読んで、一つの疑問が浮かんだ。発表の中で高橋哲哉が日本におけるデリダ的脱構築の実践者として高く評価されていたが、高橋は歴史認識問題に対して「ジャッジメント」(judgement)を下すことを主張し、「女性国際法廷」にコミットしていた。その振舞いはデリダから見たら脱構築的ではないのではないかという疑問だった。そこで会が終わった後で個人的に西山氏に聞いてみた。すると西山氏の答えは、「女性国際法廷」は国家による公的なものではないから「ジャッジメント」ではないというものだった。私は納得できなかったが、高橋の言説について記憶が正確ではなくうろ覚えだったのでその場ではそれ以上議論しなかった。しかし帰国してから高橋の『戦後責任論』を読み返すと、やはり高橋の論理は自分でも言っているように「ジャッジメント」なのではないかと思った。「女性国際法廷」は確かに国家の法廷ではなかったのかもしれないが、法廷には違いないのであり、そしてそれが仮に私的な法廷であるとすれば、そこで下される裁きは私刑であり、リンチ的な要素を排除できない。しかもその私刑は公的な刑罰によって代補されることを政治的に欲している。実際高橋の言説は、韓国の国家的裁判所が『帝国の慰安婦』を書いた朴裕河に有罪判決を下したことによって代補されているのではないか。高橋は朴氏の裁判についてどういう態度を取っているのか、私はまだ調べていないが、もし発言があるなら読んでみたい。
 高橋は、『戦後責任論』でホロコースト加害者の死刑を支持したアーレントについて、「「復讐」を否定した公的空間が、その公的空間そのものの存在に敵対するような「犯罪者」に処罰を発動するとき、それがかぎりなく「復讐」に近づいてしまう可能性がある」として、「アーレントが拒否したはずの全体主義の論理がある形で反復されている」と批判する。そして代りに「この反復を断ち切る方向、つまり「世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利があるかのように人を殺す」ことを徹底して拒否する方向で、「処罰」の道を採るべき」と主張するが、「復讐」ではない「処罰」とは一体何か。たとえば朴氏への有罪判決は「復讐」ではない「処罰」なのだろうか。高橋は、「いかなる赦しもない処罰は復讐となり、いかなる処罰もない赦しは神の赦しになる」と言い、両者の中間に立つことを主張する。しかし高橋が「慰安婦」被害者の発言の中にに見る赦しを含んだ処罰、処罰を含んだ赦しとは、結局処罰対象者から新たに「復讐」されることを排除しているという意味で二重に「復讐」することに外ならないのではないか。デリダは赦しを無条件のものとしていたと思ったが、高橋は条件付きのものとして定義している。反省する日本人は赦すが、反省しない日本人は赦さないというわけである。しかしそれでは反省しない者は、やはりこの世界に生きる資格を奪われるのではないか。
 西山氏は発表の中で、来日時に京都の寺の門の前にたたずむデリダの写真を見せてくれた。それはもちろんカフカの『掟の門前』のパロディ的身振りなのだろうが、日本のデリダ研究者は、門の前にたたずむのではなく、むしろ門を建設し門そのものと化す傾向があるような気がする。東浩紀もデリダをコンスタティヴに読むと称するところから、論壇・文壇の権力者になって行った。「脱構築」は相対主義ではないと言うが、むしろ実践的には絶対主義に親和的に見える。「脱構築」的絶対主義は通常の素朴な絶対主義より絶対的でありうる。たとえば東が何を発言してもそれは「誤配」と意味づけられることで自動的に応答しないで許される構造ができている。哲学者は自分の言説の不完全性は認めても決して誤謬は認めない。この傾向は「エクリチュール」=「文字」が制度的なものなしには成立しえず、制度に依存し寄生するしかないという認識から必然的に生じるのだろうか。私は「脱構築」は相対主義でも絶対主義でもない宙づり状態に耐えることだと思っていたが、それは違うのか。
 私は「幽霊」「散種」「毒=薬」等々、デリダ的な言葉とレトリックを好んで自分の批評の中で用いて来たが、本当のデリダが分かっているとは思わない。私はデリダの嫡出子たちの中にはおらず、ただ文字通り「門前の小僧」としてデリダ用語を正確な意味も分からずその文学的な喚起力に魅了され、盗んで使っているだけである。ソフィアでのセッションで私は自分が哲学者ではないことを改めて確認した。そのことだけでもこの旅は私にとって大きな意味があったと思う。

未来の戦争責任

 北朝鮮の核実験・ミサイル実験による国際関係の緊迫が連日ニュースで報道されている。無意味にそれに踊らされても仕方ないが、この際考えてみたいことがある。それはこのまま情勢が進んで仮に本当に未来に戦争が起きた時、その結果に対する責任を誰がどのように負うのかということである。
 このことを考察するには、戦争がどのような形で起きるか、様々な可能性に分ける必要がある。まず①アメリカが先制攻撃して北朝鮮を壊滅させた場合。アメリカは、そこで起きるかもしれない大量死について責任を問われるだろう(責任を認めないのは確実だが)。そしてその時日本は同盟国としてアメリカにどれだけ協力したかに応じて、連帯責任、あるいは同等以上の責任を負わされるかもしれない。そして北朝鮮の人々の憎しみはアメリカよりも日本に向けられるかもしれない。またこの戦争の中で反撃した北朝鮮の核ミサイルが仮に日本に着弾して多大の死傷者が出たら、その責任はどこにあるのか。北朝鮮に責任があることは確かだが(自分のミサイルが他国を傷つけても責任はないと言い続けているが)、先制攻撃をしたアメリカ、その同盟国の日本にも責任があるということになるのだろうか。
 次に②北朝鮮が先制攻撃をした場合。北朝鮮の核爆弾が日本で着弾爆発して、多数の死傷者が出たとしたら、その責任は第一に北朝鮮にある。そしてその時、北朝鮮の独裁者と軍部だけに責任があるのか、それとも北朝鮮人民全体に責任があるのかは、過去の日本の戦争責任の場合と比較できる。日本においては戦争を防げなかったこと、抵抗しなかつたこと、戦争に積極的に協力したことにおいて、日本の「知識人」の責任が問われた。北朝鮮に「知識人」がいるのかは定かではないが、北朝鮮の一般の人々は、積極的に戦争に加担したのか、それともだまされていたのか、脅迫されてやむなく従っていたのか。それは第二次世界大戦時の日本の民衆の場合とどう共通し、どう違うのか。他方攻撃された日本政府にも、攻撃を防げなかった責任、攻撃される前に攻撃しなかった責任、無作為の作為の責任、日本人を見殺しにした責任が問われるかもしれない。また逆に北朝鮮を刺激挑発し、先制攻撃をするように追い込んだ責任もある。そして未来の戦争責任は、過去の戦争責任をどう相対化し、どう変えないのか、逆に過去の戦争責任は、未来の戦争責任にどのように影響するのか。
 今後日本が北朝鮮に対してどう対処するにしろ、ここで挙げた、あるいはまだ挙げていない未来の戦争責任を負う可能性を考慮する必要がある。戦争をすることと戦争責任を負うこととは違う。いかにして戦争をしないかだけではなく、いかにして戦争責任を負わないで済むかを考えて行動をするのが、現実的な政治ではないか。被害者になるのと加害者になるのはどちらも御免であるが、どちらがましなのか。私の中では、二度と戦争はしたくない(私自身は一度も戦争に加わったことはない)という気持ち以上に、二度と戦争責任を負いたくない(一度目はある意味でその一端を負わされ続けている)という気持ちがリアルである。今日本で戦争を煽っている人々は、その戦争の結果、未来に日本が負わされるかもしれない戦争責任について自分が責任をどう取るのかを明らかにするべきだろう。日本の安全をどうするかについて無償(あるいは有償?)の饒舌がさえずっているが、未来の戦争責任について今のうちから考えることこそ、緊急なのではないか。

九月のハイドン

 九月は、大野和士指揮都響のハイドン「天地創造」、 海野幹雄のチェロ独奏によるハイドンのチェロ協奏曲第一番、第二番他、ハイドン・ロンドン・カルテットとホープリッチによる演奏会を聴いた。
 「天地創造」はスウェーデン放送合唱団のパワーに圧倒された。大野の解釈は、合唱の終わりに決まってテンポを落とすなど、大時代的な懐かしみはあったが、ちょっと大味で、六月に聞いた鈴木秀美の「天地創造」の方がオーケストラの響きは澄んで美しく感じられた。しかし鈴木の「天地創造」ではバスが大事故で、酔っ払いの歌を聴いているような感じだったのに比べ、ソリストは無難だった。ソプラノのヴィブラートは耳障りだったが、テノールは音量があって気持ちよく聴けた。それにしても「天地創造」の音楽はSF的だ。まるで機械を組み立てるように天地が創造されて行くが、この圧倒的な肯定の力はハイドンだけのものである。ただし序奏の混沌の表象の最後に交わされる木管のきれぎれの対話は、「トリスタン」を確かに予言している。また第三部のアダムとエヴァの二重唱は個人的に「マイスタージンガー」第三幕を連想する。
 海野幹雄は、どこかで聞いたような名前だと思ったらヴァイオリニストの海野義雄の息子だった。海野義雄と言えば昔、芸大事件でテレビで叩かれていたのが印象に残っている。ヴィターリのシャコンヌなどを録音したCDを一枚だけ持っているが、良くも悪くも大時代的な巨匠的演奏だった(CDの音がデッドでキンキンしていて音色はよくわからない)。海野幹雄の方は、堅実な印象のチェロだったが、ハイドンでは下手に時代を意識するよりはもっと前に出て巨匠的にやっても良かったのではと思った。その意味ではハルヴォルセンのパッサカリア(チェロとコントラバスの二重奏販)が白熱していて楽しかった。ハイドンではバックの室内オーケストラも力演していたが、仲間同士の和気藹々とした雰囲気は、幕間に楽屋裏から聞こえてくる大きな笑い声からも窺えた。ハイドンの二曲には、新垣隆作曲のカデンツァが付くということで注目していたのだが、第二番の方のカデンツァが期待に応えた脱線ぶりで面白かった。途中でホルンが退席してステージ裏から音を響かせ、また舞台に戻って来る。そして最後にオーボエがなぜかハイドンのピアノ協奏曲十一番第一楽章の主題を吹いて、エンディングになだれ込む。トランペット協奏曲にシュトックハウゼンがつけた奇天烈なカデンツァが私は好きなのだが、ハイドンの協奏曲には、現代音楽テイストのパロディ感覚のあるカデンツァが似合うと思う。演奏後例によって新垣氏が客席から壇上に呼び出され、拍手に応えていたが、そのビクトリー・クラスプの身振りには、かつて佐村河内氏が同じような身振りで拍手に応えていたのを思いした。オブスキュアな中に情熱が火照る不思議な演奏会だった。
 ハイドン・ロンドン・カルテットは、久しぶりに「本物」を聴いた気がした演奏会だった。古楽器演奏は、最近そのパイオニアたちが次々と世を去り、勢いがない感じもするが、ハイドン・ロンドン・カルテットは正統的な古楽器演奏の王道を行く充実した演奏をする。最初の演奏会でハイドンの作品50の2を聴いたが、その冒頭からその美しい音に魅了された。とりわけその柔らかく繊細なフォルテは素晴らしい。絶対にうるさくならず、無理をしない軽い澄んだ音なのだが、そこに無限の深淵が開けて来るさまが衝撃的だった。彼らのハイドンのCDは全部持っていて愛聴しているが、実演はCD以上に凄かった。作品64の5の有名な冒頭も非常に細かい表情のついた耽美的なフレージングで、まさに「ひばり」が空高く舞い上がる無重力の音楽だった。もう一つ聴いた作品54の3は第一楽章がハイドンの中でも他にあまり類のない川の流れのような音楽で、不意打ち的に現れる締め付けるような和音が印象的なのだが、ハイドン・ロンドン・カルテットは、静謐で瞑想的な世界を完璧に作り上げていた。モーツァルトのアレグロが「歌うアレグロ」だとすれば、ハイドンのアレグロは「考えるアレグロ」である。四人の奏者が自発的にそれぞれのアイデアを出して議論を戦わせるとても立体的な演奏だった。中でもヴィオラと第二ヴァイオリンが頑張っていて、「ひばり」のメヌエットでのヴィオラの動機を浮き立たせる動きには特に感心した。
 それぞれの演奏会は、ホープリッチのバセット・ホルンを加えたモーツァルトのクラリネット五重奏がメイン・プログラムだったが、私にとってはその前座のハイドンがメインで、そのために、鶴見、銀座。名古屋とプチおっかけめいたことをしてしまった。ホールによって音色が違うのが面白い。ハイドン・ロンドン・カルテットはこのまま順調にハイドン弦楽四重奏曲の全曲CDの録音を続けて、早く作品76まで行ってほしい。そして今回その他に聴いた作品18の6も良かったので、余力があれば、ベートーヴェンの中期や後期の四重奏の録音もしてくれたらと思う。未だに古楽器演奏でベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲の録音がないのは不思議である。

ユリイカの蓮實論の補足

 蓮實重彦は柄谷行人と共に、私にとって長らく論じる対象ではなく、無償で知恵を恵んでもらう相手、「使う」対象、あるいは著作権侵犯を犯しても「盗む」対象だった。だから蓮實をうまく論じることなどできるわけはなく、適切な距離も取れない。デビユー間もない頃に『闘争のエチカ』 の解説を書いた時もうまく書けなかったし、ハイプリッド・クリティックで中村光夫について論じた時に中村の語学力を低く見積もったことをたしなめられた時も(『随想』)、応答のすべを知らなかった。そして今回ユリイカ臨時増刊『総特集蓮實重彦』に寄稿したが、これも依頼から締め切りまで一ヶ月しかなく、他にやることは沢山あり、やっつけ仕事になるしかなかった。
 そこで補足あるいは蛇足として、ユリイカを読みながら蓮實について私の考えていることをここに書いて置く。まず「博士号」について。蓮實は(野球評論は措いて)、文芸評論家と映画評論家という二つの顔があり、後者が「偽伯爵」とすれば前者は「マッド博士」ではないかというような見立てを考えたかった。的外れで見当違いかもしれないが、現代の「知」の「風景」の起源の一つとして、とにかく一度問題提起だけはして起きたかった。私は蓮實の書くものには基本的に快を感じるが、学歴についての発言だけは理屈抜きに不快を感じた。自身の快不快にそむくのは抽象的空論に陥るという蓮實の教えに従って書いてみたが、やはり空論になってしまったかもしれない(かっとなってやった。後悔はしていない)。小谷野敦がツイッターで学位記の写真を公表するとは思わなかったが(ちゃんと保存しているのがすごい、というか当たり前か)、何であれそのような反応が出たのでよしとすべきだろう。今の若い世代がおとなしく博士号を取るところから始めなければならないのは良く分かっているつもりなので、そのこと自体を批判するつもりはない。いずれにしても映画評論家としての蓮實は「善」であるしかないが、 文芸評論家としての蓮實はさまざまな「悪」とかかわっている。
 次に『伯爵夫人』について。『伯爵夫人』ははいろいろなテクストに似ている。私は志賀直哉『暗夜行路』と比較したが、日陰者の母が子を訪ねてまた去るという「葛の葉」的な物語としても読めるだろう(こちらが本筋かもしれない)。テクストの中で女たちが二朗の「おちんちん」を「尊い」と言っているのを見ると、ツイッターで見る『文豪とアルケミスト』愛好の「司書」たちが、徳田秋声などの「文豪」たちの関係性を「尊い」とつぶやいていることと重なって、妙に生々しい同時代性を感じる。節操なく善悪を超えていろいろなものに似てしまう(蝶々夫人つながりで島田雅彦(「無限カノン」)にすら似ていると感じる瞬間がある)のはすごいと素直に思う。
 作中で伯爵夫人は、二朗の祖父の他、様々な人種・国籍の男たちに犯されたことを物語る。「見あげるように背の高い黒ん坊」「ターバンを捲いた浅黒い肌の中年男」「ずんぐりと腹の出た小柄な初老の東洋人」、イギリス軍の将校、露西亜人の血を引いた朝鮮人の元日本兵「高麗」、「高麗」が復讐を果たそうとする日本軍の大佐などである。PC的自主検閲が盛んなこの時代に、結構攻めている感じであるが、『伯爵夫人』についての批評でこのことに触れたものはあるのだろうか。現代の日本の作家でこんなに堂々と「差別」的な書き手もいないかもしれない(慰安婦像に精液かけに行こうと呼びかけた筒井康隆とは次元が違う)。イギリスとアイルランドとの関係と、日本と満州との関係がパラレルな形で出て来るのも気になる。
 『伯爵夫人』の一つの大きな柱は「戦争」である。「戦争」は男たちの戦場でのゲーム的な戦闘行為に本質があるのではなく、背後で繰り広げられる男と女の陰謀劇にこそある、というようなことを伯爵夫人は自分の経験に即して二朗に教えるようにも読めるのだが、なるほどそう言えば今巷で騒がれている北朝鮮危機も、非嫡出子(金正恩)による嫡出子(金正男)の暗殺(女を使った)によって俄に騒がしくなった印象もある。現代の「戦争」の内実も第一次世界大戦の頃と変わらないのかもしれない? まさにB級映画だが。
 蓮實インタヴューは面白かった。といっても映画についての話は分からないので、本当には読めないようなものだが、たとえばマンガの顔をみているよりも「スクリーン上でジェームズ・ボンドの顔でも眺めている方が楽しかった」という発言は、とても「らしい」と感じる。蓮實は「顔」の善し悪し(ステレオタイプ的判断からは逸脱する形で)にこだわる人だが、「顔」は「内面」の反映ではなく、「内面」から独立した「表層」であるとは言える。しかし何も反映しないわけではなく、「生まれ」や「育ち」は実存的にそこににじみ出る。とにかくマンガの顔はそのような蓮實的な「顔」ではない。マンガの顔について語れないことは、蓮實の世代的限界とは言えるのかもしれない。「表層」と呼ぶことすらできないマンガの顔(アニメの顔でもある)は、蓮實的な「顔」による価値判断の秩序を無効化する。『文豪とアルケミスト』の一周年記念冊子の表紙を選ぶ人気投票(投票したのはほとんど女性と思われる)では志賀直哉・小林多喜二・徳田秋声がベストスリーに選ばれたそうだが、顔などすべてアニメ的な美男子顔に置き換えてしまえば、白樺派・プロレタリア文学・自然主義文学が簡単に復活できてしまう可能性があるのだ。
 また「柄谷さんとは、何度も対談しましたけれども、大筋では合意しえても肝心な点で話が通じたと思ったことは一度もなかった」という発言は、「肝心な点で話が通じたと思ったことは一度もなかった」ではなく、「大筋では合意しえ」たことの方に重みを置いて受け取るべきだと思う。蓮實が現在は否定的に回想している『夏目漱石論』『表層批評宣言』『小説から遠く離れて』は、蓮實と柄谷が「大筋では合意しえ」たことの内容を具体的に示している。柄谷と蓮實の握手は、現代日本の批評の光景を作り上げた原点として決定的な意味があり、「肝心な点」なんてどうでもいい話である。蓮實は「たしかに川端は優れていないところもあるけれども、どれほど下手な作家であっても、やはり批評家よりは偉いはずではないか」と言っているが、にもかかわらず川端と谷崎の間に優劣をつけることはするのだから、柄谷とやってることと本質的な違いはない。蓮實は詩についての不感症を告白しているが、蓮實のレトリックをそのまま返せば、どれほど下手な詩人であっても、やはり小説家より偉いはずである。現代日本の文壇が忘れているのは、この真実ではないか。詩人がいないから批評家が代行している。
 再録された処女作「エドゥワール・デュ・コペ氏の行動の記録」は、その短文の連続に驚かされる。あの息の長い蓮實文体は、この後に形成されたものなのだ。ただ「真の批評とは対象が何であるにせよ、一種の恋愛状態を通過した後にはじめてかたちづくられるものだと思っています」という主人公の言葉は、まさに三つ子の魂百まで、蓮實そのものの言葉に違いない。
 私は一度だけ生身の蓮實氏を見たことがある。大昔学生の頃、蓮實の講演会に行ったのだが、溝口健二の『雨月物語』の原作者について、上田秋成と言うべきところを徳田秋声と言い間違えたのを覚えている。蓮實氏の口から徳田秋声の名前が出たのはたぶんこの時一度きりと思うので、貴重なめぐり合わせだったと思う。

ハイドンの「メスト」

 私のハイドンについての二大情報源はロビンス・ランドンの『ハイドン・クロニクル』全五巻とマルク・ヴィニャルの『ハイドン』(昔日本語訳されていた「不滅の大作曲家」シリーズの小冊子ではなく、1989年にフェイヤール社から出版された1500ベージを越える大著)である。どちらもなくてはならないが、ランドンのハイドン解釈には癖が感じられて(ハイドンがベートーヴェンの作品18を知って、作品77のシリーズの作曲を途中で止めたなどというのは違うだろうと思う)、最近はヴィニャルの方を初歩的なフランス語の知識を頼りに拾い読みしている。
 そのヴィニャルの本の中の、弦楽四重奏曲作品76の5についての解説の中で、フェリックス・メンデルスゾーンの姉のファニー・ヘンゼルがイグナツ・モシェルに宛てた手紙の次のような一節が引用されていた。「モシェルさん、あなたも良く覚えていらっしゃると思いますが、あなたが私たちとご一緒したある秋の晩、フェリックスはハイドンのある弦楽四重奏曲の嬰ヘ長調の崇高なアダージョを演奏しました。私たちの父はハイドンをこの上なく愛好していたのですが、この曲を聴いたことがなく、そして聴いて深く感動したのでした。父は聴きながら泣き始め、そして後で、この曲に無限の悲しみを感じたと言いました。フェリックスはそれを聞いて驚きました。というのも「メスト」という語はもちろん楽譜に書かれていたとはいえ、私たちはむしろそれを陽気な曲と感じていたのですから」。
 フェリックスの父アブラハムは1776年生れで、ベートーヴェンの6歳下である。ハイドンがこの曲「ラルゴ・カンタービレ・エ・メスト」を作曲したのは1797年頃で、アブラハムが二十歳を越えた頃だった。アブラハムは同時代人としてハイドンを聴いていたのだが、その父の聴き方と娘や息子の世代の聴き方に根本的な断絶があることをこのエピソード(フェリックスはフォルテピアノで弾いたようである)は示している。これは何時の時代にもある親子の間の世代的な感受性の違いということを超えて、一つの歴史的なパラダイム転換についての証言と見ることができる。
 すなわちおそらく十九世紀の初めに、現代まで続く音楽の「風景」が成立したのであり、その後に来た(あるいは指揮法の確立やバロック音楽の復興によって「風景」の成立に関与した)フェリックスやファニーは、この「風景」のフィルターを通してしかハイドンを聴くことができず、ハイドンの「メスト」を聴き取ることができなくなっていた。この曲は、ハイドンの弦楽四重奏曲の中で人気曲の一つだとは思うが、しかし現代でもその「メスト」(イタリア語で「悲しく」の意)が十分に聴き取られているとは思えない。私も別に理解している気はないが、しかし(特に実演で)聴くたびに鳥肌が立つような感覚を覚えるところがある。去年所沢の松明堂で聴いた古典四重奏団のハイドン弦楽四重奏曲全曲演奏会のラスト2回のコンサートは、作品76の4~6と作品77の1の4曲の連続演奏というハイドン好きにとってはこの上なくご馳走的なブログラムで、その2番目に演奏された「ラルゴ」も力強く美しい演奏だった。今年拝鈍亭で聞いた鈴木秀美率いる楽遊会弦楽四重奏団の「ラルゴ」も良かった(毎度のことながら狭い蒸した空間でオリジナル楽器で音程をとるのは大変そうだが、間近に聞く弦の音色は現代楽器に代え難い魅力がある)。作品76の5はニ長調だが、第二楽章は遠隔調の嬰へ長調で、楽譜を見ると♯((ドイツ語でクロイツ=十字架))が多いので「墓場のラルゴ」という仇名があるという(ハイメラン&ハイリッヒ『クルテットのたのしみ』)。実際この楽章は「死」の雰囲気に満たされている。以前にもこのブログで少し書いたが(「ウィーン弦楽四重奏団の「ラルゴ」」)、敢えて標題的にイメージ化して見ると、この楽章の提示部は「生への告別」、展開部は「死の苦悩」、そして再現部は「彼岸への旅立ち」を表しているように感じられる。ゆっくりと歌われるべきだが、2分の2拍子というリズム指定によって、「静」と「動」を同時に表現することが求められる非常に難しい音楽だと感じる。この楽章に少しでも比べられるのは、私にとってマーラーの交響曲第10番(クック販)の第5楽章(最後に嬰へ長調に達する)ぐらいである。
 「メスト」という感情記号をハイドンが使ったのは、私の知る限りではこの曲だけであり、この曲が特別なものであることを示している。ハイドン以前に「メスト」という語を用いた例としては、私はC.P.Eバッハのチェロ協奏曲イ長調の第2楽章「ラルゴ・コン・ソルディーニ、メスト」しか知らないが、この楽章は短調で、バロック的な情緒の残滓が感じられる。またハイドンの「ラルゴ」とほぼ同時期にベートーヴェンがピアノ・ソナタ第7番ニ長調の第2楽章「ラルゴ・エ・メスト」を書いている。この楽章も短調であり、曲想はハイドンとは異なる悲壮な雰囲気を漂わせている。あるいはベートーヴェンはハイドンの曲を知って敢えて対抗して同じ「メスト」という言葉を使ったのかもしれない。ベートーヴェンは後に弦楽四重奏曲第7番の第3楽章「アダージョ・モルト・エ・メスト」でも「メスト」を用いているが、やはり短調で、ジプシー風のエキゾティックな雰囲気があり、内面に沈潜するというよりはやや外面的な効果を狙った印象を受ける。ハイドンの「ラルゴ」だけが長調で、後にも先にもない孤高の世界を形成している。
 メンデルスゾーンとハイドンと言えば、8月の初めにミューザ川崎で、鈴木秀美指揮神奈川フィルの「フィンガルの洞窟」「イタリア」と「ロンドン」というプログラムの演奏を聴いたのだが、前半のメンデルスゾーンと後半のハイドンが、同じ編成なのに音色が全く異なっていることに驚かされた。一言で言えばメンデルスゾーンではクラリネットが音色の中心にあり、ハイドンではオーボエが中心にある。どこかで読んだ記憶があるが、オーボエは貴族社会の象徴であり、新興の楽器であるクラリネットは市民社会の象徴としてオーケストラの女王の座をオーボエから奪ったという話がある。まさに「革命」前と「革命」後である。そしてメンデルスゾーンのオーケストレーションは確かに機能的で円滑に動く完璧な機械と言えるが、しかしその均質的な響きは新しい音楽の「風景」にふさわしいものであり、私には今ひとつ単調に感じられた。やはりハイドンのでこぼこした不均質な響き(現代日本の大きすぎるコンサートホールでは聴き取り辛い)が私は好きである。鈴木氏の演奏はいつものように期待に応える迫力と繊細さを兼ね備えたものだった。第一楽章の第一主題は、ブリュッヘン(鈴木氏は一八世紀オーケストラでチェロを弾いていた)の同曲のCDの解釈と同様、弱音過ぎず厚みのある弦で和音を響かせて歌うのが良い。それにしてもこの「ロンドン」という曲も、そのまぶしいほどの明るさにもかかわらず(明るいが故にかもしれないが)、やはり一つの別れ(ロンドン、交響曲というジャンル、18世紀からの)の音楽であり、底流に「メスト」をはらんでいると、改めて強く感じた。  
プロフィール

大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』

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